鍵盤の上の戦場
青一色の街並みも夕焼けに染まり、街道に灯火がさすころには昼間の喧騒もなくなり、観光に訪れる者も宿場街に消え明日への為に早々に寝息を立てる時間でも、一部の歓楽街では、昼間に負けじと呑めや歌えのどんちゃん騒ぎになる。
やはりお酒の魔力はドコへ行っても変わらない。
スクルージディスコニアン歓楽街にもいくつかある酒場の一つ。軒先に篝火を焚き、1日の疲れをねぎらうための酒場。 丸太で組まれた二階建てのログハウスは今日も繁盛していた。
【サウザンド】
本来ならばガイドブックに掲載され、街の観光名所に相応しい酒場である。
肩口から二の腕まで露出させたピンクのチューブトップは胸を強調して、遠巻きに見る客の目線を独り占めにしている。 黒髪ロングのウェーブは、どこか異国の異邦人のようで真っ白な肌がさらにミステリアスを演出している。
黒と白の鍵盤の上は彼女にとっての戦場なのであろう。左右5対の指は鍵盤の上を激しく行き交い、観るものも聴くものも時間を忘れて虜にしている。
彼女はこの酒場で演奏するピアニストだ。
【サラ=クレストリナ】
夜のスクルージディスコニアンに来たのならば、このサウザンドに来なければ、絶対に損だ。
あたしは一階の入り口近くのテーブル席で、1人グラスに注がれた真っ白い飲み物をちびちびと口に運ぶ。
酒場と言えばお酒を飲んでグラスをぶつけ合い和気藹々と楽しむのが普通だけれど、1人こうして静かに飲む方があたしには向いている。
数曲目の演奏が終わると、サラは立ち上がり酒場をグルリと見渡してから礼儀正しく頭を下げる。
胸元を極端に露出させたチューブトップにヒップハングのフレアスカート。フレアスカートから生える足は網タイツのみ。一般の女性よりも、頭が一つ抜きでていて細身の長身。悔しいけど巨乳。控え目な声で感謝の言葉を一言伝えると、酒場で飲んでいる全員が盛大な拍手を贈る。
彼女が【サラ=クレストリナ】としてこのサウザンドで定期的にピアニストとして演奏する顔以外の外の顔は、サウザンドのマスターと極一部の人間しか知らない。
彼女が再び腰掛け、左右5対の指を戦場に戻すと、場のムードにあった演奏が始まる。
静かな曲の中にも内側から湧き出る力強い音色は聴くものを離さない。
ちびちびと飲んでいた白い液体が残り少なくなり、おかわりをもらいにカウンターへ足を運ぶ。
真っ黒なスーツジャケットに身を包みカウンターの向こうでグラスを磨きながら飲み物を給仕するマスターにおかわりの超濃生乳をオーダー。
あたしは決してお酒が飲めないワケではない。
ただ、牛乳が好きなのだ。
牛乳の素晴らしさは酒好きには多分わからないと思う。
酒場で牛乳だなんて! と思うかもしれないが、そんな事はない。
酒場で飲むからこそ牛乳なのだ。
しかもこのスクルージディスコニアンの牛乳、否。サウザンドの牛乳は格別。
濃さといい、飲みやすさといい、色もさることながら香りも素晴らしい。
あたしが牛乳マイスターであるならば、五つ星をあげたいくらいだ。
円筒形の縁が狭いボウルに注がれた白い牛乳の香りを楽しみながらステムに指をかけてリムに唇を着ける。
冷たい液体が舌を優しく愛撫する。
給仕された超濃生乳をここでやりたいけれど、少し我慢。 トレイに載せて元のテーブルに戻ろうとした時だった。
符丁。
サラの演奏が微妙に変わる。
場の空気にあった音色ではあるが、微妙に変わるのだ。同じフレーズを数回。
1人テーブルを諦め、サラの近くのカウンター席にトレイを置く。