4話目。
「96円のお湯は、96度ってことでいいのか? カップ麺に適した湯ってことでいいんだよな?」
「はい!」
男は抱く疑念と表裏一体の確認を投げかける。
少女はそれに間をおかずにあっさりと応えた。
まるで、「30円のお湯」の事は男が確認しなかったのが落ち度であったと言わんばかりに。
聞かれなかったが故に答えなかっただけのことで、自らに落ち度は無いと言わんばかりに。
流石に、「それは摂氏か?」と聞く意味はないだろう。
「華氏30度」なら中身は氷になっているはずだし、そもそも先ほど「゜C」の表記を見たばかりだ。
大丈夫、俺はまだ冷静だ、と男は自分に言い聞かせる。
明朗に回答しただけの少女のその様は、落ち着きかけた男の精神を思いがけず揺さぶっていたのだった。
とはいえ、ここからもう一つのカップラーメンとお湯を買うとなると、
合わせて146円。更に先の買い物と合わせると226円だ。
一食としても高い買い物になってしまうし、ここが引き際なのかもしれない。
男が勇気ある撤退と無価値の意地との間で揺れていると、その様を察したのか、少女が声を上げた。
「もしよろしければ、二つ目のカップラーメンは10円にお値引きさせていただきましょうか?
タダでお渡しするのは、私が怒られてしまうのでできないのですが、お客様のためなら、今回だけ特別に、お値引きさせて頂きます」
驚きの8割引である。
この値引きの結果、買い物の総額は186円まで安くなり、今回の買い物のみに限定すれば僅かに106円だ。
妥協して買ってしまうには、魅力的すぎる交渉であった。
「これ以上変な売り物押し付けんじゃねえぞ。
ワザとやってるんだろうが、てめぇの売り物は説明が足りねえ。
モノの説明をきっちりしてくれてりゃあ、俺は今頃…」
こんな想いをしなくて済んだのに。と言い終える前にもごもごと言葉尻を濁していた。
そもそも何らかの形で稼ぎを確保している手法を探るために話しかけたのに、その毒牙が直後に自らを襲う可能性を考慮できていなかったのは、他ならぬ男自身の落ち度だ。
取り戻したと思った冷静が上っ面だけのものだと改めて自覚し、自信が揺らいでしまう。
今一度冷静になろうと、男が深呼吸しようと息を大きく吸い込むと同時、少女が目を合わせて返してくる。
「大変申し訳ありませんでした。ちなみにこちらの抹茶バニラ味なら5円で提供させていただけ…」
「いや、それは要らない。しょうゆ味で頼む」
危うく吸い込んだ息の吐きどころを失いかける。
普通このタイミングは客側が得に感じるようなものを勧めるところだろう、と憤りを感じながらも、詫びの言葉と並列して流れるように不良在庫の処理をしようとする強かさにほんの微かに感心すらしてしまった。
やはりこの少女、ただものではない。頬を伝う汗の冷たさが男を我に返らせる。
「では、こちらのカップラーメンのしょうゆ味をお一つと、
96円のお湯をお買い求めということでよろしいですね?」
男は受けとった言葉の一言一句を噛み締め、脳内で何度も繰り返した。
この状況で「96円のお湯は96mlしか使えないんですよ」なんて言い出すようなら、
その場で殴り倒してカップ麺だけでも全部奪って帰ってやろう。
男は極めて冷静に物騒なことを考えながら、少女に106円を手渡した。