一歩先
人は、危ういバランスの上になりたっている。一本のロープの上を歩いているのと同じといえる。
そこに風が吹いてしまえば、どうなるだろうか。弱い風なら、こらえられるかもしれない。
しかし、その風が強大ならば。
今、俺の前で見えるその光景が、まさにそれだった。
自分の前にいる、医者の「罪」。
それを暴き出すことは、どのような形であれ、自分の、そして彼の均衡を破壊する行為に他ならないだろう。
それでも。救える人がいて、救われなかった、救えなかった人のためにも、この目はあるんじゃないか。
俺は、平和を愛している。だけど、誰かの犠牲に上に成り立つロープなら、喜んで飛び降りてみせよう。
同時に脳内に渦巻く疑問があった。「見えている罪は正しいものなのか」
当然の疑問だった。最初この考えに至るのが正常といえたが、見えているものが異常故、しかたがなかったと思いたい。
本当にこの目が正しいのなら、医者の「罪」は医療ミスと無理心中と大きなものだ。
一言二言なにか伝えたからといって、信用してもらえるとは思えない。
ここは、一度保留にしよう。今確かめるべきなのは、今見えている景色が正しいかどうかだ。
俺は、病室のカーテンを開ける医者の動きを目で追いながら、開けられたカーテンから差し込む太陽光に目を奪われながら、一人考えた。
「難しい顔をしているね、大丈夫かい?」医者は俺に問いかける。
大丈夫だと伝えると、優し気な笑みを俺に向けてくれた。後ろから射す光と老人らしい皺の寄った顔も相まって、なるほど菩薩のように見えた。目に見えるこの、「罪」さえなければ。
程なくして俺は退院となった。目には異常はない、とのことだ。
病院から出ると、春先らしい暖かい陽気と、咲き誇る桜が心地よかった。
しかし、それに浸る余裕はなかった。俺を病院送りにした元凶たる、あの黒いコートの少女は、一体どこにいってしまったのか。医者から退院を告げられた後、彼女からの接触はなかった。
ーーーー選ばれた。彼女は確かに、そう言い残した。
その意味は俺には、まだ分からないけれど、進むしかない。
そうすることが、正解じゃないかと、前向きに捉えることにした。
やわらかな日の光と春の風が、俺を後押ししてくれると信じて。