硝子玉
古ぼけた駄菓子屋のトタン屋根は、昨晩の雨に濡れている。滴ってくる濁った水滴のちょうど当たらない位置に、彼女の座る長椅子は置かれていた。雨は深夜のうちにすっかり止んでいた。8月の正午らしく照り付ける日差しは色素の抜け落ちた彼女の髪に反射して、きらきらと輝いて見せた。腰も背も曲がった彼女は痛いほどの日差しに当てられていても、その長椅子から立ち上るほうがおっくうだと判断を下す。
蝉の合唱に紛れて、どこか遠くから風鈴の音が聞こえる。彼女はふと手の中の薄水色のガラス瓶をみて微笑んだ。光に透かすと、水の中を小さな泡が動き回っているのがよく見えた。そんな他愛もないことがなにか妙に楽しくなって、彼女は何度も角度を変えて瓶を宙に晒す。そのうちふと思い立って、彼女は視点の焦点を瓶の中の液体から、さらにそれを通した景色に当てた。硝子に閉じ込められて歪んだ景色は、ただ一様に薄水色をしている。彼女は今度はそれが面白くなり、あっちの景色こっちの景色を硝子越しに覗いていく。一通りあたりを薄水色にしてから、彼女は視界からその硝子瓶をどかした。飛び込んでくる色彩の波の中、彼女はふとそこにさっきまで無かっ た筈の一点の穴を見つける。
穴と思われたそれは青年だった。
青年は長そで長ズボンの学生服に身を包み、頭には学帽を載せていた。まるで夏の装いではなかった。それに加えてそれらすべてが真っ黒なので、殊更鮮やかな夏の視界のなかで彼は穴のようにみえたのだ。
「あら、あら、まあまあ。」
彼女がつい声を漏らせば、青年は静かに腕をあげる。装いと対照的に、彼の肌は真っ白い。彼はゆっくりとした動作で、彼女の手の中を指差して見せた。
「それ。その、硝子玉。ビー玉ではないんですよ。知ってました?」
青年の声の調子はあまりに静かで、静かで、本当に静かで、瞬間あたりの音を全て消してしまうくらいには静かだった。彼女は青年の顔を見つめる。感情の浮かばないそこも、やはり静かだった。
「…お久しぶりね。一年ぶりだわ。」
彼女は皺の沢山刻まれた顔を、くしゃりと崩して笑った。それから彼が指差した彼女の手の中の瓶、ひいてはその入り口で蓋の役目を果たしているその硝子玉に目を向ける。
「ふふ、私が知らないと思ったのかしら。年寄りの知識を馬鹿にしないことよ、これってエー玉というのよね。」
彼女が言えば、青年は少し動きを止めて、それから頷いた。彼女はその反応に、満足げな笑みを浮かべる。
「長いこと駄菓子屋のお婆ちゃんをやっているのだもの、私。ラムネの硝子玉って、キレイな、完全な球でないと蓋にならないのよ。でないと、炭酸が抜けてしまうから。」
彼女は饒舌に語る。しわがれた声がさらに少し掠れた。
「それで、完全な球になってラムネの蓋になれる硝子玉はエー玉、A玉というのよ。ビー玉はエー玉の出来そこない、どうかしら、正解かしら?」
首を傾げて、彼女が問う。青年は肩をすくめて、ハァ、その通りです、と小さく答える。
「ふふ、貴方の訪問は毎年のことだけれども、今年は随分と素敵な挨拶だったわ。」
青年がふっ、と右足をあげた。するとまた、彼は静かに静かに、気づけば彼女のすぐ前にいた。彼女に視線を合わせるべく、彼はその膝を折る。学生服の金ボタンが彼女の視界をちらついた。
「少しでも趣向を凝らしたなら、今年こそ願いを叶えてくれるかと。」
彼の、彼の「真っ黒」が彼女を真っ直ぐに見据えた。彼女はそこをしばらくまじまじと覗き込んだ。そして、悪戯っぽく囁いた。
「毎年頼まれても毎年答えは同じだわ。」
青年はその答えに特に落胆する様子もみせず、単刀直入に続けた。
「お願いです、俺の両目を返してくれやしませんか。」
彼の顔には明らかな落ち窪みが2つ、鼻筋を隔てて並んでいる。本来そこを満たしているはずのパーツが彼には備わっていない。彼女はニコリと笑う。
「だって、だって、あなたの瞳、あんまりキレイな球だったのよ。それこそエーの硝子玉だわ。」
彼はため息をついて瞼をそっと伏せる。するとまさしく言葉通りの「穴」が、その「空洞」が隠れた。そうすると嗚呼、昔となにも変わらない。彼女は青年の長い睫が影を落とすさまを見て、胸の内で呟いた。
彼が冷たくなってしまう前の、灰になってしまう前のあの頃と、やっぱりなにも変わらないわ。
「どうぞ返してくれやしませんか。」
青年は瞼をあげ、その台詞を再度吐いた。瞼をあげたそこにあるべき球はない。
「黄泉へ渡る道が、アレがないと見えません。あなたが遠い日に持ってっタ、抉り取った、隠した、眼球がなくては黄泉に渡れやせぬのです。」
無機質な声で、彼は歌うように懇願した。もう何十回もきいたそれだった。彼女は微笑んで、お決まりの返答を返してみせる。
「いけません、私より先に死んだ貴方がいけないの。アレは形見として貰ったのですよ、返してなんぞやりません。」
彼女はこれを答えるとき、まるで遠い日の、まだ濡れ鴉の羽根の色の髪を三つ編みにしていた頃の自分に途端戻ったような気分になる。
葬儀のすぐあとに、火葬場に彼が連れて行かれてしまう前に、彼の顔を見にいった。彼女は何十年と経った今でも、そのとき何故自分がそうしたのかがわからないでいる。ただ彼女は、閉じられていた彼の瞼をこじ開けて、そして彼の瞳を見た。まだ魂の抜けて間もないそれは、濁りもせずに美しかった。涙もまだ乾いていない、ゆらゆらと彼女が手にした灯りがその水面に揺れた。それを目にした瞬間、なにか。なにか、頭の芯がジンと痺れたのだ。例えるなら、長い長い夢から目覚めた朝のような。ひどく疲れて、さあ眠ろうと床に就いた夜のような。とにかくその感覚が、彼女が記憶の糸を手繰り寄せて到達できる最後なのだ。
そのあとはただ気がついたら、彼女は死んだ恋人の眼球を掌の中に転がしていのだった。
「そろそろ返してもらわないと、自分は怨霊になってしまいそうなのです。」
夏に死んだ、命を落とした青年は、次の夏に再び、彼女の前に姿をみせた。生前とよく似た、ただ一か所だけが完全に欠損した姿で。
「怨霊でもなんでも仕方のないことだわ。アレを返すのだけは絶対に嫌。」
駄々をこねるような彼女の言葉は、しわがれた声にひどく不釣り合いに思われた。青年は表情を動かさないまま、ただただ無い瞳で彼女を見つめた。
「貴方にはもう夫も子も孫もいるというのに。何故、まだ自分の眼球なぞに縋るのですか。」
風が吹いた。どこかで水でも撒いたのか、それともこれも昨晩の雨の名残なのか。そのぬるい風からはひどく湿った匂いがした。
「さあ、ねえ、どうしてかしらねえ。ただ言えるとすれば、あなたの瞳がAの硝子玉だったからだわ。」
彼女はあの日、自然彼の瞳を抉っていた理由を知らない。知らないけれど、もし推理をするとするなら、これと同じだと考えていた。
彼の瞳が、真円だったから。
彼の瞳が、蓋になると思ったから。
放っておけば消えてしまう小さな泡のような青年の記憶を、守りうると思ったから。
青年が死んで、親に勧められた相手とケッコンをした。旦那になった男は誠実で優しい男だった。数年すると娘が生まれた、娘はあっという間に成長して、同じくらい若い男と恋に落ちた。また数年が経つと、孫が生まれた。孫も日々成長する、もう気が付けば今度の春から中学生になるという。
そして、その、どの夏にも青年は、「瞳を返せ。」とやってきた。
「あのね、ねえ、言ったでしょう。完全な球隊の硝子玉はね、蓋になるのよと言ったでしょう。」
彼女はすっかりぬるまってしまった瓶を彼の前にかざした。硝子玉は瓶よりいくらか濃い、くすんだ青をしていた。
「ねぇ、ほら、キレイでしょう。」
彼女は笑った。今度は老婆の喉から発せられたとは思えないような、からころ、からころ。それこそ硝子玉を転がすような笑い声だった。
「…ああもう、駄目だ。今年も、黄泉へは渡れない。」
青年は呟いて、立ち上がる。彼女はその動きを目で追っていたはずなのに、気が付けば彼の姿はもうどこにもなかった。彼女はただ向かいの空き家の朝顔の、瑞々しい色をみた。景色の穴はすっかり埋まっている。
彼女は瓶を改めて持ち直す。キャップの周りを囲う安っぽいプラスチックのラベルを剥がして、玉押しを手にする。玉押しもやはり安っぽい色をしていた。彼女は瓶を足と足の間に置くと、蓋の硝子玉に玉押しをのせる。そうして、勢いよく両手で体重をかけた。
かしゃろん。
得も言われぬ、清涼感があたりに響いた。セミの合唱と、遠くの風鈴の音に混じったその音は、青年が残していった静寂の余韻を打ち破る。硝子玉は、完全な球体のA玉は、硝子瓶の中に閉じ込められる。彼女はそれをよく確認して、瓶に乾いた唇を付けた。人工的な甘ったるい液体が、彼女の喉を少しずつ潤していく。
炭酸は、少しも抜けてはいなかった。
比較的自分らしいなと思ってるお話