#02-2 JK on the run
あたしはすっかりリラックスしてしまった。
あたしの手によって乳白色になった紅茶は、もうあたしのお腹の中にすべて流し込まれていた。仕事を終えたカップが受け皿の上でくつろいでいる。
店内には、時計の秒針の音と店員さん二人が作業をしている音が雨をBGMにして静かに響いていた。
ああ、なんか眠くなってきたな……。
「それにしても」
「はい? はい!」
不意にマスターから話しかけられたあたしは、眠気のせいで少し変な返事をしてしまう。マスターは構わず言葉を続けた。
「よく俺がマスターだってわかったね」
変な質問だ。
「だってそういう格好してるじゃないですか」
「まあそれはそうなんだけどね」
「でも若いなって思いました。お店の感じ的に、もっと髭もじゃのおじいさんがやってそうな」
しかし思うところはあったので、それを告げてみた。
「ああ、やっぱり」
あたしはマスターが期待していたことを言ったようだった。
「もともと俺の祖父がやってた店だからね。ちょっと事情があって今は俺が代理でやってるんだ」
「おじいちゃんの代理……」
何か深い訳がありそうだった。聞いてみようかと思った瞬間、重大なことを思い出す。
「あっ!」
思わず声をあげてしまった。お姉さんがびっくりして、「どうしたの?」と聞いてくる。あたしは足元の鞄をまさぐって携帯端末を探しながら、
「ちょっと電話していいですか?」
と許可を求めた。そう、”おじいちゃん”で思い出した。
おばあちゃんに連絡するのを忘れていた。
あたしが外に出ようとすると、お姉さんがほかのお客さんいないし中で掛けていいよと言ってくれた。ありがたく、店内で掛けさせてもらうことにした。しかし二人の目の前だと若干掛けにくいので、お店の窓際の席を借りた。まだ雨が降る窓の外を眺めながら、呼び出し音を聞く。
あたしは今の高校に通うため、おばあちゃん家に居候している。実家はもっと内陸のほうの街で、通うには遠すぎたせいだ。
おばあちゃんはだいぶ前におじいちゃんを亡くして、一人暮らしが寂しかったからとあたしを歓迎してくれた。そんなおばあちゃんを心配させるわけにはいかなかった。
おばあちゃんが電話に出た。案の定心配そうな声だ。あたしは今の状況を説明して、雨が弱まるか止んだら帰ると伝える。喫茶店で雨宿りしていることを聞くと、おばあちゃんはいくぶん安心したようだった。それであたしも安心した。そのあと、二言三言交わして、もう一度心配しなくていいことを伝えて、電話を切った。
「すみません。ありがとうございました」
カウンター席に戻りながら、そう二人に言った。なんだか気恥ずかしくて、それを笑ってごまかした。
「えらいね、ちゃんと連絡して」
「ん、まあ、心配症なんですよ、おばあちゃん」
「おばあちゃん家に住んでるんだ?」
「あ、はい。居候みたいな感じです」
それから、二人に家族のことを少し話した。
そこまで深い話をしたわけではないけれど、なんとなく二人と距離が近づいたように感じた。
なのであたしは、自然と二人のパーソナルな部分を攻める質問をしてみた。
「ところで、お二人はご兄妹だったり?」
二人は一瞬目を合わして、楽しそうに言葉を交わす。
「おっ、兄妹に見えるってよ」
「私が姉だね」
「それはないだろ」
「なんでよー」
「……違うんですね?」
どうやら兄妹ではないようなので、確認してみた。
すると、さらりと正解が帰ってきた。ユニゾンで。
『婚約してるよ』
ユニゾンになったのは二人も予想外だったのか、お互いに「おっ」という顔で見合う。
婚約していたとはびっくりだ。兄妹でなければいとことか、はとことか……血縁でなければ、付き合ってるくらいかと思った。指輪をしてないのは、仕事中だからか。
「えっ! 若いですね!」
「まあそうだね」
あたしが驚くと、マスターがそう答えた。いや、マスターはまだありえそうだけど。
まずは気になるほうから。
「お姉さんおいくつですか?」
「私? 今二十二歳です」
「えっ!」
意外と大人な歳!
「見えないってよ」
マスターがお姉さんをちゃかすように言うと、ちょっとむっとしたお姉さんがマスターを睨んだ。マスターはそれをひらりとかわして、あたしの前のカップを下げて奥へ持っていった。
「そんなことないよねー」
お姉さんが同意を求めてくるが、あたしは自分に正直なほうなので、
「いや正直見えないっす」
「えっそんな! 証拠見せようかっ?」
わりかし必死だった。あたしが思ったより気にしてるのかな。
「いや信じます。大丈夫です。大丈夫」
「信じてないよその顔は?」
お姉さんかわいいし問題ないよ、という意味で言ったのだけど、お姉さんは食い下がってきた。そこで悪戯心が芽生える。ふふ、ちょっと意地悪しちゃおっかな。
「バレましたか?」
「ほらぁ!」
いい反応だ。楽しくなってきた。
「落ち着いてください。どうどう」
「どうどう? "どう見ても童顔"の略?」
「ネガティブな解釈!」
「どうせどう見ても童顔だよ……どうどうどうだよ……」
拗ねてしまった。そんなお姉さんもかわいい。でもそろそろフォロー必要かな?
「ああっごめんなさい、落ち込まないでください! あたしは好きっすよ、羨ましいです! えっと、ロリ巨乳最高!」
「それフォローになってない」
あれ?
「それに私そんなにないよ……?」
は? なんだとっ?
「いやあたしより断然ありますよ! 何度パット詰めようと思ったことか!」
あたしのなけなしの膨らみを前に発言には気をつけてほしいんですが! あなたエプロンしててもどこに胸あるかわかるじゃないですか! こちとら絶壁やらまな板やら言われるやつ!
「えええ?」
お姉さんはあたしの突然の剣幕に目を丸くする。しまったつい。でも止まらない。止めてはならない、この気持ちを伝えないことには……!
「だいたいなんで”貧”乳なんですかね? 大きいの反対は小さいでしょ? わざわざ貧しいって字使う必要あります? 完全に悪意ありますよ」
お姉さんは一瞬考える素振りを見せ、
「えっと、でもほら、豊かな胸って言ったりするから……」
その反対か、確かに。でもそうじゃない。あたしが言いたいのはそういうことじゃ……!
ん? でもそうか、豊かってことはつまり……!
「そう、そうです」
「え?」
「あなたは恵まれています」
「は、はい」
「それを忘れないでください」
「はい」
「わかっていただければおーけーです」
心持ち姿勢を正したお姉さんに、諭しにかかったあたしはそこまで言い切ると、
「んと……、なんかごめんね、不用意な発言をして」
お姉さんの申し訳なさそうな声と、その表情を見て、急に我にかえった。
自分のコンプレックスを刺激されて取り乱してしまったことを悟る。
うう……またやってしまった。
そんな暴走したあたしに謝ってまでくれるなんて。
ああ、この人は見た目は若いけど大人なんだな。
あたしはお姉さんにちょっと意地悪して楽しんでいたというのに……。
自分の行いに、恥ずかしさと申し訳なさがこみ上げてきてしまった。
「いえ、こっちこそ急に熱くなっちゃってすみません。なんか、ごめんなさい」
しゅんとしてしまう。この貧乳を気にしすぎるのやめたい……。
しかしお姉さんは優しく笑いながら、
「ううん平気。みんなコンプレックスってあるものだからね」
またもあたしの気持ちを汲むように、
「それにそこまで気にしなくても」
言葉を紡ぐ。
「あなたは充分かわいいから、だいじょうぶ」
あたしは、あたしが言うべきだった言葉を言われてしまった。
そしてそれは、破壊力があった。
もしマスターとかに言われていたら、音を立てて恋に落ちてたかもしれない。
危ない。セーフ。
でも、お姉さんに言われても充分嬉しい。いやむしろそっちのほうが嬉しいかも。
年上のお姉さんに褒められることはあまりないし、実際照れてしまってすぐに言葉が出なかった。
すると、会話の途切れ目を突くようにマスターが奥から出てきて、
「ちなみに俺は二十五歳です」
『今かー!』
今度はあたしとお姉さんがハモった。
「そうだ、お姉さん達のお名前教えてください」
タオルを畳み、まだ少し湿っているカーディガンを着て、あたしは帰り支度をしながら二人にそんなことを聞いた。雨はすっかり弱くなっていた。これならじきに止むだろう。夜になる前に帰られそうでよかった。
「名前?」
楽しい時間と、雨宿りの空間を提供してくれた人たちの名前。
「そうです。知っておきたいなって。いいですか?」
マスターとウエイトレスさんは顔を見合わせるが、すぐにあたしのほうを見て、もちろんいいよ、と笑顔で答えてくれた。
では俺から、とマスターは前置いて、
「俺は向井道永。向かうに井戸の井、道に永遠の永な」
むかいみちなが、さん。歴史の教科書で聞いたような響きだ。なんか硬派な感じがいい。
「えーっと、私は小湊空。小さいって字に、さんずいに奏でるでこみなと。空は青空とか夜空の空ね」
こみなとそら、さん。そっか、まだ婚約だから苗字は違うのか。小湊って響きかわいい。空って名前も包容力ある感じが合ってるかも。
「君は?」
「え?」
「君の名前」
マスターが言う。
そうだった。あたしとしたことが、自分が名乗る前に相手のを聞いてしまうとは。
「あたしは、土岐沢五花です」
名乗ったあと、二人にならってどんな字を書くか説明する。空お姉さんが、
「ときざわいつかちゃん。五つの花かぁ……ふふ、たくさん咲いてるね」
と言うので、そのエピソードを披露してみた。
「そうなんですよ。花の名前、候補が五つあったらしいんですけど、決められないからってこうなったらしいですよ」
「おおなるほど、贅沢な名前だな」
「へへ」
この名前は、あたしもそこそこ気に入っている。
さて。
サービスの一杯だけでだいぶ居着いてしまった。
「今日はごちそうさまでした。……あの、本当にお金は……」
「いいよ。こっちから店に入れたしな」
マスターが事も無げに言った。大人の余裕、助かります。
「すみません、ありがとうございます! 紅茶、おいしかったです」
あたしはマスターに、感謝を込めてお礼を言った。
そして扉を押した。外はまだぱらぱら降っているものの、もう雨上がりのにおいがたちこめていた。
灰色の雲の隙間から漏れ出た太陽の光が筋となっているのが遠くに見える。
「雨だいじょうぶそう? 傘持ってく?」
「いえ、平気です。もうほとんど止んでますし。ありがとうございます」
空お姉さんは最後まで気が利く。
最後に道永マスターと空お姉さんに向き直って、あたしは頭を深く下げた。
「また来ます!」
いいお店見つけちゃった。
次はちゃんとお金を持ってお茶しにこよう。
振り返ると、空お姉さんが扉のところで見送ってくれていた。あたしが振り返ったのに気付くと、手を振ってくれた。あたしも手を振り返す。
お店が見えなくなると、あたしは自然と早足、そして駆け足になった。
雨が呼んだ不思議な出会い。なんだか気分が高鳴る。追い立てられるように走っていたときとは、まるで別物の加速する呼吸。
水を満たしてきらきら光る住宅地を眼下に、濡れたアスファルトで革靴を鳴らしながら、あたしはどこまでも駆けていく。
五花が見えなくなると、空は十字路に目を向けた。五花はそこを左に曲がって帰っていったが、まっすぐ進むと、そこはなだらかな下り坂になっている。その先は、欧州を思わせるデザインを施された家々が建ち並ぶ住宅地だった。
並ぶ屋根は西日でオレンジ色に染まり、そこに残る雨水が光り輝く。
空はその光景に目を細めた。まだ湿り気のある風が空の髪をなびかせ、エプロンの端を踊らせる。空はその風を捕まえるかのように、一度大きく息を吸い、そして吐いた。むせかえるほどに濃縮された、様々な命の気配が溶け込んだ雨上がりの空気が胸に満たされる。
空はそれを堪能すると、踵を返し店に戻る。ベルを鳴らし中に入ると、
「見送りご苦労」
「サヨナラホームランしてきたよ」
「今日はこれで試合終了ってか?」
「おっ、うまいね」
空はカウンターのそばまで歩み寄ると、
「布巾とってー」
「ほいよ」
道永は手近な布巾を空へ放る。
空は布巾を調達すると、五花がいた席のカウンターを拭こうとして、
「……あれ」
椅子の脚のそばに、何かが落ちているのを見つけた。
それを拾い上げる。
「また来るかな、あの子」
「また来るよ。絶対」
乾いた食器を棚に戻しながらの道永の問いに、空は即答した。
やけに迷いがないため、道永は疑問に思い、
「……根拠は?」
と聞く。
すると空は、手に取ったものを見せる。
「ほらこれ」
「……リボンか?」
「うん。たぶん制服の。落ちてた」
「……なるほど」
空の手にぶらさがるリボンを眺めながら、道永は納得した。
これはないと困る。必ず取りに来るだろう。
道永はにやりと笑うと、
「今度は何か頼んでもらおう」
「いいね、高いケーキとかおすすめしよう」
「お主も商人よのう」
「お店長さまこそ」
街には喧騒が戻り、雲は引き、輝く金星が深海のような夜空を先導していた。
そして翌朝。
道永は掛かってきた電話を取った。相手はコーヒー豆の仕入れ先だった。
「もしもし、おはようございます。朝早くにすみません。――店長さん、もしかしてもうご存知かもしれませんが……。――ええ、そうなんです、昨日の雨と高潮で……。――本当に申し訳ございません、こちらからの提案でしたのに……もうひとつのお届け先には事情を説明して納得して頂いたのですが……。――いかがされますか?」
電話口から、本日の営業に係わることが起こったこととその理由を告げられた道永は、しかしそれは仕方なくそちらに非はない意を表した。それから、無理に届けてもらわなくて大丈夫ですよ、と伝えて電話を静かに置いた。
「参ったな……」
しかし、思わず零した。そして、まだぼさぼさの頭で寝巻き姿のままの空へ視線を向けた。
空は、リビングで朝食をとりながら、寝ぼけ眼でテレビを見ていた。
「……空、ちょっとまずいことになったかもしれない」
「んむ?」
空は、トーストを頬張ったまま返事をした。
道永が少し貯めを作ってから口を開こうとすると、テレビから昨日の雨と高潮の影響で主要な自動車道が一部通行止めになっていると交通情報が流れた。