はっち
「ほら、氷雨ちゃん」
土間に下り、靴を履いた後、その場に立ち尽くし動こうとしない私を、上がり框から見下ろしながら、母さんが困ったような声を上げた。
「もう、時間だよ」
今日から、2泊3日の野外活動。
その間、ずっと、ずぅっっと、母さんに会えないのだ。
――なにそれ、ひどい。
受け入れ難い事実に、耐えかねた私は。
立ち位置の関係から、いつもとは違い、眼前に存在する大きな『おっぱい』へと、顔を押し付けて、囁いた。
「……寂しいよ、母さん」
そのまま、顔を左右に動かして、やわらかな感触を味わう。
むにゅむにゅして、気持ちがいい。
私は、母さんの『おっぱい』が、好きだ。
いやらしい意味ではなくて、ひどく癒されるから。
赤子の頃に感じた幸福感を、想起しているのかもしれない。
母さんもそれを知っているから、こういう時だけは、ある程度までなら抵抗しないのだ。
……でも、本当は。
いやらしい意味も、なくは、ない。
というか、ないわけが、ない。
私は、母さんの『おっぱい』が、大好きだ。
「……」
顔を谷間に埋めたまま、深呼吸して、匂いも堪能する。
――……今更、駄々を捏ねたところで、どうしようもないことはわかっているのだ。
結局のところ、あと数分後には家を出て、陽南と待ち合わせ場所で落ち合ってから、集合場所の駅に向かわなければならない。
だから、今のこの行動は、少しでも多く『母さん分』を摂取しておこうという、その程度のものなのである。
その程度のもの、だったのだが。
何故だか、母さんがさっきから、妙に静かだ。
「……?」
不思議に思ったので、下から覗き込むようにして顔色を窺う。
――……眉を八の字にした母さんと、目があった。
「かあ、さん……?」
母さんは、しばらく黙ったまま、私を見詰めて。
小さな声で『ばか』とお決まりの台詞を口にした後、視線を逸らした。
……邪な感情を察知されたのだろうか、とも思ったけれど。
それならば、すぐに抵抗して、距離を取ろうとするはずだし。
声の響きも、いつもと違うように感じたので、不安になって問いかける。
「母さん、どうしたの?」
「……」
だんまり。
――……急激に、不安感が押し寄せた。
焦りながら、さらに訊ねる。
「私が、しつこいから。怒っちゃったのかな、なんて」
「……」
だんまり。
「……っ」
本当に、怒らせてしまったのかもしれない、と。
そう思ったら、血の気が引いた。
「ねえ……」
「……」
「――……ごめんなさい」
「……」
「おとなしく、いうこと聞かなくて。ごめんなさい」
「……」
「ごめんなさい」
「……」
謝罪を繰り返しても、返事をしてくれない。
――……どうしよう。
どうしたら、いいんだろう。
「……~~ゆる、してよぅ、おかあさぁん……っ」
我ながら、情けない声が出た。
だって、もし、母さんに嫌われてしまったら。
その時点で、私の世界は、終わるのだ。
「……氷雨ちゃんは」
「――ッ!」
母さんが、やっと口を開いてくれたので。
一言も聞き漏らすまいと、耳をそばだてる。
――……しかし。
「氷雨ちゃんは、ひどいよ」
「え」
「ずるい、よ」
まったく、予想していなかった言葉に。
頭が、真っ白になった。
口をぽかんと開けたままの私に構わずに、母さんはさらに言葉を連ねていく。
「そうやって、ひっついて。甘えたいだけ、甘えて。氷雨ちゃんは、それで満足して、いってきます、って、言えるのかもしれない、けど」
母さんは、俯いてしまったけれど。
角度的に、表情は丸わかりだった。
下唇を、わずかに突き出していて、この顔は。
怒っている、というよりは。
――……拗ねている?
「氷雨ちゃんは、私の気持ちなんか、なんにもわかってないっ」
母さんは、そう言った後、私の肩に手を置き、無理矢理体を反転させると、スリッパのままで土間に下り、背中を押して、玄関から叩きだした。
「うわっ」
3歩よろめいた後、なんとか踏ん張って転倒を回避。
急いで振り返ると、扉が閉まる寸前だった。
「かあさ……っ!」
最後に。
扉の隙間から見えた母さんは――……舌を出して「あっかんべー」をしていた。
「……えー」
わけが、わからない。