しぃー
誰にも、言ったことはないのだが。
私には、胎内に居た頃の記憶がある。
ハッキリしたものではない。
ただ、忘れ去ることもない。
確かな記憶だ。
『氷雨ちゃん』
微睡の中、聞こえた声は。
どうしようもなく、優しかった。
――……だから、私は。
「ちょ……っ、氷雨ちゃん!」
「うん」
「……もう、いい加減にしなさいっ」
「うん」
私の腕の中から脱出しようと母さんが暴れている。
真っ赤なうなじに惹かれて、気が付いたら口付けていた。
「ひゃあっ!?」
裏返った声をあげて、細い肩を跳ね上げた。
ああ、可愛い。
「氷雨ちゃ、んの、ばか……っ」
母さんの口癖。
もう、何百回『ばか』って言われたかな。
「うん、『ばか』だよ」
母さんになら、これからもずっと『ばか』って言われたいと思う私は、きっと『母さんばか』なのだ。
「~~っ、もう、もうっ! だから、いい加減にしないと……っ!」
羞恥心からか、潤んだ瞳が子犬みたいで、ますます抱き寄せた腕に力が籠った。
胸が温かいを通り越して、熱い。
目尻に唇を押し付けようと、顔を近付け――……。
――ピンポーンッ♪
ドアチャイムに、邪魔された。
「怒るなよー、遅刻するとこだったんだからさっ」
通学路。
二つ結びの髪を揺らして3歩先を歩きながら、彼女は軽い口調でそうのたまった。
「……せっかく」
「うん?」
「せっかく、母さんが可愛かったのに」
「いや、むしろ氷雨ちゃんが、おかーさんを可愛いと思っていない瞬間があるのか聞きたい」
あるわけがない、と即答した私に、「このマザコン」と悪態をつきながら、八重歯をのぞかせて笑う彼女は――陽南は、私の幼馴染で、唯一の友人だ。
「私には理解できないけどねえ。うちの母親なんて、完璧おばちゃんだし。湿布の臭いするし」
そう言って、また笑う。
溜息を吐きながら、その背中を追った。
今日は授業が6限ある。
――……放課後が、待ち遠しい。
「……」
下駄箱の中身を一瞥した後、静かに蓋を閉じた。
見なかったことにしたい。
「お、どーしたの?」
寄ってきた陽南が、私と下駄箱を交互に見比べた後、にやあっと嫌な笑みを浮かべる。
「ははぁん? あれですな?」
そう言って、勝手に私の下駄箱の蓋を開けた。
そうして取り出したのは――……白い封筒に入った手紙。
「恋文! THE恋文じゃん! ひゅーっ、さっすが氷雨ちゃん!」
口笛が吹けないからって、ひゅーってそのまま言うのは、どうかと思う。
私は、本日2度目の溜息を吐いた。
嫌な予感が的中した。
手紙には、放課後に非常階段に来てほしいと書いてあったのだ。
なぜ、放課後なのか。
なぜ、わざわざ放課後に時間を作らねばならないのか。
休み時間にでもさっさと済ませて欲しい、と思った。
「す、好きです! 俺と付き合ってください!」
「ごめんなさい、無理です」
真っ赤な顔の男子から告げられた愛の告白を即行で断った。
彼は、なにを言われたのかわからない、という顔をしていた。
そのまま背中を向けて去ろうとすると、背中越しに息を呑むような音がして、次の瞬間腕を引かれた。
込み上げてきた苛立ちに、思わず舌打ちする。
彼は、それに動揺しながらも、言葉を重ねてきた。
「ま、待ってよ! 付き合ってる奴がいるの?」
本日3度目の溜息を吐いて、私は答えた。
「産まれた時から、好きな人がいるの。だから、他に用はない」
「理解できないなあ」
帰り道。
陽南はそう言いながら、空き缶を蹴っ飛ばして。
「でも、否定はしないよ」
呟くような声で、そう付け足した。
「おかえり、氷雨ちゃん。今日は遅かったね」
出迎えてくれた母さんに「ただいま」と返事をした後、その顔を見詰めていると。
「氷雨ちゃん?」
首を傾げながら、もう一度名前を呼んでくれた。
「……母さん」
腰に腕を回して抱き着くと、心配するような声で「どうしたの」と問いかけられる。
「会いたかったよ」
――……そう、会いたかったのだ。
産まれる前から、貴女に会いたかったのだ。
だから。
きっと、私は。
「大好き」
貴女を愛するために、産まれてきたのだと思う。
胎内での思い出は、5歳くらいまでは3人に1人の確率で憶えているものだそうです。
本当に稀ですが、大人になっても憶えている人もいるのだとか。