にぃーじゅっ
担任である体育教師、薙雲先生が、怒鳴りながら追走してくる。
「待て! 氷雨っ!」
私は、それに怒鳴り返しながら逃走を続行した。
「誰が待つかぁッ!」
たかが体育祭の為に、貴重な放課後を費やせるはずがない。
私は、一刻も早く家に帰り、今日も全力で母さんを愛でるのだ!
「氷雨ちゃーん、諦めなよーっ!」
少し遅れて、陽南もついてくる。
奴も、リレーの選手に選ばれたのだ。
「……諦めて、たまるかあっ!」
いっそう速度を上げて走る。
徐々に、二人との距離が開いていく。
「くそっ!」
「はははー、無駄に足速すぎだわー……このマザコンがっ!」
二人の罵声も、遠退いていく。
――唸れ、私の両足(100m走12秒ジャスト)!
「――あらぁ?」
間の抜けた声。
前方に現れたのは、美術教師――花霞先生。
頬に手を添えて首を傾げている彼女の横を、全速力で走り抜ける。
その、次の瞬間。
「花ちゃん! そいつを止めてくれっ!」
薙雲先生が、そう叫んだ。
「え……りょーかぁーいっ」
そんな、軽い返答の後。
全速力で疾走する私の正面に、ほんの一瞬で回り込んだ花霞先生。
「ごめーん、ねっ!」
なにを、されたのか。
まったく、わからないうちに。
「……え?」
気が付いたら、床に転がされていて。
呆然と、天井を見上げていた。
痛みは一切なくて、余計に現実味がない。
「確保ーっ!」
その声で、理解して。
大きく、溜息を吐いた。
――……逃走、失敗。
「すっごいね! 花ちゃんせんせー!」
陽南が興奮気味にまくしたてる。
「瞬間移動みたいだった! 氷雨ちゃんが一回転したしっ! どうやったのっ!?」
その疑問に答えたのは、薙雲先生だった。
「花ちゃんはな、実家が合気道の道場をやっていて、本人も有段者なんだ……足も、昔っから速い」
遠い目をしながら語る薙雲先生に寄り添いながら、花霞先生も楽しそうに口を開いた。
「薙雲せんせー……なっちゃんのお家はね、剣道の道場をやってて、ずぅっと昔から、家同士のお付き合いがあるのー」
それを聞いた陽南は、うんうんと頷いて、笑いながら言った。
「そっかー、じゃあ、先生達二人は、幼馴染なんだね! 私と氷雨ちゃんと一緒だっ」
和やかな空気――心底、どうでもいい。
「……いい加減、観念しろ」
未だに帰宅を望んでいる私の様子に気が付き、溜息を吐く薙雲先生。
「なんでそんなに家に帰りたいんだ……なにか、用事でもあるのか?」
こちらを気遣うように、そう問い掛けてきた。
声音も、優しい。
彼女はきっと、良い先生なのだろう。
ならば、正直に話そう、と思った。
――隠す必要も、ないし。
「はい――……母さんを愛でる為に帰ります」
「……は?」
ぱちくりと、大きくまばたきする薙雲先生。
確認するように、私の言葉を繰り返す。
「母さんを、愛でる……?」
私は、その言葉に大きく頷いた。
「ええ、一刻も早く家に帰り、母さんを抱きしめたいです」
横で、陽南が「あちゃー」って頭を抱える。
花霞先生は「あらあらぁ」って言いながら頬に手をあてて、小首を傾げた。
「……」
薙雲先生は、眉間に皺を寄せて、しばらく黙考した後。
「――……なるほど」
片手をグーにして、もう片方の手のひらをポンッと叩き、言い放った。
「氷雨は、お母さんが大好きなんだな!」
……、
…………うん。
「そうですね――……愛してます」
そう、肯定すると。
「そうか!」
薙雲先生は、満面の笑顔で、大きく頷いた。
「……」
――あまりの予想外の反応に、言葉を失くす。
「ぶはっ」
堪え切れない、といった様子で、陽南が噴き出した。
「あらあらぁ――なっちゃんたら、なっちゃんなんだからぁ」
花霞先生は、口元に手をやって、くすくすと笑っている。
毒気を抜かれた私が、呆然としていると。
薙雲先生が、さも当たり前、といった顔で言葉を続けた。
「よし、じゃあ練習に行くか!」
陽南が、腹を抱えて笑い出した。
「……私の話、聞いてましたか?」
眉間の皺を揉み解しながら、そう問い掛ける。
薙雲先生は、またもや大きく頷いた。
「もちろん、聞いていたとも」
なんで、「こいつ、なに言ってるんだ?」って顔をお前がするんだ。
苛ついて、大きく溜息を吐く。
「……私は、母さんを愛しているんですよ」
仕方なく、言葉を重ねた。
「そうだな、お前はお母さんが大好きなんだな」
薙雲先生は、うんうん、と頷いた。
「ええ、だから帰ります」
やっと伝わったか、と。
そう思ったのだけど。
「え……なんで帰るんだ? お母さんが大好きなんだろう?」
心底不思議そうな顔で、薙雲先生が首を傾げた。
「え?」
向かい合ったまま、二人で「?」を飛ばし合う。
「「?」」
その様子を見守っていた花霞先生が、薙雲先生に問いかけた。
「ねえ、なっちゃん。お母さんが大好きだと、練習に出たほうが良いの?」
「――ッ!?」
薙雲先生は、当たり前だという顔をして、答える。
「そうだな、私はそう思うぞ」
――意味が分からない。
私は、焦りながら質問した。
「どういうことですか? 練習に出るのと、母さんを愛しているのと、なんの関係が?」
薙雲先生は、指をぴんっ、と一本立てて、語り始めた。
「まず、ひとつめ。お母さん、体育祭を観に来てくださるんだろう? いいとこを見せたくないのか?」
うっ、と喉を詰まらせる。
昨日の母さんとの会話を思い出す。
『なんでもは、ダメだけど……頑張ったら、ご褒美あげる、から――だから頑張ってね』
――うん。
母さんの期待には、応えたい。
……ご褒美の為、だけじゃなくて。
母さんを、喜ばせたい。
「そして、ふたつめ」
薙雲先生が、もう1本指を立てた。
ピースサインみたいなそれを前に突き出して、言い放つ。
「お母さんに危険が迫った時――担いで逃げ出せるだけの脚力が必要だろう!?」
急病で病院に行く、ってなった時にも、必要だよな! って。
自信満々に語る、体育教師(筋肉信者)。
……、
…………うん。
「確かにっ!!」
私は、大きく頷いた。
「ぶふっ! わはははははははぁッ!」
バッカでぇーこいつらぁーっ! ……って。
陽南が、涙流しながら笑ってた。
今回、お母さんの出番なし。
次回はお母さん視点です。
今後もよろしくお願いしますっ(*´ω`*)




