何時もと違う朝
自転車を有料の駐輪場に置き、地下鉄で五つ先の駅へと向かい、降りて二十分歩く。そこに切妻の通う高校がある。山を切り崩して出来た所なので背の高い木々に囲まれており、薬科大学と交番、公園が隣接している。
校舎は三つあり、八階建てでエレベーター完備の真新しい東校舎。少しだけ高い丘になった場所に建っており少し古めの南校舎。そして今年度になって耐震に引っかかってしまった一番古い西校舎がある。耐震に引っかかってしまった為に西校舎は移動教室専用の場となり、東と南に生徒が常駐する形となった。因みに東校舎は普通科、南校舎は進学科のクラス割り振りとなっている。切妻は進学科なので南校舎へと行く。
校舎以外にも食堂や体育館、本館と呼ばれる職員室や図書室が内包された建物がある。他にも屋内でテニスやらプールやらが出来る建物も存在していたが、切妻が入学する三年前に財政難に遭い、隣の薬科大学に建物と土地を売ってしまい現在は高校では使えなくなっている。
因みに校庭は各建物に囲まれた中央にあり、一周三百メートルのフェンスに囲まれたそれは砂ではなくゴム仕様の地面である。砂埃が舞わず雑草抜きをしなくていいという利点がある一方で、水捌けが非常に悪くゴムの癖に濡れたら滑りやすいという欠点も持ち合わせている。ここではもっぱらサッカーしかしない。体育の授業とサッカー部御用達の場所だ。
さて、切妻は外靴を内履きに履き替えて自分のクラスへと赴く。進学科は各学年で三クラスあり、一組が文系、二組が理系、三組が文理となっている。文理とは文系、理系双方の勉強を万遍無く行う国公立を目指す生徒向けのクラスとなっている。切妻はその三組に籍を置いている。南校舎は二階建てであり、三年生と二年生の一・二組は二階に、それ以外は一階という部屋割りになっている。彼は一年生なので一階の廊下を突き進む。しかし教室に入る前にはたと立ち止まる。
「どうしたの?」
地下鉄乗車と徒歩二十分により平静さを取り戻した九重が不思議そうにしている。
「いや、あれが気になってさ」
といって教室向かいの廊下で通行の邪魔にならんとばかりに団子になっている生徒軍団を指差す。集まっている生徒は一年生が大半を占めており、三組の面子も所々に見受けられるが誰も会話をしてない。それに違和感を覚えた切妻は教室に入らずに団子の中心へと割って入っていく。
「お、瑞貴。おはー」
「よぅ、スキヤキ」
団子の中央には切妻と同じ三組の男子生徒がいた。スキヤキと呼ばれた彼の本名は数奇屋宏大。がっしりした体格だが身長は切妻よりも低い。十一月になっても腕まくりをし、スポーツ刈りにしてから三ヶ月経ったような独特の髪形をした数奇屋は切妻が言ったようにスキヤキという渾名がある。発生源は入学式の後のホームルームで本人から。曰く「数奇屋って何か語呂悪いからスキヤキって呼んでくれ」だそうだ。
「何かあったのか?」
「それがよ」
数奇屋は口を噤んで窓の方に指を差す。周りを見れば、誰も彼もが窓の方を向いていた。
切妻と美耶、九重もそれに倣って窓を見る。
「きゃっ!」
九重が口元に手を当てて愕然とした。美耶は眉根を寄せて凝視している。
窓には血飛沫がついていた。また、その窓は半分開いていた。
切妻は人を掻き分けて前方へと進み、窓から身を乗り出した。団栗の転がっている地面には黒い翼と足が三対、血で赤く染め上げられて転がっていた。
視線を上へと向ける。丁度この窓の直線状には樫の木があるのだが、その樫の木の枝に翼と足の無い三羽の烏が突き刺さっていた。もう枯れ果てたのだろう、烏から血が滴り落ちる事は無かった。曇ったガラスのような目玉は虚空を凝視して動かない。そんな烏の周りには羽虫が飛び交っている。
三組の教室は校舎の中程にあり、しかも廊下の窓から見える樫の木は山側にある。切妻等は登校中は山側を見れない場所を通っていたので仕方がない。もしかしたら、真上でも同じように人だかりが出来ているのではないだろうか?
「……これは?」
乗り出していた身体を引き戻し、切妻は数奇屋に問う。
「知らねぇ。オレが朝来た時にはもう人だかりが出来てたから」
数奇屋は頭を振って答える。
「そか」
切妻は何を思ったのか、再び窓の方へと向かい、鞄とビニール袋を置くと今度は身を乗り出すのではなく、外へと出て行こうと足を窓枠に乗せる。
「おい!」
数奇屋が止めようとしたが、肩を掴もうとした手が寸での所で空を切り、切妻は外に出てしまった。
切妻は地面に放置された翼と足を見る。
(……切り口からして、刃物で切られた訳じゃなさそうだな)
傷口が歪な形に歪んでいるし、垣間見える骨はささくれ立っているように見える。刃物で切ったなら少なくともある程度は綺麗な傷口となっている筈だ。しかし、これはそんなものではない。まるで力任せに引き千切ったみたいに治り難そうな傷口だ。
切妻は腰を少し折って翼に触れようと手を伸ばす。
「馬鹿触んなっ!!」
「触んないでっ!!」
「触っちゃ駄目っ!!」
切妻を追って外に出た数奇屋、美耶、九重の三人が若干青褪めながらほぼ同時に翼に触れようとしていた彼の腕を捕まえる。因みに数奇屋には美耶と九重の姿は見えていない。そしてそんな彼は切妻の髪が翼と血に触れないように手早く掴んだのであった。
「もし触って指紋ついたらお前が疑われるぞっ!!」
「死骸から変な病気貰ったら大変だよっ!!」
更に数奇屋と九重は眉根を寄せながら切妻に顔を近付けて声を荒げる。
「いや、そんな大袈裟な」
「「大袈裟じゃないっ!!」」
見事にソプラノとテノールがハモった。
「いいか!? 確かに指紋を調べる、何て事はないかもしれない。けどな、こんな猟奇的な現場なら犯人を特定する為に烏についている指紋はないか確認するかもしれないんだ! 調べた結果お前の指紋しか発見されなかったら確実に疑われる! だから触るな!」
「料理で鶏肉を触っているから平気だと思ってるのかもしれないけど、そんな考えは捨てて!! 市販の生肉だって触った手を舐めたりでもしたら食中毒になったりするし、ましてこの烏は外界に晒されてるんだよ! 食用肉よりも遥かに衛生的によくないんだから!」
異口異音で切妻に説教を垂れる二人。
そんな中、美耶はしゃがんで翼と足に手を翳していたりする。
「美耶ちゃん!? 何やってるの!!」
今度は美耶の手を翼に触れないように掴みかかる九重。
「私は翼の残滓を確認してただけ」
美耶は真顔で答える。
「残滓?」
「わっ! 髪、髪!」
切妻は首を傾ける。危うく髪の毛が翼や血痕に触れそうになったので慌てて掴み取る数奇屋。ナイスフォロー。
「そう。正確には、翼に付着した霊気の残滓をね」
美耶は顔を顰めて切妻と九重に告げる。
「これは生きてる人間の仕業じゃない。怨霊の仕業」
「怨霊……」
霊の抱く怨嗟や憎悪が激しく増加すると豹変してなる存在だと昨夜美耶が言っていた。
「感じからしてまだなり立てだけど、これは放っておくと厄介になる」
苦々しげに呟きながら美耶は無様に貫かれた烏を見る。その目には一瞬だが憐憫の色が映し出されていた。切妻はそれを見逃さなかった。
「君達! 校舎の中に戻りなさい!」
横合いから教師の一人が走ってくる。もしかしたら廊下にいた誰かが先生に知らせに言ったのかもしれない。それ故の御登場の可能性がある。
「ほら、行くぞ瑞貴」
目をつけられると何かと面倒な事態になりそうだったので数奇屋が切妻の腕を引くが、切妻は動こうとしない。その視線は枝に突き刺さっている烏を向いている。
「おい?」
「行かない」
「は?」
素っ頓狂な声を上げる数奇屋の腕を振り払うと、切妻は烏の死骸がある樫の木を登り始める。樫の木は生きていれば結構丈夫なので人が登っても折れる事は無いかもしれないが、それでもまだ細い木なので何かの拍子にぽっきり逝くかもしれないが切妻には関係なかった。
「瑞貴さん!?」
九重が駆け寄って樫の木を見上げる。まるで猿のようにすいすいと登って行き、烏が刺さっている枝の近くまで来る。
そして切妻は死んだ烏を一羽ずつ、丁寧に枝から外していく。
「君! 何やってるんだ!」
下で先生が叫んでいる。しかし切妻はそれに答えず解放した烏を抱きかかえ、降りていく。羽虫が自分の周りを飛ぶ事も乾いた血が制服にこべりつく事も気にせずに、烏を落とさないように慎重に、降りていく。
地面に降り立つと数奇屋と教師が近付いてきたが、無視して今度は翼と足を拾い集める。そんな彼の行動に金縛りにでもあったかのように二人は固まった。
「あの、瑞貴さん?」
九重は恐る恐る切妻に近付く。
「………………(と)」
「え?」
呟きが聞こえた。小さ過ぎて全部が聞き取れずにいると、切妻は近くに落ちていた枯枝を一つ掴み、烏達をそっと傍らに置いて地面を掘り始める。
「瑞貴さん、もしかして」
「ああ」
一つ頷いて切妻は答える。
「こいつ等の墓、作ってる」
深めに穴を掘り、その中に烏を綺麗に並べていく。その際に、分離してしまった翼と足を傷口から照らし合わせて持ち主の本鳥の傍らに置く。全て並べ終えると近くに落ちていた団栗を穴に入れ、掘り起こした土を全て被せ、少しだけ丘陵を作る。そして掘るのに使用した枝を丘陵の真ん中に突き立て、手を合わせて目を閉じて黙祷を捧げる。
「……さて、教室に戻るか」
切妻は目を開けると、教師の脇を通って昇降口へと向かう。数奇屋は遅れてその後を追う形で走る。教師も去った後、その場には美耶と九重だけが起こされた。
「……瑞貴さん」
九重は去っていく切妻の背中を見て、作られた烏の墓に向き直る。そして手を合わせて目を閉じる。隣にいた美耶も同様に手を合わせて瞼を下ろす。
「…………」
「…………」
暫く冥福を祈ってから、九重と美耶も切妻の後を追う。
彼女等は理不尽な目に遭った烏達が、少しは救われたのではないかと、そう思った。