切妻瑞貴の為人(ひととなり)
泣き疲れたのか、九重は現在ソファで横になって寝ている。
「なぁ」
眠る九重に毛布を掛けながら切妻は美耶に話し掛ける。
「何?」
「どうして俺はこの子――九重が見えるんだ?」
切妻は別に霊視を持っていない。今までの生活で霊を見た事なぞ一度も無い。しかし本日急に見えるようになった。死に際が近いから霊能力が開花した、とも考えたのだが、そんな御都合主義の展開は有り得ないと首を横に振る。こうなった原因を知っているのではないかと死神の美耶に問うているのだ。
「漸くそれに疑問を持ったのか。それはね」
美耶が九重の頭を撫でながら答える。
「君が私の記録対象だから」
「意味分からんのだが?」
「えっとね、私達死神が死の記録に携わる時に、その死ぬ人と一緒に過ごすってのは話したよね」
「ああ」
「で、一緒に過ごす時に死神は一部の感覚を記録対象と共有するの。その感覚の中に霊感があって、私達の霊感は結構強くて霊感の弱い人でも霊を見る事が出来るようになる。それがこの子を見れるようになった原因」
「そうか」
切妻はぼそりと言う。
「よかった」
「何が?」
普通は霊が見えるようになってしまうと恐怖感が全身を這うのだが、切妻はそのような現象は起きなかった。てっきり彼もそのようになるものとばかり思っていた美耶はよかったと呟いた切妻の言葉に反応する。
「だってさ」
彼は臆面もなく言う。
「一人ぼっちの九重に気付いてあげられたんだから」
「……そうだね」
美耶は切妻の為人を理解していた。そう、理解していたのだ。それは過去に彼女が切妻に会っているからだ。
切妻は思考回路が世間一般の人とは巡り方が異なる。なので、質問をすれば予想したものとは違う回答を平気で答えるし、物事を少しずれた視点で考える。それがいいとか悪いとか一概には言えないが、その思考が彼を形作るパーソナリティである。
そして切妻は、恐らく優しいのだ。その例は今日の出来事だけでもいくつか挙げられる。
美耶が切妻邸に訪れた際に、彼はハロウィン行事と考え律儀にお菓子を与えた。別に追い払っても構わなかったのだが切妻はそうしなかった。
美耶が猫舌で夕飯を食べられない時も冷めるまで一緒に待った。一人で食べる寂しさを知っていたからそれを負わせたくないと思っての行動だ。
九重が自転車に座っていた際にも強引に退けたのではない。相手を傷つけないように優しく、そっと退けた。
話の途中でお茶を汲みに行ったのもそうだ。あれは九重の意識を一時的に彼女自身の死から遠ざける為にわざと行ったのだ。そして甘い食べ物とパーティー向けのユーモラスな飲み物で彼女の心に立つ波を緩やかなものにしようとしたのだ。
しかし、いくら自身の死から意識を遠ざけても何時かは向き合わなければならない。生きていても死んでいても絶対に背く事の出来ぬ事象は存在する。なので切妻はある程度気持ちが落ち着いた時を見計らって彼女が死ぬ経緯について質問を投げかけた。荒療治に見えるかもしれないが、見て見ぬ振りをするよりは余程マシだ。
切妻は知らないが、死霊となった者は自分の死を否定し続けると何故自分が死ななければならなかったのかと強く思うようになり、やがては自分が死ぬまでの過程で出会った人を恨むようになり、最終的には怨霊へと変化してしまう。自分の死を認めさせる事により、現段階でだが九重は怨霊にならずに済んだ。
思考がずれて優しい。それが切妻瑞貴の為人だ。思考がずれている故に、彼の優しさが伝わらない場合もある。優しさが伝わらなくとも切妻は気にしない。人に何かを求める為に優しくしているのではないから。
それを、美耶は理解している。
「あ、もう十時か」
ガラステーブルの端に置いてある電波時計が十時を指していた。そろそろ風呂でも浴びようと切妻は動き出す。
「死神さん。俺ちょっと風呂浴びてくるから、九重の事ちょっと見ててくれる?」
「いいよ」
九重を美耶に任せて切妻は一旦自分の部屋へと戻る。彼の部屋は然程広くない。三畳くらいの床面積である。そんな部屋だからこそ、勉強机と箪笥、本棚、収納棚にベッドが部屋の大部分を占めてしまっているので目に見える床が極端に少ない。彼は隅にある箪笥から下着を取り出して洗面所へと向かう。洗面所は彼の部屋を出て一歩で行ける距離にある。因みに彼の部屋の右隣にはトイレが、左には同じような部屋がある。
洗面所に関しては一畳くらいのものだ。床面積が。洗面所の一角にある籠に切妻は下着を置き、バスタオルを取り出して手近な場所に置く。そして隣接している浴室に赴く。因みにこちらは二畳ぎりぎりあるくらいの面積だ。
切妻が住んでいるマンションは結構手狭だったりする。しかし、広い部屋はちゃんと存在している。例えばリビング。ここはダイニングも兼ねているが彼の部屋の三倍の広さを誇っている。和室は六畳間。和室と同程度の部屋も存在している。六畳間の部屋や和室を自室にすれば肩身の狭い思いをしなくて済むのだが、切妻はそうしない。
六畳間の部屋は彼の父親が仕事部屋として使っていた場所なのだ。切妻はどうしてもその場所を片付けられないでいる。ここを片付けてしまったら父親が生きていた証が無くなってしまうのではないか? そう考えてしまうのだ。なので今でも六畳間の部屋には旧式のパソコンに様々な資料、仕事をしながらCDやカセットで音楽を訊いたりラジオを訊いていたラジカセ、息抜きに読んでいた小説の数々、毎朝来ていたスーツにネクタイ。それらがこの部屋には仕舞われているのだ。彼はこの場所を自分の部屋に変える事など出来なかった。
同様の理由で和室にも大体手を付けていない。和室は半分を母親のプライベートスペースにし、もう半分を両親の寝床としていた。切妻の母は然程物に頓着するような人ではなかった。なので所有物などは極端に少なく個人スペースは結構小ざっぱりとしている。それでも母親の持ち物が確かにここに存在している。両親の寝ていたスペースにだけは手を加えている。そこには現在畳の上に仏壇と両親の遺影が鎮座されている。切妻は両親の顔を忘れないように毎日見ている。
両親の思い出がある場所なので、自分の部屋にしないのだ。故人を偲び敬う。切妻はそれを徹底している。なので彼は三畳部屋が自室である事に不満を抱かない。
さて、この話は終わりにするとしよう。
切妻はジャージを脱いで籠に入れていく。この籠は先程箪笥から取り出した下着が放り込まれていたものだ。
一度着て外に出た服だと言っても、まだ数時間しか着ていないのだ。それを直ぐに洗濯機に放り込むなんて何か勿体ない。そう思って風呂を浴び終わってからも今着ているジャージを再び着る算段でいるようだ。下着は当然の事ながら洗濯機に放り込む。
浴室の扉を開けると湯気が体に当たる。風呂には湯が張っており、これはタイマーをセットして沸かしていたものだが、沸いてから優に二時間は経っている。何せ、タイマーをセットしたのは美耶がここに訪れてくる前だったのだから。今月のガス代が少々厳しいものになりそうだった。
切妻はシャワーで全身をまず濡らし、タオルで石鹸を泡立てて体を擦っていく。毎回背中を擦る時に髪が邪魔になるのだが、もう気にしていなかった。それに髪を切る気も無かった。
耳の裏もきちんと洗い、次は髪を洗う番だ。シャンプーを掌に出し、頭皮に押し付けて掻き乱す。ここまで長いと頭付近だけ掻き乱していても全部を洗えない。なので洗いやすいように髪を肩に掛けて前面に出し、手櫛を流すようにして洗う。あまり乱雑に洗うと髪が絡まって大惨事になってしまうから慎重にやらなければならないのだ。
髪全体をシャンプー塗れにし、隈なく洗い終えるとシャワーを片手に洗い流していく。この際も髪を傷めないように鱗状の表面の流れに沿うように髪を梳いていく。同様に、リンスもシャンプーとほぼ同じ手順で行っていく。
全身を清めた切妻はシャワーから流れるお湯を止め、浴槽へと身を沈める。本来なら髪は湯水に漬けないようにするのが礼儀だがここは自分の家であるし、いちいち髪を結うのは面倒臭い。そのような理由で平気で髪を浴槽の湯につける。まるで海月や海藻のように浮かんでいる。
「ほぅ……」
一息吐く。今日の疲れが取れていくような感覚が湯船に浸かると現れる。湯には効能があるが、このお湯は至って普通の水道水。温泉の素は入れていないのであまり効能は期待出来ないが、それでも温かい液体に浸かるだけでも生き物という奴は癒される肉体構造をしているのだ。
がちゃり。
いきなり浴室のドアが開いたのだった。
「うわっ、結構狭いんだ」
入ってきたのは泣き疲れて寝ていた筈の九重であった。当然の事ながら素っ裸。バスタオルを体に巻く……なんて事もしていない。生まれたままの状態だった。
(……成長する箇所はきちんと成長しているんだな)
切妻はいきなりの訪問者に動じる様子もなく、ポーカーフェイスで九重の上半身前面の二つの膨らみを見て感心する。中性的な顔立ちだがれっきとした男なのでどうしても女体のそういう部分に目が行ってしまうのだった。
「あ、私も一緒に浴びていい?」
「別に構わないが」
動じなくても年頃の異性と一緒に風呂ってのはどうかと思う。切妻でもそう思う。世間体と言うか何と言うか。第三者がこの光景を目にすれば男子なら嫉妬の炎に突き動かされ、女子なら手近な電話に手を伸ばすのであろう。
そんな切妻の思考なぞ読み取れる筈もなく、九重はシャワーからお湯を出そうとする。
が。
「……遅い」
何が遅いのだろうか?
シャワーを一旦元の位置に戻すと九重は浴室から出て行く。浴室の外では何やら騒がしかったが、切妻は気にせず湯加減を堪能していた。因みに彼は女性の裸を見たからと言って精神を欲望に支配されるようなちゃちな心を持っていない。心の揺らぎは無く、至って平常運転中。
外で何やらどったんばったんと音が聞こえる。追い掛けっこでも開催しているのだろうか? 一応ガラスや陶磁器が割れるような硬い響きが聞こえてこないので切妻はスルーしている。
五分程で九重は戻ってきた。
美耶を連れて。
美耶も丸裸であったが、首には鈴付きのチョーカーが嵌められたままである。
(……これから成長するのか?)
表情を変えずに切妻は冷静に膨らみを分析するのであった。
「で、何で死神さんまで?」
今更だが視線を逸らしてタイルの壁を凝視しながら尋ねる切妻。
「……体を一緒に洗おうと言われたので」
扉の方を向き、何時でも逃げ出せるように身構えながら美耶は何処か硬い声色で答える。しかし声色の変化は聞き取れても脱出体勢に入っている姿は切妻には見えない。
「ほら、体を綺麗にしてからの方が気持ちよく寝れるから」
九重が美耶の肩をガシッと掴みながら空いている手でシャワーから温水を出す。
「@@@@@ッ!!!!」
日本語ではない何かを発し、尻尾を逆立てて必死の形相で逃げようともがくが、九重の掴んでいる手が離れない。何という握力だ。
「こらっ。暴れないの」
九重はシャワーから流れ出る温水を美耶に掛ける。
「@@@@@@@@@@@@@@@@@@@〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!!」
目を見開き、口を目一杯開けての断末魔(?)。
この叫びが近所迷惑にならないか心配になりがちだが、切妻はそんな事は心配せず別の件について思案していた。
(……猫だから風呂が嫌い?)
猫は水浴びを嫌う傾向がある。飼い猫を洗う時には凄まじい勢いで抵抗され、浴室のドアを開け放っていたのなら、例えシャンプー塗れになっていようともその場から脱出しようともがくのだ。そして脱出を試みる猫を取り逃がすと家中水浸しとシャンプー塗れになるという大惨事に陥るのだ。
「で、濡らしたら次は綺麗に洗いましょうね」
先程泣いていた時とは打って変わって、朗らかな笑みを浮かべながら切妻が使っていたのとは違うタオルで石鹸を泡立てる。それで美耶の全身を洗っていく。その間も出鱈目に動いて拘束を振り切ろうとしていたりする。
というか、物凄い人口密度になったものだ。いや、正確には三人(二人と一匹?)だけなのだが前述の通り狭いのでもう窮屈で仕方がない。最悪、二人が体を洗い終えたなら浴槽に入り込んでくる可能性が高い。九重は異性と一緒に風呂に入る事になんら抵抗を感じていない様子だし、美耶は九重によって無理矢理風呂に入れられそうだ。そうなると、余計に肩身狭く風呂を浴びる破目に……。
そうならない為にも。
「先、上がるわ」
切妻は裸の二人を見ないように壁に体の前面を押し当てながら退出していく。このように出て行くのはあれだ。男にあって女にない部位を見せないようにする為でもある。幸い髪がかなり長いので背面から覗く、なんて事態になりえない。彼なりのせめてもの配慮であった。
がちゃ。
「あっ!! 待っ」
ぱたん。
自分も外の世界に連れ出して欲しかったらしく、美耶が藁にも縋る勢いで手を伸ばしたが無情にも外界へと続く扉は閉ざされてしまったのだった。
バスタオルで体に付着した水滴を取り除きながら切妻は浴室内で繰り広げられている会話に耳を傾ける。
「逃げないの」
「@@@@@@@@@ッ!!」
「ほら、次はシャンプーね。……尻尾もシャンプーでした方が良いのかな?」
「@@@@@@@@@@@@@@@¥¥¥¥¥¥¥¥¥¥ッ!!」
別の言語が追加された。
体を拭き終え、衣服を身に纏ってから髪の水分をタオルで入念に取り除いていく。
「はい、お終い」
「…………」
「じゃあ、美耶ちゃんは風呂に浸かってて」
「っ?」
どっぱーん、と池ポチャ音が木霊する。
ある程度髪の水分を拭いたら、今度は綿棒を用いて耳の穴を綺麗にしていく。
「……あのさ」
「何?」
「今更だけど、桜はよくあの人と一緒の空間にいられたね。裸で」
「あの人って、瑞貴さん?」
「そう」
「だって、瑞貴さんは女性でしょ? 一緒にお風呂に入ったって別に問題は」
「男だよ」
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ゑ?」
「だから、男だよ」
「……確かに男の人のような口調だったけど。あんなに綺麗で長い髪してるし、それに肌だってきめ細かかったし、爪綺麗だったし、顔だって厳つくなかったし」
「それでも、男」
「…………」
バスタオルを洗濯機にブチ込み、ブラシとドライヤーを携えて洗面所を後にする切妻。
「………………………………………う」
「う?」
「嘘だぁぁああああああああああああああああああああああああああああああぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
リビングで髪を乾かしながら切妻はぼそりと呟く。
「……幽霊や死神って風呂浴びるんだ」
決して自分が女と誤解されていた事とか、近所迷惑必至の大音声の事には突っ込みを入れないのであった。