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従姉さんのそれから

「みゃー」

 生まれて半年も経っていない三毛の子猫がよたよたと歩み寄り、足首に首を擦り付けてくる。

「よしよし」

 切妻すみれは母親が赤子に向けるような笑みを浮かべながら子猫を抱き上げて脇を軽くくすぐる。子猫は前足をわたわたさせ、気持ちよさそうに顔を弛緩させていく。

 この子猫は三日前、彼女の従弟である切妻瑞貴が拾ってきたのだ。どうもこの子猫は人怖じしない性格であるようで、すみれの両親にも懐いている。

 すみれの家では昔黒猫を飼っていたのだが五年程前に寿命を迎え、十一歳であの世に旅立ってしまっていた。一度ペットの死を体験してしまうとすみれの両親には新たに飼おうという心理が働かなくなっていたが、それでもすみれは飼う事に消極的であった両親を説き伏せてこの子猫を我が家の一員として迎え入れる事に成功したのだった。

 猫をもう一度飼いたいと言う気持ちがあったのもあるが、一番は従弟が連れてきた子猫であるからという気持ちが大きい。

 先日まで、すみれは従弟とぎくしゃくした関係であった。が、それも子猫を連れてきた際におでんの屋台で思いの丈を暴露して互いに蟠りを残さずに和解を果たした。今となっては可愛い従弟である。

 従弟は少々思考が外部に伝わり辛いが、誰よりも優しいとすみれは思っている。その所為で一緒に住んでいた時はぎくしゃくした関係となってしまったのだが、両親を亡くした当時小学生の心情を汲み取れなかったこちらが悪いのだ。

 そんな従弟が深夜に子猫を連れてすみれの家の門前に立っていたのだ。彼の家はマンションなのでペットは飼えない。なので飼ってくれないか頼みに来たのだろう、とすみれは思った。誤解していた従弟の優しさは健在であり、捨てると言う選択肢は持っていなかったように思えた。もし捨てる選択肢があったのならば、ぎくしゃくした空気を再発させぬようにと二度と来ようとは思っていなかったすみれの家には訪れなかっただろう。

 和解した従弟の頼みを無碍には出来ない。なので飼う事を決めたのだ。

「ほれほれぇ」

 すみれは抱き上げた子猫をベッドの上に乗せると、全身をこねくり回す。

「みゃー」

 子猫はなされるがままに受け入れ、気持ちのよさそうに身体を震わせる。

(あぁ、こいつ可愛いなぁ)

 見てて和む。正直言って愛玩動物とはこのような存在を言うのだろう。すみれは大学の講義で溜まった疲れが子猫と接するだけで残さず綺麗に霧散していく事を実感する。このように疲れを癒すのはすみれだけでなく、彼女の両親も同じであり、子猫の立ち位置は切妻邸のマイナスイオンを発生させるマスコットとなっている。

 暫く子猫をこねくり回していると、子猫が小さな口を大きく開けて息を吐く。欠伸であった。それを確認すると、すみれは子猫を優しく抱き抱えると彼女の部屋に常置されている子猫の寝床にそっと横たわらせる。子猫は五秒もしないうちに目を閉じて健やかな寝息を立て始めた。

「ふふっ。寝てる姿も可愛い」

 軽く子猫の頬を人差し指で小突き、すみれは自分のベッドに腰掛けた。

「さて、と」

 すみれはポケットから携帯電話を取り出し、電話帳から彼女の従弟の名前を選択し、電話を掛ける。

 以前従弟といた約束を今日にでも果たそうと思ったのだ。

 一緒に食事をする。それもすみれの家で。すみれとは仲直りしたが、彼女の両親とは未だにぎくしゃくした関係なのだ。すみれは両親と従弟の関係を良好にしたいと思ってそう提案したのだ。その話をした時は急であるし、心の整理がまだついていなかった。なので数日置く事にしたのだ。

 もう三日も経ったのだから大丈夫だろう。それに、食事の時に従弟に大切な事を頼みたかったのだ。

 それは子猫の名前を決めて貰う事だ。

 すやすやと寝入っている三毛の子猫にはまだ名前は無い。両親が名付けようとしたが、それをすみれがやんわりと阻止した。この子猫の名前は拾ってきた従弟が付けるべきだと考えている。恐らく子猫もそれを望んでいるだろう。すみれにはそんな気がしたのだ。

 なので、子猫を名無しのままにしておかない為にも、今日ないしは今週中には従弟を食事に招待しようと画策している次第である。

 しかし。

「あれ? 瑞貴の奴出ないな」

 もう二十コールは鳴っているのだが、一向に出る気配が無い。そして留守番電話サービスに繋がる事も無い。

 すみれは部屋の壁掛け時計を見て時刻を確認する。午後五時を少し回った所だ。もしかしたら従弟はまだ授業をしているのかもしれないと考える。従弟は高校の進学科に籍を置いているので、もしかしたら普通科よりも一限授業が多いか、または講座を受けている可能性があった。だから電話に出られないのだろう。留守番電話サービスに繋がらないのはコール鳴動の時間設定を一分にしているとか、実は留守番電話のサービスに加入していないとか、そんな所だろう。

(……一時間後に掛け直すかな)

 すみれは携帯電話の電源ボタンを押して通話を終了させる。

 プルルルルルルッ。

 それと同時に開け放たれている戸から置き電話のコールが室内に流れ込んできた。

 現在家にはすみれ一人だ。彼女の両親が帰ってくるのはもう少し掛かる。なのですみれは玄関付近に設置されている電話を取る為に小走りで部屋を出る。

「もしもし」

『どうもこんばんは。そちらは切妻瑞貴君の御家族でよろしいでしょうか?』

「はい、そうですけど」

 電話を取ったすみれはちょっと声のトーンが高くなっていた。なんでも電話口では普通の声では低く聞こえてしまい、相手方に悪い印象を与えかねないのだそうだ。そのような豆知識を子供の頃に得たすみれはそれ以降電話対応では高めの声でするようになった。

『私は瑞貴君の担任の棟木と申します』

「え、瑞貴の担任ですか。瑞貴が何時も御世話になっています」

 電話越しとは言え、すみれは頭を下げて礼をする。でも担任が何の用だろう? という疑問も当然ながら浮上してくる。もしかして新手のオレオレ詐欺では? と思ったが、その線は無いだろうと踏んだ。従弟のフルネームを言えたし、それに君付けをしているので性別も理解している。それに棟木と言う名前は確かに従弟の担任の苗字であった。先日従弟と話している時に訊いたのだから間違いない。

『お電話させていただいたのはですね、そちらに瑞貴君はいらっしゃるかの確認の為なのですけど、瑞貴君はいらっしゃいますか?』

「いいえ? どうしてそのような事を聞くんですか?」

 平静を装いはしたが、すみれの心臓が一際大きく拍動した。嫌な予感がした。背中に一筋の汗が流れる。顔も少し強張ってしまう。

『実はですね、瑞貴君四日連続で学校を休んでいるんですよ』

「……え?」

『瑞貴君の御友達が今日彼の家にお見舞いに行ったんですよ。でも、いくら呼び鈴を鳴らしても出ないんだそうです。なので、もしかしたらそちらの御宅にいると思いまして電話を』

 全部を訊く前にすみれは電話を切り、自室に戻り、上着を羽織って従弟の家の合鍵を机の引き出しから取り出すと直ぐ様彼の家へと向かった。

 もしかして、電話に出られなかったのは体調を崩して、出るに出られない非常に危険な状態だったからではないか? という考えが頭を過ぎった。従弟と別れたのは三日前の朝方。別れる前はずっと寒空の中食べながら話に花を咲かせていた。十一月に入って間もない時期であったが、あの夜は体感的に結構寒かったと記憶している。

(もしそうだったら、原因私じゃん!)

 しかし、すみれの予想は外れた。

 悪い方へと。

 従弟の家の前には数人彼と同じ高校の制服を着た男女がおり、すみれに挨拶をしたが、そんな彼等の表情も決して気楽な物ではなかった。すみれは即座に鍵を解いて邸内へと入った。


 そこには、誰もいなかった。

 それも、数日は誰もいなかったと分かる状況であった。


 妙に空気の籠った部屋は全体的にほんの少しだけだが埃が表面を覆い、洗濯機には衣類が入れられたまま、流しには水に浸けたままの食器があり、冷蔵庫には調味料以外の食材が入っていなかった。家の中には十一月三日の夕刊分までの新聞しかなく、同級生の一人が一階にあるレターボックスを確認しに行くと新聞や広告が本日分までぎっしりと押し込められていた。ゴミも市の指定ゴミ袋に入れられて回収日に出される事もなくぽそりと置かれていた。

 すみれはあらゆる部屋の扉を開けて従弟を探した。そんな中で大量の本とベッドが内包された部屋を見付けた。恐らくここが従弟の部屋なのだろう。

 部屋の中は本が山のように積まれたままの状態を維持していたが、ベッドにはやはり人が寝ていたという証明になる温もりは一欠けらも感じず、本の山が無情に重圧を掛けてきた。

 すみれは膝から崩れ落ちて、呆けた顔で部屋の中心で天井を仰いだ。

 彼女の従弟は行方知れずになっていた。

 その後、警察に連絡。翌日の新聞と地方ニュースに『仙原市の男子高校生失踪』の見出しで載った。これで誰かから従弟の情報が貰える事を祈った。

 しかし、一ヶ月経っても従弟の情報がまるで入って来なかった。駅前や従弟の通っていた高校、すみれの通っている大学にポスターを貼っていたにも、だ。ここまで音沙汰無しなのは不思議を通り越して奇妙であった。

 もしかしたら、先月起きた誘拐殺人のような目に遭っているのではないだろうか? という疑念にさえ駆られてしまう。

 従弟の安否が確認出来ずにいた一ヶ月はあまり眠れなかった。その一ヶ月の間に従弟の事で両親とも少し衝突してしまった。何せ、両親が従弟の事を遠回しに迷惑な存在と蔑んだからだ。すみれには我慢ならなかった。従弟が今までどんな想いをして一緒に暮らして来たか分からない、分かろうとしていない相手に言われたくなかったのだ。本当は優しい従弟を彼女の両親に貶して欲しくなかったのだ。

 結局、衝突しっ放しで蹴りは未だについていない。すみれは早く従弟の誤解を晴らしたいとしているが、如何せん聞く耳を持ってくれない。これは根気強さで勝負していかなければならないだろう。

 さて、そんな案件を抱えているすみれは従弟の家に来ていた。

 目的は掃除。いくら主人不在とは言え、もし無事に帰って来た時に家の中が埃だらけでマスク必須な状態は勘弁だろう。なので、月に一回掃除をしに来るように自分に課したのだ。

 常備されていた掃除機を取り出すと、コンセントを差して稼働させる。掃除機であらかたの埃を除去した後に雑巾で綺麗に拭いていく。この時、窓を開けての換気を忘れていない。

 机の上の埃も綺麗に拭いていく。雑巾は十個持ってきたが、洗って使い回し、捨てる時は捨てるが半分程度で間に合っただろう。そこの計算は甘かったとすみれは思う。

 居間の掃除が終わり、台所も終了。次に和室の掃除に取り掛かる。

 和室には従弟の両親。つまりすみれにとっての叔父と叔母の遺影が飾ってあった。遺影に掛かった埃を綺麗に取り除き、手を合わせて黙祷する。近くに住んでいたがあまり会う機会に恵まれなかったのでよく知らないが、従弟をあんな性格に育てたのだからきっと同じように優しいのだろう、と思った。

 和室も終わり、叔父の使っていた部屋も綺麗にすると、次に従弟の部屋の掃除に差し掛かった。

 山積みの本がある分、他所よりも掃除が大変であった。まず本を廊下に出さなければ床に掃除機を掛けられないのだ。大量の本を部屋の外に出すのに一苦労した。その後に掃除機を掛け、同じように雑巾で床を磨き、勉強机と棚の上を拭いて、ベッドの上に敷かれている布団を綺麗に畳み直す。

 部屋の外に出した本の上に積もった埃を払い、再び部屋の中に戻してぴしっと角を合わせて並べていく。その作業だけでも結構骨の折れるものだった。

「あっ」

 最後の一山を部屋に戻す際、掃除機に足を引っ掛けてしまいバランスを崩し、本を盛大にぶちまけてしまった。既に綺麗に並べ終えていた本達を巻き添えにして。

「……やっちゃったなぁ」

 苦笑いを浮かべながら本をまた積み直していく。こうして見ると、従弟は節操なく色々なジャンルの本を読んでいるのだな、と気付く。年相応に漫画やライトノベルは勿論の事、日本を含めた様々な地域の神話、時代小説に推理小説、恋愛小説、ホラー小説、エッセイ、詩集、料理本、哲学書にマネジメントの本等々、大学生のすみれよりも読む種類が多かった。

「ん?」

 本を積んでいく中で、一つだけ、タイトルの無いブックカバー本を見付けた。

「何だろ?」

 好奇心からすみれはその本を開く。

「あ……」

 中身は手書きの文章が羅列されていた。

「まだ日記書いてたんだ」

 すみれの家にいた頃も従弟は日記を書いていた。が、それは普通のノートにであった。恐らくすみれ達に日記を書いている事を知られたくなかったからだろう。流石に一人暮らしをするようになったから気にする必要も無くなり、このように少し拡張高いものに書いていたのだろう。

 ぺらぺらと日記を捲るすみれ。書いてある内容は十一月のあの夜に語られたものと同一であったが、訊いたものよりも詳しく記載されたものもあって、時折彼女はくすりと笑う。従弟にはこんな一面もあったのか、と。

 ページが十月三十一日になると、つい手を止めてしまった。

「……死神?」

 不穏な単語があった。更には四日後に死ぬとも書かれていた。

 馬鹿馬鹿しい。冗談も過ぎる。そう思うすみれであったが、四日後と言う部分が引っ掛かっていた。

 四日後。つまり十一月四日は従弟が家の前に来ていた日だ。

 どくん。

 心臓が大きく鳴り響く。

 すみれは何かに憑りつかれたかのようにゆっくりと緩慢な動作でページを捲る。

 十月三十一日から十一月三日までのページにはすみれの知らない従弟の一面、そして行動が記されていた。


 死神に死を宣告させられた。

 死霊に出会った。

 無残に殺された烏を埋葬した。

 怨霊に出くわした。

 怨霊に狙われた。

 死神に助けられた。

 埋葬した烏が守護霊として憑いた。

 怨霊に殺されかけた。


 正気ではおおよそ書かれないだろう内容だった。もしかして、従弟は精神が限界を迎えていたのではないだろうか? という疑念がすみれの頭に浮かんできてしまう。

 手が震えた。もしそうだとしたら、従弟がいなくなったのは誘拐ではなくて自殺を図ったのではないか? そう思ってしまうと気付かなかった自分の不甲斐無さに反吐が出た。それで手が震えたのだ。

 その拍子に日記は床に落ちた。

 すると、一番最後のページに挟まっていたのか、一枚の封筒が飛び出してきた。そこには『すみれさんへ』と書かれていた。

 すみれは急いでそれを拾い上げて封を切る。そこには一枚の手紙が入っていた。


 ――すみれさんへ――

 もし、この手紙を読んでいるなら、もう、俺はこの世にいないでしょう

 自殺した訳ではありません

 俺は自分がするべき事をする為に死を選びました

 俺が死ぬ事によって、一人の命が救われる

 だから、俺は死を選びました

 死を選ぶ以前に、死ぬと言われましたが、それは関係ありません

 俺は自分の意思で、迷いもせず、躊躇いもせずに死を選びました

 他人の――苦しんで死んで逝った人の命を救う為に

 これが、最期の我が儘です

 今まで、迷惑を掛けて済みませんでした

 ぎくしゃくした空気を作り出して、済みませんでした

 俺なんかがいたから、すみれさんは何時も怒ってばっかりでした

 でも、もうそんな心配はありません

 怒る必要がありません

 俺はもう直ぐ死ぬんですから

 いえ、もう死んだんですから

 俺なんかがいなくなれば、俺が来る前の生活に戻れるんですから

 最後にもう一度言います

 今まで、迷惑を掛けて済みませんでした

                           ――瑞貴――


 この手紙は十中八九すみれに会う前に書かれたものだと分かる。

 でも、それでも。すみれの従弟がもうこの世にいないという証明である事に変わりなかった。

 日記に書かれた正気でない文の羅列も、この手紙を読んでしまったら本当にあった事なのだろうと思えてしまった。

 何故なら、この手紙には従弟の本心しか書かれていないからだ。従弟の人には伝わり難い優しさが、滲み出てきているのだから。

 従弟なら、他人の為に命を投げ出しかねない。そして、有言実行してしまったのだろう。それはとても優美で、健気で、愚かで、儚い。

 自分の命よりも他人のそれに価値があるという考え。美徳で軽薄な考え。聖人のようであり、子供のような考え。

 どのような方法を取ったかは分からないが、死んだ人の命を助ける為に、従弟は――切妻瑞貴は死んだ。

 そして、自分が死ぬという状況であったにも拘わらず、すみれに心からの謝罪をしていた。それは変に単語を多く羅列された謝罪文よりも申し訳無いという気持ちが伝わってきた。

 すみれは手紙を握り潰す。

「…………馬鹿っ」

 握り潰した手紙に水滴が垂れ落ちる。

「……馬鹿っ」

 すみれの顔はくしゃくしゃに歪み、眼が赤く充血していく。

「馬鹿っ!」

 そして、頬を涙で濡らしながら崩れ落ちた。堰を切ったように泣きじゃくる。

「どうして! どうして瑞貴は何時も他人の事しか考えないの!? どうして自分の事を大切に思わないの!? どうして他人を助ける為に死を選んじゃうの!? どうして自分の命を簡単に投げだしちゃうの!? どうして……どうしてっ」

 嗚咽を漏らしながら、か細くなった声でぽつりと言う。

「どうして……あの時、嘘吐いたの……っ」

 あの時、どうして「また」と言ったのだろう?

 いや、すみれには分かっている。

 あの時従弟が嘘を吐いた理由を。

 自分が死ぬ事を知られたくなかったから。

 自分が死ぬ事を知られて悲しませたくなかったから。

 自分が死ぬ事を知られて泣かせたくなかったから。

 結局は、それなのだ。すみれの従弟は、優しいのだ。

 だから、嘘を吐いた。

 ただ、それだけだ。

「馬鹿……馬鹿……馬鹿……っ」

 胸を抉られるような感覚があった。胸に孔が空いたような感覚があった。もう二度と、従弟に会えないと思うと、それ等がより一層強い感覚としてすみれに押し寄せていった。

 胸が痛い。

 胸が苦しい。

 どうしてこんなに胸が苦しいのだろう?

 どうしてこんなに胸が痛いのだろう?

 今のすみれには分からなかった。

 陽が暮れるまで、すみれは幼い子供のように泣いた。その様は、あの時の従弟のようでもあった。

 泣いて、泣いて、泣いた。

 そして、落ち着き、従弟の死を受け入れた。死を受け入れるのは早いかもしれないが、当の本人はとっくに受け入れていたのだから、自分も受け入れなければと思ったのだ。

 涙を拭き、すみれは残った部屋の掃除を済ませて家を出た。

 従弟の死を他の誰かに知らせるつもりは無かった。

 そもそも信じて貰えない。

 これは自分だから素直に信じられたのだ。従弟の内面をあまり知らない他人になぞ、分かる筈も無い。

 だから、他の人は従弟の死を知らない。

 現在の日本の制度で公式に死亡となった時に、他の人は知ればいいのだ。

 すみれは、そう誓った。

 誓ってからは、日々は驚く程早く流れて行った。

 無事に単位も取得し、三年生に上がり、就職活動の準備とゼミに追われる日々が続いた。

 十一月四日。

 丁度一年前、最期に従弟に出会った日。

 すみれは従弟の家に向かっていた。死を受け入れたからと言っても、彼女しか受け入れておらず、その事実を知らないのだ。なので月に一度の掃除にはきちんと出向いている。その際に、すみれは叔父と叔母の遺影に黙祷を捧げてから、亡き従弟の冥福を祈るのが習慣となっていた。

 そんな彼女の肩には三毛猫が乗っている。一年前は子猫であったが、順調に成長して立派な猫へとなったのだ。そして人の肩に乗るという癖がついたのだった。

 三毛猫に名前はもう付けていた。亡くなってしまった者に付けて貰う訳にもいかなかったので、すみれが名前を付けたのだ。

「にゃー」

 鼻を引くつかせた猫が一鳴きすると、肩から飛び降りて、走って行ってしまう。

「あ、待ってよ」

 すみれは慌てて猫を追い掛ける。何時もは大人しく肩に乗っているのに、今日に限ってどうしたのだろうか? と疑問符を浮かべる。

 角を曲がり、少し進んで右に曲がるとそこには一人の少女がおり、去って行った猫の頭を撫でていた。その少女は従弟の高校の制服を着ていた。

「よしよし、どうしたの? もしかして鯛焼きが欲しいのかな?」

 少女の手には『鯛太郎』と呼ばれるここらで有名な鯛焼き店の紙袋が下げられていた。猫の視線はそれに吸い込まれるように釘付けであった。

 すみれは溜息交じりに猫に近付いて、首根っこを掴み上げる。

「こらミズキ。駄目でしょ人様に食べ物をねだろうとするなんて」

「にゃー」

 猫――ミズキは一鳴きすると首を縦に振った。どうやら反省しているようだった。

「へ、みずき?」

 少女がきょとんとして猫と隣の何もない空間に視線を行ったり来たりさせている。

「あ、この三毛の名前。ミズキって言うんだ。で、好物が鯛焼きなの」

 少女の仕草を少し不審に思ったが、すみれは親切に説明する。何せ飼い猫が迷惑を掛けてしまったのだから説明はしなければ。

「あ、そうだったんですか」

 成程、と納得する少女。そしてまた何もない空間に視線を持って行く。そしてにやぁっと笑う。気味の悪い笑みではなく、どちらかと言うと温かみを含むものだったが、どうしてそのような笑みが何もない空間を見て出て来たのかが謎であった。

「じゃあ、はい。あげる」

 少女は紙袋から一匹鯛焼きを取り出すと、三毛猫の眼前に差し出した。三毛猫は目を光らせてそれに齧り付く。猫は猫舌と言うのは嘘のようで、出来立て熱々の鯛焼きを咥えていてもなんともないのだ。もっとも、それはこの猫に限った話かもしれないが。

「あ、いいの?」

「いいんですいいんです。これも何かの縁ですから」

 ねぇ、と少女はまた何もない空間に視線を移す。

(そこに何かいるのかな?)

 そう疑問に思うすみれだが、深く考えないようにする。

「もゃー」

 鯛焼きを咥えたままのミズキは一鳴きすると、首を回し、少女が見ている場所と同じ場所に目を向ける。この子もどうしたのだろう? と思う反面、このような考えが浮かんできた。

(猫は幽霊が見えるっていうし、もしかしたらあそこに幽霊がいるのかも)

 そう思うと、すみれもそちらに視線を移してしまう。

(……そんな訳ないか)

 くすっと笑うとすみれは視線を少女に戻す。

 しかし、不思議な感じはあった。何もない空間であるのに、そこを見ているだけで何故か安心すると言うか、温かい感じが伝わってくると言うか、そのような感覚が生じた。

「じゃあ、私はもう行きますね」

「うん。鯛焼きありがと」

「いえいえ。じゃあね、ミズキ君」

 少女はミズキの頭を撫でると、踵を返して去って行った。

 変な少女であった。でも、不思議と従弟を感じさせた。

 全く似ていないのに。

 どうしてだろう? と首を傾げる。が、深く考えても仕様が無いので目的地に向かう事にした。

「行くよ、ミズキ」

「もゃー」

 三毛猫を肩に乗せて、来た道を戻って従弟の家に向かう。


――じゃあね、すみれさん――


 ふと、懐かしい声がした。

 振り返るがそこには去っていく少女以外には誰もいない。

「気の所為……だよね」

 首を振って軽く頬を叩く。

「瑞貴の声が聞こえる訳ないじゃん」

 そう、聞こえる筈がないのだから。

 もう、従弟は死んでしまったのだから。

 でも。

 もしかしたら。

「あの何もない空間に、いたのかも。……って、そんな訳ないか」

 すみれは空を見上げる。そこには澄み切った秋の青空が広がっていた。

 暫く眺め、軽く伸びをして歩き出す。


 すみれの可愛くて優しい――ほんの僅かな時間だけであったが想いを寄せた従弟の住んでいた家を掃除しに。







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