切妻瑞貴発見
ゴスロリ姿の女性は数奇屋の言葉に一瞬だけ立ち止まるが、直ぐに彼は背を向けたまま駆け足でその場を去った。
去り際に走りながら女性はカチューシャを外して投げ捨て、編んでいたふわふわの長い髪を手櫛で手早く流すと頭頂部よりやや下で一纏めにして結んだ。髪を結ぶ際に一瞬見えた横顔、それは中性的な面持ちの少年、切妻瑞貴の顔であった。
実は双子の妹であるとかそういう落ちではなく、正真正銘切妻瑞貴本人である。ゴスロリ衣装を身に纏った彼は文化祭の担当している仕事を放ったらかしにして早食い大会に参加していたのだった。仕事を仮病を使ってサボり、文化祭の別イベントに出場するとは、数奇屋の怒りは尤もである。
「あ、おい!」
数奇屋はマイクを放り投げて切妻を追い掛けた。走力は同程度であるらしく、差が縮まらなかった。鎧姿であるのに大したものだ。
美耶と九重は暫く茫然としていたが、はっと我に返って急いで数奇屋と切妻の後を追った。どうして女装してまで早食い大会に参加していたのかは謎だが、確かにカガチの遠回りな情報の通りに切妻は文化祭に現れた。美耶は走りながら自身の霊気を不規則に乱れさせ、切妻探しを空中からしているカーとラーとスーに彼が見つかった事を知らせる。
切妻は校庭から出ると人を掻き分けて直ぐ様左に曲がって本館の陰に隠れる。数奇屋もその後に続く。美耶と九重が本館の陰へと向かうと、そこには入り妻の姿は無く、首を巡らせて辺りを忙しなく見ている数奇屋しかいなかった。
「スキヤキさんっ」
「あ、桜ちゃんと美耶ちゃん」
「瑞貴さんは何処に行きました?」
「ここまで来たのは絶対なんだけど、その後どっちに行ったのか分かんねぇ」
「そうですか」
九重は肩を落とす。美耶は至極真面目な顔で数奇屋に疑問をぶつける。
「というか、よくあの人だと分かったね」
「あの人って、あぁ瑞貴の事か。そりゃ最初は前髪で顔隠されてたし気付かなかったけどな、近くで食う姿を見てたら食い方が瑞貴のそれだったんだよ。で、俺は一応鎌をかけたんだ。何時もよりもハイスピードで食べ始めて、そしたら食う速さも瑞貴と一緒になったからな。そこでこいつは瑞貴だと確信したんだ」
四月から一緒に学生生活を過ごし、昼食はほぼ毎回共に食し、時折帰りにファーストフードを食べに行っていたが故に、数奇屋は切妻の食べ方、食べるスピードを熟知していた。熟知しているのは単に友人だからと言うだけでなく、時々は早食いや大食いで簡単な賭けも行う間柄だからだ。
早食いや大食いにおいてペース配分は大事であり、それは自分のコンディションだけで完結するのではなく、相手の食べ方、スピードを考慮した上でのペース配分である。そうしなければ負けは必至であり、負けない為にも相手の動向を確認しなければならない。
なので、数奇屋は切妻の食べ方、食べる速さを知っていたのだ。故に、ゴスロリの女性が切妻であると看破出来た。
「成程ね」
聞くだけ聞いて満足すると美耶は数奇屋から視線を外し、九重の手を掴んでそのまま通り過ぎようとする。
「あ、ちょっと待った」
しかし、数奇屋は慌てて止める。
「何ですか?」
「そもそもの話なんだが、瑞貴はどうして今日ズル休みして早食い大会に参加してたんだ?」
ねめつけながらのその一言に二人は硬直してしまう。彼女等も理由は全然把握していないのだ。なので答えようがない。しかし、何かしらは答えなければならない状況にはあるのだ。なにせ、美耶と九重は切妻の親戚で、両親が旅行をしている間は切妻邸に厄介になっているという設定となっている。そして一つ屋根の下で過ごしている切妻が質の悪い風邪を引いてしまったから休んでいると嘘の理由を話してしまっているのだ。
『質の悪い』としてしまった以上、切妻からの口頭だけでなく彼女等自身の目で症状を確認したという虚偽の情報を作り出してしまった。また、先程の逃走スピードから彼は風なぞ引いていない事が窺える。窺えてしまったが故に、虚偽の情報が虚偽であると分かられてしまったのであった。
つまり、美耶と九重は数奇屋にとって切妻のズル休みの共犯者として認識されている状況にあるのだ。二人は全てが公けになってしまったから今更隠さなくていいから本当の理由を言って下さりやがれな状況に陥ってしまったのであった。まる。
さて、本当の事と言っても何も告げずに勝手にいなくなっていた。ではこの場合通じる可能性が極端に低い。それが真実なら何故嘘の理由ででっち上げをしたのか? と問われてしまう。
というか、嘘の理由を話してしまった時点で信用は殆ど無くなってしまったので、何を言っても疑いの眼差しを向けられる事になるのだが。
なので、美耶は一つの行動を起こす。
彼女は目にも止まらぬ速さで数奇屋の背後に回り込み、首筋に手刀を打ち込む。古典的な方法だが、脊椎に衝撃を与える事で意識を一時的に失わせようという試みだ。因みに生半可な打撃ではただ痛いだけにとどまってしまうので、情け容赦なく、死なない程度に重い一撃を数奇屋にお見舞いしたのであった。
数奇屋は一瞬だけ目を見開くが、程なくして量の膝を地面につけて前のめりの姿勢を作った。声を上げる事も無く、意識は暗い闇の底へと誘われていった。
「桜」
美耶は彼女によって唐突に意識を刈り取られた数奇屋を茫然と見ていた九重の手を引いて走り出した。
「美耶ちゃん、何もあそこまでしなくても」
我に返って後方に置き去りにされていく数奇屋を見ながら九重は美耶に意見する。
「理由を説明したからと言って、それをすんなり信じて貰えると思う? 信じて貰えない方が確率高いよ」
「それは、そうだけど」
「それに、今の私達には時間が惜しいの。私達に不利益しか被らない問答を繰り広げて時間を浪費するのは正直言って馬鹿馬鹿しいし」
「そこまで」
言うの? と九重は言い掛けたが、途中で口を閉じる。
確かに、自分達には時間が無いのだ。それこそ、省ける無駄は例え自身だけにとって有益なものとなりえる自称であったとしても一切合財全てを省く。そんな気持ちである。
美耶と九重の最優先事項は生きている切妻瑞貴を捕獲する事だ。死んでいては意味が無い。それは美耶の仕事上としても、九重の心情的にもだ。捕まえて、あれやこれやを責め立てる。
何度も述べるが切妻は今日死ぬのだ。しかし、何時死ぬかは定かではない。
なので、生きている彼を見つける事が出来たのは僥倖と呼べるだろう。
しかし、見つけたからと言っても見失っては意味が無い。一分だって居場所を見失ってはいけない。一秒だって視界から外してはいけない。そのうちに、彼が死んでしまうかもしれないから。
故に、九重は美耶の言葉を咎める事は出来なかった。彼女自身も時間は無駄に消費したくはないし、不利益な事には関わりたくないと思っていたからだ。
美耶の行動は九重の意見をも汲み取り、それでいて彼女に手を汚すような真似を指せない為の英断であったとも言えるだろう。
「あと桜」
美耶は九重を見ず、進行方向だけを見据えて硬い声音で告げる。
「もう人に姿を見せるように霊気を強めなくていいから。こっからは人に見られると厄介以外の何者でもなくなるから」
そう言う彼女の耳は人間のそれが消失し、代わりに本来の耳が頭頂部に生え、尻尾が出現している。本性を封じられている種族:猫の死神としての姿をとった所を見ると、美耶は姿を見えなくしているのだろう。
「それに、今の彼は恐らく私達の姿は見えないよ」
「何で?」
「彼が九重や怨霊、烏達を見れていたのは私と感覚を共有していたからなの。本来の彼は普通の人と同じように霊は見えない。今は共有していた感覚が断絶してるから元に戻って姿を見せないようにすれば絶対に見付かりっこないの。だから九重も姿を見せないようにして」
「分かった」
首肯し、九重は霊気を調整して一般人には見えないようにする。
ステルスモードとなった美耶と九重は人目を完全に気にする必要が無くなり切妻が向かったかもしれない方角へと全力で走る。死神の美耶の全力は時速七十キロメートル。九重も消滅寸前から復活し、霊気の増大と共に身体能力も向上しており、走力は美耶と遜色なかった。
文化祭を行き交う人々を縫うように避けて進み、人は徐々に数を減らし、辺りに人がいなくなると道はアスファルトから砂利に変わり、駐車場へと続いていた。
一度立ち止まり、来客車が幾重にも並ぶ場所に視線を巡らすと、幸運な事に切妻の後ろ姿を見付ける事が出来た。見間違う筈も無い何時もと同じ様に結ばれた平安の女性貴族のような長い髪に、本日の衣装であるゴスロリ衣装。ほんの一瞬であるが、彼は隣接している林の中へと消えていく所であった。
美耶と九重は即座に走り出した。彼を見逃さないように。
しかし、彼の後を追う事は出来なかった。
正確には、追う事を阻まれたのだ。
走り出した彼女等の目の前に横から現れた美耶の同僚である蛇の死神――カガチによって。
「カガチ……」
「やっぱりここに来れたんだな」
美耶を評価するようにカガチは彼女に拍手を送る。彼にとってはヒントと言えるかどうか微妙な程遠回しな言葉で訪れた美耶を心から賞賛しているのだが、美耶はその行為自体がじれったく、不快なものでしかなかった。なにせ、切妻の現れる場所を教えた本人に、行く手を阻まれているのだから。
「そこ退いて」
「それは駄目だ」
意味が分からなかった。
切妻の後を追わせてくれないのならば、何故彼の居場所を教えたのか?
「どうして?」
「お前達が切妻瑞貴を捕まえたり尋問するのがまだ早いからだ」
怒気をまき散らし眉を吊り上げ、攻撃色に彩られた瞳をした美耶の問いにカガチは暖簾に腕押しをしているように彼女の怒気には全く意も介さずに答えた。
「切妻瑞貴の準備がまだ出来ていない」
「準備って?」
「それは言えない。あいつとの交換条件で言えない事になっている」
「……そう」
「切妻瑞貴の準備が出来次第、お前達はあいつに会ってもいい。それを承諾出来るなら俺はここから去ってお前達の邪魔をしない」
「今直ぐ追い掛けて会うって言ったら?」
「その時は、遠慮なく邪魔させてもらう。それも交換条件だからな」
そう言うとカガチは不敵に笑った。
美耶は瞬間的に九重の手を引き、カガチの脇を通り抜けて切妻を追い掛けようとする。しかしカガチは即座に手を伸ばし、美耶の着ているパーカーのフードを鷲掴むと、力任せに思い切り引っ張って転ばせにかかる。
手を引かれていた九重は慌てて美耶を支えに掛かるが、それも叶わず、カガチに腕を掴まれ、美耶から無理矢理引き剥がされて地面に伏せられる。美耶も同時に地面に背中を打ち付ける。そして二人は腕を軽く捻り上げられる。
あっという間に。
時間にして三秒も経っていない。
美耶と九重は抵抗と言う抵抗をする暇も無いままに拘束されてしまった。
そもそもカガチを物理的に行動不能にする手段を最初にとっていればここまで一方的な展開にはならなかっただろうが、最初にアクションを起こした美耶にとってはそんな物理行使する時間さえも惜しかったのだ。なので美耶は脇を通り抜けて切妻を追おうとした。
しかし、詰めが甘かった
相手は美耶と同じ死神。それも戦闘を生業としている怨霊討伐課の死神だ。死亡記録課の所属である美耶とは基本スペックが違う。本性になっていない状態の美耶も変化をしていない怨霊程度ならば負ける事は無い実力を持っているが、カガチは同条件で変化した後の怨霊から傷を負う事も無く勝つ。
それが怨霊討伐課の死神。
討伐対象なぞに負けるような実力を有していない者だけが就ける部署。
「無駄な手間を掛けさせるな」
カガチは折れない程度に、折れるギリギリの力を加えて捻り上げる。美耶と九重が無理に抜け出そうとさえしなければ折れる事は無い。それを鑑みての力加減。動かない限りは怪我をしないようにしているのはせめてもの良心からだ。同僚と害の無いただの死霊を傷付けるのは気が引ける。彼が率先して傷を負わせる相手は討伐対象だけだ。
九重は痛みで表情を歪ませ身体を動かそうとはしていないが、美耶は苦痛に顔を引き攣らせながらもカガチに言い放った。
「それは無理だねっ!」
美耶は実力差をありありと見せつけられながらも、捉えようによっては慈悲のある拘束をされていても、やる事に変わりは無かった。
自身の腕が折れるのも構わず、美耶は動いた。
右腕から力が抜け、重力に任せられるだけの部位と化しても、美耶はカガチの拘束から抜け出す事を選択した。
確かに、切妻の準備とやらが終わればカガチはこの場から去って邪魔をしなくなるのだろう。
しかし、それでは駄目なのだ。
何時死ぬか分からない切妻から目を離しては、いけないのだ。
美耶には切妻の傍に行く権利があると思っている。
それは死亡記録課の死神であるが故に。
それは切妻を助けたいと思っていたが故に。
それは切妻の死を看取る決意をしたが故に。
しかし、それ等は後付けの理由から発生する権利でしか無い事を美耶は自覚していない。
本来ならば権利とは程遠い単なる我が儘であり、自分勝手な願いであり、駄々を捏ねる子供のような気持ちである。
切妻瑞貴と一緒にいたいだけ。
仕事だとか、助けたいだとか、死を看取るだとか、そんなのは後付けの理由。無意識のうちに切妻の傍らにいる事を正当化しようとして付けただけの理由。
一緒にいたい。ただ、それだけの事。
それを美耶は気付いてはいない。自覚してはいない。認識してはいない。
だが、それ故に。気付いていないが故に。自覚していないが故に。認識していないが故に。
美耶は切妻の傍に行こうという気持ちはぶれる事は無い。
例え腕の一本が少しの間使い物にならなくなろうとも。
例え足が砕けて歩けなくなったとしても。
例え消失する寸前まで霊気が消えたとしても。
美耶は切妻の傍へと行く。
ぶれる事無く。
迷う事無く。
躊躇う事無く。
美耶は行く。
切妻の元へと。
折れた右腕を押さえながら、美耶は切妻が消えていった林の方へと足を動かす。
「だから、手間を掛けさせるな」
カガチは即座に九重を放して美耶を捕まえに掛かる。再び腕を伸ばし、美耶の足首に両の手を絡めるようにして拘束しようとする。
「「「がぁ!」」」
しかし、突如として飛来してきた三羽の烏が二人の間に入り、一羽はカガチの右手に、一羽はカガチの左手にわざと捕まるように、一羽はカガチの視界を隠すように目の前で翼をばたつかせている。
カーとラーとスーだ。美耶の霊気の変動を感じ取り、馳せ参じたのだ。そしてこの状況を即座に理解し、一つの行動に出た。
美耶を切妻の元へと行かせる為にカガチの行動を邪魔にかかる。
「退け、お前達」
掴んでいた手を放し、目の前を飛ぶ烏を払い除けて腕を三度美耶へと向かわせる。距離は若干離れていたが、それも関係は無く、カガチ自身も同様に移動して捉えれば済む事であった。
「駄目っ!」
しかし、それは拘束を解除された九重によって阻まれる。九重はカガチの脇の下から腕を伸ばし胸を圧迫するようにして押し止めた。
不意の一撃で脚は止まり、伸ばした手は空を切り、美耶には届かなかった。
「こいつ……」
カガチは即座にホールドしてくる腕を引き剥がし、美耶を追おうとする。それを三羽の烏が阻み、三羽の烏を払い除けるうちに九重が再び捕まえに掛かる。
カガチとの実力差は覆せない。
数で勝負しても勝つ事は出来ない。
それでも、美耶を切妻の元へ向かわせる事は可能だった。
カガチは九重や三羽烏に対して傷を負わせないように払い除けている。もし本気を出して消滅させる事になろうとも気にせずに無理矢理払っていれば即座に美耶を捕まえる事は出来たであろう。
しかしカガチは討伐対象でもない死霊に対しては情けを掛けてしまう。それはどんなに邪魔をされたとしても、自分に不利益が被られようと。それが彼のポリシーであり、怨霊討伐課の死神としてのプライドであった。
それが今回の誤算となるとは思っても見なかった。
「美耶ちゃん! 瑞貴さんをここに連れてきて!」
「「「がぁ!」」」
一人と三羽はカガチの行く手を阻み、遠ざかっていく美耶へと声を掛ける。
「分かってる! 連れて来たら皆で文句を言いまくろ!」
美耶は後ろを振り向かないまま前へと進む。
木々の間を縫って、奥へ奥へと向かう。
自然に出来た堀を跳び越え、切り倒されて並べられた丸太の横を通り過ぎ、人工的に開けた空間へと出る。
そこには切妻がいた。先程のゴスロリ衣装ではなく、彼の家で見慣れたジャージ一式に身を包んでいた。
そしてそんな彼の目の前には予想していた最悪が佇んでいた。
佐沼義武。
生前の九重を殺し、その直後に自殺を図って怨霊と成り果てた存在。
前日見た際とまた外見が変わっていた。
人間と比べて一つ関節の多い右腕が肥大化し、中指の中心から左右に裂けたように分かれ、三本腕のように見える。
手にはナイフはもう握られてはいなかったが、美耶の刃物付きの手袋を真似たのか、彼の指が全てナイフのような形状と化していた。
唇が消失し、鋭利な牙が羅列する口内が丸見えであり、瞼のうちから見える眼には身体を巡る黒い靄を体現しているようにどす黒く染まっていた。
そんな変化を遂げた怨霊――佐沼は切妻を凝視していた。
彼は切妻を標的として選んでいた。
それを知っていたから、美耶はつい、手を出してしまっていた。
切妻の死を記録するよりも切妻を九重達の元へ連れて行くという考えの元行動してしまったが故に。
目の前が真っ白になり。
死ぬ当日に記録対象者を助けるような真似をしてはいけないという規則を忘却の彼方へと押し遣り。
左手にだけ、指先に刃物が付いた手袋を嵌め。
佐沼に向けて疾走しながら振り上げ。
自分の考えうる限りの全力で振り下ろした。
五指に取り付けられた刃からは肉を切り裂き、骨を断つ生々しい感触が伝わってきた。
しかし、美耶の首に巻かれたチョーカーは、切妻を助けようと動いたにも拘らず首を絞めるように収縮はしなかった。
同時に鉄のような生臭い臭いが鼻孔をくすぐった。
その匂いによって気付かされた事があった。
自分が切ったのは決して佐沼では無い事を。
佐沼を切ったのでは漏れ出すのは霊気であり、霊気には匂いは存在しない。なのでこのような臭いが発生するのは可笑しい。
そして次に、美耶の身体に生温かい液体が掛かった。霊気は液体ではないので付着する事は無い。
ここで、美耶の目の前は白から現実の色へと戻された。
そして知った。
どうしてチョーカーが首を絞めなかったのかを。
自分が佐沼の代わりに何を切ったのかを。
自分に降りかかった液体は何であるかを。
液体はこの生臭い臭いを発生させている。
色は赤。
紅と墨を混ぜ合わせたような暗い赤。
それは美耶の刃と、身体にべったりとついている。
これは血だ。生きとし生けるものが身体の内に巡らせている生命の源。
それが付着していた。
加えて、刃には肉片がこびりついていた。
「…………あ」
美耶は目の前に立っている者を見て目を見開き、身体を小刻みに振るわせながら声を上げる。
「……ああ」
切妻瑞貴が美耶に背を向ける形で立っている。
「あああ」
そんな彼の背中には五本の傷がついており、そこから大量の鮮血を撒き散らし、肉が露出し、神経が剥き出しになり、骨から髄が漏れ出し、綺麗に切断されなかった内臓の欠片と平安貴族のように長かった髪が赤く染まった土の上に音を立てて落ち続ける。
「ごぶっ」
切妻は口から血を吐き出し、それが合図であるかのようで、糸の切れた操り人形の如く、力を無くし、膝から崩れ落ちた。
前のめりになるようにして倒れた切妻は微動だにしなかった。
傷口からは止めどなく血液が流れ出ている。
美耶はそれを茫然自失と見ているしかなかった。
瞬きすら忘れてしまった切妻。
肺を動かしているようには見えない切妻。
声を出す事の無くなった切妻。
そんな彼を眺めているうちに、美耶は少しだけ思考が回復した。
その思考はある重大な事を思い出していた。
切妻瑞貴の死に方。
切妻瑞貴の死は――霊を庇って死ぬ。
徐々に鮮明になっていく思考で美耶は目の前の事象と予測を照らし合わせる。
それ美耶の予想とは違っていた。違ってしまっていた。
切妻瑞貴は怨霊――佐沼義武を庇った。
切妻を助けようとして佐沼に向けた美耶の刃の前へと躍り出た。
それ故に、切妻瑞貴の生は終わりを迎えようとしている。
自分の行動によって。
自らの手によって。
守りたくて、助けたくて、死を看取りたかった相手を。
自らの手にかけてしまった。人生の幕を引いてしまった。




