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「夏」

作者: 八尾メチル

 コンビニのアルバイトが終わって裏口に出ると、乗ってきた自転車がなかった。

 帰り支度は万全。ゆっくり店の周りを一周するが、自転車はなかった。

 明け方も近い午前五時。ここから家まで自転車で、飛ばしても二十分程度。港に面した田舎の町だから、何もない割に広いのだ。ほぼ徹夜明けで体力も限界に近い。歩いて一時間で帰りつけるのか……肩を落として、それでも歩き出そうとしたところに、後ろから当番仲間が声をかけてきた。

「あれ、使えば?」

 その指先にあったのは、くたびれてボロボロになった自転車だった。

 車体は鈍い藍色に塗りたくられ、ペダルは今にも取れそうにぶら下がっていて、サドルなんて前後ろ逆についている。それ(・・)はこの店に勤め始めたころからずっと置いてある、誰かの忘れ物―――というか、明らかに捨てていった自転車だった。

 じゃ、急ぐから先にあがるよ、と手を挙げ、仲間は自分の自転車にまたがり走り去っていった。駐車場を抜けていくその後ろ姿を見送ると、眉をひそめて、もう一度おんぼろ自転車を見やる。ハンドルを切るたび、油の差されていない嫌な金属音が耳につくが、タイヤもついているし、ほかに足りない部品はこれといってなさそうで、どうやら本来の役目は果たせるようだ。

 意を決して、鍵のないその自転車を拝借することにした。



 梅雨の名残の雨だけは、降っていなくてよかった。

 タイヤのパンクした自転車を引きずって、とぼとぼと歩きながらそう思った。

 薄暗い川べりの道を、街頭を頼りに進んでいく。おんぼろ自転車は意外にも重かった。



 見知った道だが、これほどゆっくり歩いたことはない。本当に道順が正しいのかどうかすら、分からなくなるほど。パンクして最初の数分は、普段通りすぎるだけの道に物珍しさすら感じたが、それも今はすでに消え失せ、足の痛み、眠気に精神的疲労のため、ただただ泣きそうだった。ろくでもないことは重なるという。よく考えれば、自分の自転車だって誰かに盗まれたわけだし。ため息をつこうとすると、本当に涙が出そうになったので、堪えた。


 本当なら家でベッドに倒れこんでいる時間になっても、まだ家の近所にある公園すら見えない。喉が渇いてきた。腹も減ってきた。潮風を吸い込むだけで、人間生きていけたらな……どうやらずいぶん頭が鈍ってきたようだ。水が欲しい。喉もうるおせるし、何より目が覚める。水たまりを新品のスニーカーで蹴っ飛ばしながらひたすら、壊れかけた自転車を押し続けた。


 気づけば、夏の空は白み始めていた。

 はるか眼下に、海が見える。見慣れた海だ。別段水がきれいなわけでもない。何かマイナーな魚の漁獲量が、日本で二番目に多いことが自慢だった気がする。自転車の重みに引きずれないように注意しながら坂道を下っていく。と、手前に港が見えてきた。米粒大の漁師たちが、せわしく動き回っているのが分かる。そして続々と、港に漁船が帰ってくる。

 曲がり角をまがって、海に背を向ける前に、もう一度海を見やる。

 東の空と海の境界線が輝いている。海は、美しかった。


 投げやりな気分になってきた。ここにきて、どうにも自転車の動きが悪くなってきている気がする。けれど、今更当たり前だが、コンビニに引き返す気もない。あともう少し、もうすぐだ、と自分を励まし―――もといだましながら歩いてきた甲斐あって、実際に家までの距離は着実に縮まっている。名も知らない小さな赤い花が、近所の公園の緑色の金網の向こう側に見えていた。

 安堵のため息をつきながら、不意に手元の自転車に目をやる。このおんぼろ自転車があったおかげで、ずいぶん時間を食ったような気がする。いや、そもそもこんな自転車を家に持って帰っても、何のメリットもない。いっそ、この公園においていってやろうか。腹立ちまぎれに浮かんだ考えのまま、公園の入り口におんぼろ自転車をそっと立てかけた。が、甲斐なく自転車は、添えた手を放した瞬間に大げさな音を立てて倒れた。それが余計に腹立たしくて、結局自転車は倒れたまま、荷物を背負いなおして歩き出す。

 ああ、体が、足が、軽くなった。小さく息をつくと、すっと気持ちも軽くなる。

 ここまで来たなら、家も目と鼻の先だ。足早に公園を離れようとして。


―――そこでふと、何気なく振り返る。

 倒れた自転車のハンドルが、わずかに道路にはみ出しているのが見えた。


 よいしょ、とハンドルを持ち上げ、自転車を立たせる。どうやら手を放すとまた倒れそうなので、ハンドルは握ったままだ。

 寝かせたままだと、危ないような気がしたからだ。別に自転車が可哀そうだとか、罪悪感があって、とかそういう理由じゃない。なぜか言い訳がましく浮かんだそんな言葉に、なんとなく恥ずかしくなる。

 朝日に照らされた藍色の車体は、しかし、よく見ると、ところどころ澄んだ濃青色が覗いている。歩いているうちに、埃が落ちたらしい。結構きれいな色だな、と思ったところで、はっと気づく。自分の服を見下ろすと、案の定白いシャツが、まだらに灰色となっていた。しかもずっと左側で自転車を支えていたので、左半身のみが。

 ……どうせ洗濯するんだし、いいか。そう思いつつも、とりあえず一番目につく塊の埃をはたきおとした。あとは焼け石に水のような気がするので、放っておく。


 このまま手を放せば、ストッパーのないこの自転車はまたひっくり返るのだろう。

 ぼんやり思っていると、別のことが頭に浮かんだ。


―――この自転車、修理したらまだ使えるかも。


 軽く車体をぬぐうと、意外に傷が少ないことに気が付いた。

 色も好みだし、形も悪くない。サドルやチェーンなどをなんとかすれば―――見てくれが整えば、十分に使えるだろう。


 ちょうど、今日自転車をなくしたところだし。


 先まで置き去りにしようとしていた奴は、どこのどいつだ? 変わり身の早すぎる自分を、皮肉と自嘲を込めて笑った。多分、寝不足の頭が判断力を低下させているのだろう。きっとそうだ。


 家族には何と言えばいいだろう。再び埃まみれの自転車を押して歩きながら考える。くたびれた様子が自分そっくりで見捨てられなかったから、なんて詩的な言い訳が浮かんだが、次に寝て起きるまでに覚えていられるかどうか。それに頭がすっきりしたら、また気が変わっているかもしれない。そう、今度このおんぼろ自転車を引きずって行くのは、自転車修理屋か粗大ゴミ捨て場か、どちらかになるだろう。


 とりあえず、家までは持って帰る。コンビニに返すという選択肢は、あえて入れないでおく。



 夏は、夜が明けるのが早い。

 太陽が見えるほどに空が明るくなっても、もうしばらく家まではかかりそうだ。

 それでもあともう少しなのだと。


 自転車を押す手が、汗ばんで気持ち悪かったけれど。


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