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あかつきの走馬灯

作者: 日野

 いつの頃からか、まことしやかに囁かれている都市伝説がある。

 死ぬ間際に見るといわれる走馬灯の話。

 この世に未練を残して死んだ者は神様によって魂を拾われ、未練を残さぬよう人生をやり直せるという噂だ。

 神様だの魂だの、おそよ現実離れした内容の上、何しろ死後の世界の話だから、これを実践したものの話は未だに聞かない。



       1



 四之葉悠よつのはゆう雨宮由衣あまみやゆいは小学生からの親友だ。

 休み時間も給食も、とにかくグループを作る時には必ず一緒にいるし、名前の響きも近いことから周りも何となくコンビとして見ていた。

 少し天然でよく笑う悠と、真面目で若干融通の利かない由衣。

 二人の関係は高校に上がっても少しも変わらなかった。

「ごめん悠、私、今日委員会あるから帰り遅くなる」

「待ってるよ。金曜日だから」

 毎週金曜日は、帰りがけにスイーツを食べる約束をしている。

 最初は一週間頑張ったご褒美に、今ではそれが定番化して一つの日課のようになっていた。

 どちらかの用事によって下校時刻が合わない時も、このルールによって金曜日だけは互いに時間を作っている。

 ほどなくして由衣の委員会は終わり、何やら熱心にスマホを眺めている悠と落ち合った。

「由衣ちゃん、この間リニューアルしてたワッフル専門店、今限定メニュー出てるみたい」

 場所はほとんど悠が決めることが多い。

 悠は好きなことには結構マメで、いつでも新しい情報を持ってくるし、由衣が行かないような場所のこともよく知っている。

 悠のスマホを覗き込むと、美味しそうなワッフルのメニューが並んでいる。

「全部美味しそうだね。限定メニューまだあるかな」

「あるといいね。あ、クーポン使えるよ」

 楽しそうに笑う悠につられて由衣も笑う。

 由衣は二人で歩くこの時間を、目的のスイーツ以上に楽しみにしていた。

 美味しいものを食べながらする二人の会話が、好きな人の話から進路の話に変わって、いつかお互いの叶えた夢の話になるまで、いつまでも一緒にいられればいいと願っていた。

 ところが高校二年に上がったある日、クラス委員長になった由衣に密告された冬海小織ふゆうみこおりの発言により二人の関係が一変することになる。

「私は、このクラスにいじめがあることを知っています」

 仲の良いクラスだとばかり思っていた由衣は、突然の告白に驚きを隠せない。

 小織は続ける。

「四之葉さんは、大﨑さんと、鈴川さんからいじめを受けています」

 次いで発せられた親友の名前に彼女は耳を疑った。

 悠はそんな素振りは一度も見せていなかったし、無論、相談を受けた記憶もない。

 大﨑琴音おおさきことね鈴川市子すずかわいちこはよく二人でいるところを見かけるが、悠との接点はあまり思い浮かばない。

 天真爛漫で元気な琴音に、本ばかり読んでいる寡黙な市子。由衣の持つ二人の印象はその程度のものだった。

 悠は少し天然なところもあるが穏やかな性格で、彼女が大きな問題を起こすのは考えにくい。

 何か、意見の食い違いでも起きてしまったのだろうか。

 それとも――……。

 逡巡するも答えは出ず、親友の事情に気づけなかった自分に苛立ちを覚えた。

「雨宮さん、私が言ったことはどうか内緒にしてください」

 終始淡々と意見だけを述べた小織は、由衣の言葉を待たずに踵を返す。

 思ってもいなかった事実を突きつけられた由衣は、まるで頭を殴られたような衝撃を受けながらも、しかし、内緒にしてほしいという小織の気持ちと、真実を問いただすことで悠を傷つけてしまわないかという葛藤にさいなまれ、なかなか行動を起こせずにいた。

 そうしている間にも、琴音と市子からの嫌がらせが続いていることを考えると、いつまでも問題を先延ばしにしておくわけにもいかず、ついに由衣は、自らが琴音たちに近づき半ば監視する形をとることを決意するのだった。

 それが悠のためにできる唯一のことだと信じて。

 作戦を決行する前に、由衣は、悠に一言だけ言っておくことにした。

「悠、私は何があっても悠の味方だから、私のことを信じていて」

 それは同時に自分自身にも言い聞かせた彼女の願いでもあった。

 以降由衣は、琴音と市子と共に行動することが多くなり、必然的に悠が孤立する時間が増えていった。

 琴音は予想以上に好奇心旺盛な性格で、彼女に興味を示した相手に対しては一気に距離を詰めてくる。休み時間ともなれば由衣が行動を起こす前に捕まるし、給食も移動教室も同様で、彼女が悠と接する時間はほとんどなくなってしまった。

 親友に避けられ気落ちしてしまった悠とは裏腹に、まるで新しいオモチャを手にした子供のようにはしゃぐ琴音の姿に、それでも由衣は、彼女の興味が悠から離れてくれたことに安堵した。

 金曜日、いつも待ってくれていた悠の姿はもう教室から消えている。

「あ、由衣ちゃんも、帰り遊んでこうよ」

「……スイーツ、食べて帰る?」

 由衣は、半ば呆然と悠の席を眺めながら答える。毎週金曜日のスイーツの日を週末になるとつい思い出してしまう。

「あはは、またスイーツ?」

「ゆ――友達と、よく行ってたから」

 琴音は一瞬、由衣の視線をたどる。

「ふーん、悠ちゃんか。今度誘ってみる?」

「ううん。悠は……もう、いいの」

「最近一緒にいないと思ったら、そっか」

 言葉を返す変わりに、由衣は少し寂しそうに笑った。

「あ、あれ行こ、クレープのキッチンカー」

 屈託なく笑う琴音の顔が悠と重なって見えた。

 琴音に振り回される毎日に由衣自身の自由もなくなっていき、余裕をなくした彼女は悠のことさえないがしろにしていることに気づかない。


 悠は、親友のことを思えばいくらでも一人でいられたが、孤独でいることには慣れていなかった。

 最後に言われた由衣の言葉を信じようにも、それ以降すっかり遠くに行ってしまった彼女に疑問を抱き始め、それが不安へと変わっていく。

 まるで自分の半身を失ってしまったような、心の一部が黒く塗りつぶされたような思いを抱えながら、時間の使い方も思い出せず悶々とする日々が何日も続き、それだけ一緒にいた時間が長かったんだと自分でも少し驚いていた。

 悠と由衣の間を遮るように背を向けて立つ琴音の姿が嫌でも目に入る。

 これまでの日常を思うと寂しさは募るけれど、由衣からしてみたら、隣にいる友達が変わっただけのことなのかもしれない。現に今も、暇さえあれば隣には琴音の姿がある。

 そのうち魂が抜けたように呆然とする悠を見かねた小織が、ちょっと前まで由衣の定位置だった場所に立った。

 落ちる影に顔を上げる悠。

「四之葉さん、最近、雨宮さんと一緒にいませんね」

「……うん」

 けれど、もともと社交的じゃない小織には気の利いた言葉もかけられず会話が続かない。

「次、移動教室ですよ」

 由衣のような積極性もなく、それでも悠に関わったのは、頭の隅にかすみがかかったように存在し続ける罪悪感からだ。

 たった一言、投下した爆弾は波紋を作り、それが何かの歯車を狂わせてしまった。

 小織はしばらく悠に話しかけ続けたが、彼女からの返事は相変わらず心ここにあらずといった様子で、どうしようもなく由衣への依存が強かったのだと思い知らされる。

 もはや誰の言葉も届かないほどに、悠の心は空っぽになってしまっていた。

 そんな彼女が、一つの決断を下すのにそう時間はかからなかった。


 真っ暗闇の中で明かりも持たずに、不安定な場所を歩いているような感覚が足元から伝わってくる。

 沈まない水の上を歩いているような不思議な浮遊感。

「――ここは」

 無音の世界に彼女の声だけが反響する。

 その声に応えるように、何もない空間に無数の光が出現すると、ゆっくりと集結した光はやがて人の姿をかたどった。

 明るい場所にできる影のように、闇の中に投影された不鮮明な人影。色彩の反転した世界を見せられているような違和感に頭が混乱する。

 それが一歩踏み出すと足元に波紋が広がった。

『ここは、歪んだ魂が迷い込む世界』

 影は女性とも少年ともつかない抽象的な声で話し始める。

 声は頭に直接響いてくるようで、光でできた影のような容姿からでは表情を窺い知ることはできない。

『ここに迷い込む者は皆、死が理解できず未練を残す魂だ――』

 影は事務作業のように一方的に説明を続ける。

 語られる内容は噂で耳にしたことのある都市伝説そのもので、魂を拾う神様が本当に実在したんだと、どこか他人事のように考えていた。

 一通り告げ終えると疑問を口にする暇もなく、パチンッっと、指を鳴らす音を合図に意識が遠のくのを感じた。


 悠は帰り道を歩いている。

 あんなに短く感じていた通学路も、一人で歩くと二倍も三倍も長く感じる。

 登下校に話していた何気ない会話を思い出しながら、あの日以来、由衣とは連絡も交わさなくなってしまったんだと溜め息をついた。

 由衣に心境の変化があったとしても、その答えを聞くのがずっと怖かった。

 だけど、これが最後だからと勇気を振り絞って、彼女にほんの短いメッセージを送った。

 あの場所で待ってる――と、たった一言。

 そこは、二人が特別な日によく行っていた高台で、数々の思い出がこの場所と紐づいて存在している。

 誕生日や卒業式、楽しかった思い出も、相談があるとき、泣きたいときも、結局はこの場所に来て並んでベンチに座りながらよく遅くまで話していた。

 日が落ちると眼下に夜景が広がって、きれいな景色に悩み事なんてどうでもよくなってしまったし、楽しいときはそれが何倍にも増幅した。

 一人で見る景色はいつもと違う色をしているように思う。

「悠――?」

 かすかに聞こえた声に反射的に振り向くと、階段を上ってくる人影が近づいてくるところだった。

 由衣だ。

 半ばあきらめ気味に彼女を待っていた悠は、泣きそうになるのを堪えながらなんとか返事を返す。

「来てくれないかと思ってた」

 感傷に浸っていたせいで余計に嬉しく感じる。

「避けられてる気がしてたから……」

「悠、私は悠のこと親友だと思ってる」

「うん……」

 景色に目を移すと、辺りをオレンジ色に染めていた夕日が隠れ、町には灯りがともり始めていた。

 悠は少し間を置いてからゆっくり話し始める。

「わたしね、学校、やめることにしたよ。最近、ずっと元気なくて。そしたら、無理しなくていいって、お母さんが」

「――そう」

 少し震えている声。

 悠が、大事なことを相談もせずに決めたのは初めてだ。

 小さなことでも話せる間柄だったから、どんな些細な問題も二人で解決してきた。

 悠のことを思えば、ちょっと過干渉だったこともあったけど、今のこの状況を少し寂しく感じていた。

 でも、例え相談されていたとしても、彼女の望む答えは出せなかっただろう。

 その悩みに対応できるだけの余裕が、判断力が、由衣にもなくなっていたからだ。

「勝手に決めてごめんね、由衣ちゃん」

 どこか吹っ切れたように笑う悠に、見透かされたような気がして由衣は言葉をのんだ。

 二人で並んで見る夜景はいつも素晴らしくて心躍るものだったけれど、今日はなんだか心が晴れない。

 もっと早くこの場所にきて、二人で話せていればよかった。

 お互いにそんなことを思いながら、しばらく無言の時が流れた。

「もう行くね。また、連絡するよ」

「私も。何かあったらまた呼んで」

「……うん」

 中学の卒業式に二人でお祝いしながら、将来の夢について語り合った日が懐かしくて、しばらくその場から動くことができずに、由衣は、薄い街灯に紛れて見えなくなっていく悠の背中をいつまでも見送っていた。



       2



 憂鬱な気分は変わりゆく日常を、途端に単調な毎日へと変えてしまう。

 それは多分、変化する日常の中に変わらない心を持ち込んでしまうから。

 些細な変化なんて言うものは、憂鬱な気分の中にいとも容易く飲み込まれてしまうもの。

 冬海小織は一人欠けてしまったクラスメイトの机を虚ろに眺める。

 転校していったのか、やめてしまったのか、何の理由も語られないまま四之葉悠は学校から姿を消した。

 だけど彼女がいないことに教室がざわついたのはほんの一瞬で、この小さな世界から出ていった一人のことを意識し続ける生徒は少ない。

 唯一変わったことといえば、雨宮由衣が大﨑琴音、鈴川市子と一緒にいなくなったことくらいだ。

 行事の始まる季節を迎え由衣は委員会の仕事に集中するようになり、琴音はまた新しいものに興味を向ける。

 移ろいやすい人の心は、まるで顕微鏡の中の微生物のように、狭い教室の中でそれぞれが関わるグループを変えながら、それでも日々は進んでいった。

 俯瞰した目で教室を眺め、つまらなそうに溜め息をつく小織の背後に声がかかる。

「小織、また一緒に遊ぼ」

 不意に向けられた言葉に、小織は心底嬉しそうな、あるいは心底不機嫌そうな、複雑な表情をした。

「雨宮さんは、もういいんですか」

 振り返らずに答える。

「もう飽きちゃった」

「――そうですか」

 立ち上がって視線を走らせると、琴音の後ろにいる市子と目が合った。

 市子はいつでも琴音の側に控えている。

 何の主張もせず、ただ、彼女の気まぐれに振り回されるのを楽しんでいるかのように。

 琴音と市子は、高校に入ってから知り合った友人だった。

 初めのうちはぶしつけな琴音の態度に鬱陶しささえ感じていた市子だが、彼女を観察しているうちに、以外にも周囲に目が行き届き些細な変化に気づける人物だと知った。

 初対面の相手にも友達と同じ温度で接するせいで最初は敬遠されがちだが、仲良くなってしまえば案外付き合いやすい。

 我が儘で飽きっぽい性格もあって離れていく友人も多いが、喜怒哀楽がはっきりしていて表情に出やすいところは彼女の可愛いところでもある。

 それ以降、腐れ縁というほどでもないが、何となく一緒にいる時間が未だに続いている。

 すっかり付き合いの悪くなった由衣は、最近忙しそうにスマホばかりを見るようになり、急に相手にされなくなった琴音は寂しさを隠すためか、はぐらかすようなことばかり言っていた。

 このところ彼女の興味は目移りして、目に留まったものを片っ端から手に取るが、どれもしっくりこない様子で少し不機嫌そうに見える。

 そんな彼女が、同じようにつまらなそうな気配を発している小織に気づいたのは、それから直ぐのことだった。

「小織元気なくない?」

 何気ない問いかけに市子は小織を視界に入れるが、これといった変化に気づけない。

「そうか?」

「えー、ないよ。分かるじゃん」

「……」

 分かりやすいかそうでないかで言ったら、小織は分かりにくい人間だ。

 市子の好きなタイプではない。

 或いはその理解のできなさが、琴音が小織に惹かれる理由なのかもしれない。

 そしてまた、一度は興味を失ったはずの小織に声をかける。

「小織、なんか変わった? なんか、前よりつまんなそう」

「そんなことないですよ。私はあなたのことが心底嫌いでしたから、あなたのいない日常はこの上なく平和でした」

「――え……?」


 世の中には、どうしようもなく相いれない人物はいるものだ。

 別段相手に非はなくても、視界に入るだけで無性にかんに障るのだ。

 発端は本当に些細なことで、自分でも気に留めない程度のものだったけれど、それが毎日続くと嫌でも意識が向き、それ自体が憂鬱の対象となっていく。

 最初はどうでもいいと思えていたことさえも次第に苦痛に変わっていった。

 そのうえ当人にその意思はなく、傍から見れば親友のような振る舞いをしてくるものだから、何かを訴えたところで友達同士のケンカ程度にしかとらえてもらえず、結果的にこちらに問題があるように扱われるのだ。

 ことあるごとに絡んでくる琴音にも、その後ろで傍観を決め込む市子にも、訴えを反故にする由衣の対応にも、憤りを感じつつ、しかしどうしようもない現状に小織の心は少しづつ疲弊していき、やがて諦めにもにた感情を抱えるようになっていった。

 何もかもを失ったある日、小織は由衣に一つだけ嘘の告白をした。

 由衣は内緒にしてほしいという小織の頼みを守り、親友をおいて琴音たちと行動を共にし始める。

 思惑通り、琴音は小織への興味をなくしてくれた。

 だけど、心安らぐような平和な日常は長くは続かなかった。

 小織にとって予想外のことが起きたからだ。

 由衣の行動によって孤立した悠が、精神的に消耗していることに気づき、それは日を追うごとに悪化して彼女は塞ぎ込むようになっていく。

 何度か悠と関わって他愛無い会話をするも、返ってくる言葉はいつも由衣との思い出ばかりで、彼女がどうしようもなく由衣に依存していることを思い知る。

 それ以来、小織の平穏は一気に崩れた。

 どこにいても、琴音が目に入るのだ。

 楽しそうな声音。

 耳につく笑い声。

 当然のようにそこに集まる友人たち。

 まるで一人だけが取り残されたような唐突な疎外感。

 どう消化したらいいのかわからない、いたたまれなさが沸き起こり、さいなまれながら日々は続いた。

 だから再び琴音に声をかけられた時、彼女の心は思いのほか高ぶってしまって、本来言うはずのなかった言葉を返してしまった。

「小織――」

 帰り際、階段の踊り場に差し掛かったところで不意に呼び止められる。

 振り向くとそこに立っていた市子に、小織は少し意外そうな顔をした。

「ここであなたが動くんですか? いつもみたいに、傍観していればいいのに」

「なんで、琴音を傷つけるようなことを言った。あいつは、あんたを友達だと思ってる」

 小織はなぜだか愉快で仕方なかった。ともすれば、笑い出してしまいそうな感情を必死に抑え込んでいる。

「それが、なんですか?」

 小織の態度に憤りを感じた市子は、思わず一歩踏み込み掴みかかろうとするが、間に入った琴音によって止められた。

 正面に立った琴音が、まっすぐ小織を見据える。

「私と一緒にいるの、嫌だった?」

 普段とは違う少し低い声音に、小織はゆっくり首を横に振った。

「大﨑さんとの時間は本当に苦痛でしたけれど、あなたと離れたところでそれは終わらなかった」

 両手で顔を覆い、話し続ける。

「平和な日常が送れるはずだった。なのに、あなたのことが頭から離れないんですよ。わかりませんよね。何事にも執着したことのないあなたには」

 小さく震える肩。言葉の端々から伝わる、まるで笑っているかのような声音の揺らぎに、琴音は一瞬、ほんの一瞬だけ魔が差して、思わず小織の肩を押してしまう。

 それは本当に軽く触れた程度の感触だったが、階段上に立つ彼女の体がバランスを崩すには十分だった。

 次第に傾いていく小織の姿。その口元が笑みに歪んだ気がした。

「今、あなたの目に何が映っているのか、私に教えてください」

 耳元で囁かれた声は確かに小織のもので、しかし当の彼女は目の前で倒れていく事実に琴音は困惑し目を瞬く。

 ところが次の瞬間彼女の目に飛び込んできたのは、重力に引かれて遠ざかっていく市子の姿だった。

 反射的に伸ばした手は空を切り、市子の身体は階段を転げ落ちていく。

「市子――!!」

 慌てて駆け寄り抱き起そうとするが、頭を打ったのか意識を失い動く気配がない。

「市子! 市子!!」

 琴音は混乱した頭のまま、市子の名前をただ呼び続けた。

 取り乱して必死に呼びかけ続ける琴音の声をどこか遠くに感じながら、小織は焦点の定まらない目を見開いて小さく笑みをこぼした。

「大﨑さん、そんな顔もできるですね」

 友人のために心を痛めるその姿に。

 心臓を抉られた気にさえさせる悲痛な叫び声に。

 そのまなこの奥に宿る剥き出しの感情に。

 小織は心が満たされていくのを感じていた。

「……もういい」

 琴音の声音から、まるで地の底から湧き上がってくるような底知れぬ怒りを感じて、小織の心は高鳴った。

「いいからさっさと私の前から消えてよ!!」

「――言われなくてもそうしますよ」

 琴音の投げた言葉が、いつか彼女の後悔になればいいと、小織は願う。

「私はもう、とっくに死んでいるんですから」



       3



 冬海小織との一件によって階段から落ちた鈴川市子はその後数日間寝込むことになったが、幸いにも身体に異常はなく、ただ前後の記憶が曖昧で何となく釈然としないもどかしさを感じていた。

 そんな彼女のもとに毎日のように見舞いに来ていた大﨑琴音だが、その実、頭の中では別のことを考えていて市子との会話も上の空な状態だ。

 琴音の思考の大半を占めているのは先日悶着のあった小織のことだ。

 あの日、とっくに死んでいると口にした小織は、次の日、本当に死んでしまった。

 確かにお互いに冷静さを欠いていたあの場では、まともな会話は期待できなかったかもしれない。だけど、一時的な感情で彼女を遠ざけた結果、話し合う機会は永遠に失われてしまった。

 小織との間にあった誤解を解き、やり直すチャンスはいくらでもあったはずなのに、足元が唐突に崩れさり歩む道がなくなってしまった気配。

 次の日になれば冷静になれる。そう思って迎えた明日に、琴音の平穏は戻ってこなかった。

 市子の部屋を訪れた小織の表情は今日も曇っている。

「……小織に、消えてって言ったんだよ、私」

 何度目かの懺悔の言葉に、市子も何度目かになる言葉を返す。

「琴音のせいじゃない」

「――ちゃんと話を聞いておくんだった。小織を一人にするんじゃなかった……」

 うわ言のように小織への後悔ばかりを繰り返す琴音にかける言葉が見つからない。

 市子は本棚から一冊の本を取り出すと、開いたページを琴音に差し出した。

「なぁ、琴音。この噂、聞いたことある?」

「都市、伝説――?」

 やっと現実に興味を示した琴音に市子は頷く。

「そう。未練を残した魂が人生をやり直せるって噂」

「聞いたことあるかも。でも、これって……」

「ああ、だから、もし小織に未練が残っているなら――」

「そうだ、これだよ!!」

 市子の話を遮って声を上げた琴音は、彼女の両肩に手を置いて力を込めた。その目はすっかり輝きを取り戻している。

「この都市伝説を利用して小織を連れ戻すんだよ!」

「……」

 突拍子のない発言に、話にならないといった風にため息をついた市子は、閉じた本で琴音の頭を小突く。

「バカ。小織が帰ってくる可能性の話をしたんだ」

「……そう、だよね」

 それでも煮え切らない態度の琴音から、彼女がまだ納得していない事実がうかがえて、市子は一つ問題が解決するのと引き換えに新たな問題が発生したことを懸念し始める。

 本を借りて帰りたいと言い出した琴音の言葉を承諾したのも、その本がただの都市伝説を題材にした娯楽小説であることを説明するより早いと感じたからだ。

 数日すれば熱も冷めて、本の中の別の話にでも関心が移っていればいい。

 しかし、噂という小さな娯楽が琴音の気休めになることを望んでいた市子の考えが甘かったのだと痛感する。

「私、試してみるよ」

 返された本と同時に放たれた一言に市子は目を見開いた。

「まだ、諦めてなかったのか?」

「必ず小織を連れて帰る。そしたらまたみんなで遊ぼ」

 去り際に小さく笑いかけると、琴音は踵を返して廊下へ向かう。引き留めようと伸ばした市子の手をすり抜けて階段を駆け上がっていった。

「待て、琴音!!」

 彼女がしようとしていることに思い当たった市子は慌てて追いかけるが、焦燥感から足がもつれ、なかなか追いつくことができない。

 ようやく屋上のドアに手をかけた時には、琴音の姿はすでにフェンスの外で、どうしようもできない事態に呼吸をするのも忘れてしまった。

 心臓の鼓動がやけに大きく感じる。

 その時自分が何を言ったのか、何かを叫んだのか、それすらも理解できないまま、屋上から消えていく琴音の姿をただ呆然と見ていることしかできなかった。


 魂は空中を漂っている。まさにそんな形容詞がぴったりの場所だ。

 足元はおぼつかず、周囲は静寂に包まれ、目を開いているのか閉じているのかさえもわからない暗闇に、今ここに存在している事実を疑いたくなるような空間だった。

 身体に感じる違和感とは裏腹に、意識だけはやけにはっきりしていて、ここに来た経緯や目的などはつぶさに覚えている。

「ここが――」

 その場所なのかと続けようとして、思った言葉が音として発せられた事実に少し驚いた。

 魂というくらいだから、実体のない思念体になってしまったと勝手に思っていたが、どうやら違うようだ。

 声に呼応するように揺らいだ世界に小さな光を認めると、ぼんやりと人の形をした光がそこに立っていた。

『ここは、歪んだ魂が迷い込む世界』

 光から送られた声とも音ともとれない思念に、神様に魂を拾われたのだと確信した琴音は笑みをこぼす。

『ここに迷い込む者は皆、死が理解できず未練を残す魂だ。強い執着で現世に縛り付けられる魂は世界の狭間を永遠に彷徨い続け、やがては悪霊となる。そうならないために、死に折り合いをつけるのがこの場所だ』

「未練ならあるよ」

『と言っても、ここでできるのはせいぜい、魂が死を理解するまでの時間を稼ぐことくらいだ。今こうして起きている結果を変えられるわけではない』

「え――?」

『死を覚悟した瞬間から、実際に命を落とすまで。与えられる時間はそれだけだ』

「……ちょっと待って。それじゃ、小織を連れ戻すことなんてできないじゃない!! だったら私、何のために、誰のために、こんな――!!」

 鳴らされた指の音を合図に琴音の精神は現実に引き戻された。


 悪い夢から覚めた気分だ。

 琴音の両手には借りた本が握られている。

「ここ、なんだ……」

 自身が死を覚悟した瞬間に深い溜め息をつく。それは彼女が命を落とすほんの数分前だった。

 ゆっくりと市子に近づいた琴音は借りていた本をそっと手渡す。

「やっぱり、小織を助ける方法なんて書いてなかったよ」

 声が震えていることに気づかれただろうか。

「だから言っただろ、ただの都市伝説の噂話だって」

 本当にそうだ。

 何の根拠もないただの噂話。

 だけど魂を選別する神様は本当にいただなんてうそぶく気力はもう残っていなかった。

「……ごめん」

「どうした? 琴音」

「ごめん、市子。ごめん、ごめん――」

 琴音は市子に縋り付いてただ謝り続けた。

 突然いなくなる自分を許してほしいという気持ちと、許さなくていいという気持ちがせめぎ合って、あふれ出した涙が止まらなくなる。

 そのまま市子にもたれかかりながら目の前が真っ暗になるのを感じた。

 頭の隅で、暗闇で聞いたあの声が鳴っている。

『――死に折り合いをつけ未練を払拭するのは現世の人間の方だ。そもそも、命を手放した人間に何をやり直す権利が与えられるというんだ』


 友人に縋り付き泣きじゃくる琴音の姿はクラスメイトほぼ全員が目撃していた。

 その後すぐ微動だにしなくなった彼女が亡くなっていることに気づいた時には教室は一時騒然となった。

 校内で起きた事件に翻弄されるように人々は慌ただしく動き回っている。

 くだんの生徒に関係のあった教師、生徒に声がかけられる中、市子もまた事件の参考人として聴取を受けていた。

「鈴川市子さん、君は、大崎琴音さんとは友人関係だったようですね」

「はい」

 聞けば、琴音の死に不可解な点があったようで、先日の小織の件も含めて捜査が進んでいるようだ。

「冬海小織さんが亡くなる前日、大崎琴音さんに階段から突き落とされているようですが――」

「それは……記憶が曖昧で……」

「何かもめていたんじゃないんですか」

「いえ――」

 市子はスカートの上で握った拳に力をこめる。

「ただ、小織がいなくなってから、琴音の執着が激しくなったような、気が、してました……」

「大崎琴音さんが教室で泣いている姿がほぼ全員に目撃されているようですが、本当にそれは教室だったのですか?」

「はい」

 聴取を取りに来た刑事は軽い相槌を返し書類に目を落とす。何事か考え込んでいる様子で法杖をつき、テーブルを叩く指が一定のリズムを刻み始めた。

 短期間で同じクラスの生徒が立て続けに亡くなり、生徒の供述と死因が矛盾している。これは、クラスメイト全員で口裏を合わせている可能性を示唆しているのではないか?

「本を――」

 唐突に口を開いた市子に書類から目を離し顔を上げる。

「都市伝説の本を、貸してたんです。琴音に。それを返されたとき、急に、泣き出して――」

「都市伝説、ですか」

 さして興味もなさそうだったが、市子は琴音に貸していた本をテーブルの上に置いて見せる。

「これの、人生をやり直せるって噂に、すごく興味を示してました」

 何の気なしに手に取った本には、学生が興味を持ちそうな都市伝説や怪談、心霊スポットなどの情報を交えた小説が短編形式で載せられていた。

 証拠になりそうなものではないが、錯乱状態にあった彼女に何らかの影響を与えたのだろうか。

「大崎琴音さんは、こういった本をよく?」

「いえ、それは、元気のない琴音に、私が――」

 市子は息をのみ、置かれた本に伸ばしかけた手を不意に止める。

「私が、けしかけたことになるんでしょうか。この本に、興味を持たせた私が……」

「そうだとしても、不可解な死因の説明ができるものではありませんよ」

 やはり興味もなさそうに、少しやる気のなささえ感じさせる声音で一掃され、真剣に向き合おうとしている市子は取り付く島もない雰囲気に眉根を寄せる。その不安が表情に出ていたのか、刑事は一呼吸置いて話し始めた。

「大崎琴音さんの身体は、外面の表皮一枚で成立しているような状態で、その損傷具合を見るに外部から相当な負荷をかけられたことが想像できるのに、外傷はただの一つも見当たらなかったそうですよ」

「え……」

「まるで、屋上から飛び降りでもしたような――」

「おい、しゃべりすぎだぞ」

 いつの間にか扉の前に立っていた別の刑事が苛立ちを含んだ声で口をはさむ。

「あ、すみません鳥尾警部」

 流暢りゅうちょうに捜査情報を漏らしていた刑事は、腕を組みながら睨みつけるその人物を見るや慌てて居住まいを正した。

 琴音の身体に起きていた不可解な事実に、市子の中にあるはずのない記憶が脳裏をよぎり彼女は戦慄した。

 そこにあるのはただ、明確な償い方もなく、何をしても琴音はもう帰ってこないのだという後悔。

 市子の足はその場に縫い付けられたように動けない。

 時計は、彼女が亡くなった時刻を指示していた。


挿絵(By みてみん)

ここまで読んでいただきありがとうございました。


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