第四話 沼地にて
調査隊が壊滅したのは、四日前ほどの出来事であった。
未開の領域を調査する為に街を出発した北方調査隊は、腕利きの兵士達三十名で構成されていた。彼らは五日目にして、山を二つ超えた先にある森の、さらに奥へとたどり着いた。眼前には、地面が水に沈んだ深い森が広がっていた。
倒木に生えるキノコ類が水の中に沈んでいることから、昨日の豪雨で水嵩が増している様子が、容易に見て取れる。水深は人間の胴ほどか、それ以上にも見えた。
「このまま進みますか」兵士の一人が聞いた。「迂回されますか?」
調査隊全員が辺りを見渡しても、見える範囲はすべて同じ環境であった。
「どこを行こうが一緒らしい」先頭に立つ威厳のある男が、そう言った。「直進する。野営を張れる場所までは我慢だ」
先頭が水の中に入っていくと、馬に跨っていても足先が水に浸かるほどの深さを有していて、決して気持ちのいい水浴びではなかった。オクトホースが一歩でも歩く度に、足元の水面がゆらゆらと揺れ、反射していた兵士達の姿を歪に揺らめかせる。
じっとりと肌にこびり付く嫌な湿気が、生温い風に運ばれて、体全体を包み込んでくる。腐った木々やヘドロの匂いが鼻を突き、一刻でも早く此処を抜けたいという気持ちに拍車を掛ける。
周囲はまばらに木々が生え、倒木がだらし無く水の中に首を垂れる。皿のような平べったい葉が、水面にぼんやりと浮かんでいる。生えている木々は、死んだ木から水を通じて栄養を吸い上げているのだろうか。このまま水の中にいれば自分達の体液ですらも吸われてしまうのではないか、という幻覚混じりの不安が襲ってくる。
気分と景色を変える為に顔を上げれば、巨大耳鼠と同じ燻んだ不気味な灰色の空が広がっており、今にも雨が降り出しそうであった。景色は変わるが、気分は余計落ち込みそうだ。
「この場所は、我々が住むには適してなさそうですね」兵士の一人が気分転換に会話を始めた。「水の中で寝れるか、木の上で暮らせるなら話は別ですが」
「折れそうな木の上に家を建てるくらいなら、俺は牛舎で糞の匂いを嗅ぎながら寝た方がマシだぜ」と別の兵士。
「泥遊びなら幾らでもできるぜ? ガキの頃、好きだったろお前」ともう一人が皮肉混じりに、隣の男を肘で小突いた。
「此処なら無限に泥もあるし、泥で汚れても、さらに汚い水で泳いで体を洗えるしな」小突かれた男が、あっけらかんと笑いながら言った。
先ほどまで無音であった森の中に、彼らの笑いや喋り声が響き渡る。先ほどまで、暗い顔をしていた彼らの表情は、少しばかり緩んだようだ。
穏やかな時間は長く続かなかった。
彼らの足の下にある水面が、彼らの侵攻方向から波を返してきた。風は吹いていない。
「止まれ」調査隊のリーダー格の男が声をあげた。
三十頭の馬が動きを止め、ぴたりと会話が止み、また静寂が訪れた。ピンと緊張の糸が張り詰め、兵士達の顔から笑顔が消えた。
耳を澄ませるまでもなく、静まり帰る森の奥から、カチカチと金属を叩き合わせているような甲高い音が響いてきた。
「……何かいる」先頭に立っていた兵士が、声を落として言った。
「武器を取れ、怪物かもしれない」隊長が静かに、しかしはっきりと聞こえる声で命令する。「周囲を警戒しろ」
兵士達は背負っていたライフルを取り出し、前方に向けて構えた。
それと同時か、最初は前方からのみ来ていた波が、金属音の接近と共に、全方位から彼らに向かって波立ってくる。金属の叩き合う音に混じり、硬い物を擦り合わせる音が聞こえてくる。不穏な空気に追い打ちをかけるように、何かが水をかき混ぜるように、調査隊の周囲から接近してくる。
「全方位だ。総員迎撃——」
「う、うわああ」兵士の一人が、恐怖に塗れた声をあげた。
隊長が指示を飛ばそうとした瞬間、それ、いやそれらは、彼らを取り囲む様に姿を表した。声に驚いたのか、それとも目の前の怪物に怯えたのか、オクトホース達がびくりと震えた。
真っ黒な蛇のように長く伸びる体は、ツルツルとした滑らかな甲殻に覆われている。体の横から無数に生え出してくる、多関節の海老の様な黒く光る脚。
頭部と思わしき場所には目のような物はなく、大きな横長の口が空いており、そこからドス黒い牙が覗いている。口の左右からは、鎌のように鋭い二本の牙が突き出している。
見ようによっては、黒い海老の様に見えるが、そんな生易しいものではなかった。体長に個体差はあるようだが、一番大きなもので五メートルは悠に超えていた。
何よりも調査隊にとって脅威なのは、怪物達が数十匹、まるで申し合わせたかの様に彼らを取り囲んでいたことであった。群れを組んで動く怪物なのかもしれないが、それにしても対象を取り囲むという行為自体、どうにも知能が高すぎるように思える。
「取り乱すな! 撃て!」隊長は雄々しい声でそう叫ぶ。だが、彼の表情は苦しい状況で、強張ったものであった。
調査隊が構えたライフルが、一斉に銃声と硝煙を撒き散らし始めた。だが、銃弾は怪物の体に傷一つ付けれず、虚しく弾かれて森の奥へと消えていく。どれだけ銃を乱射しても、どれだけ弾を無駄にしても、突撃してくる黒鉄の怪物は接近するのを止めなかった。
銃を撃っても空になった薬莢が水の中に落ちていき、火薬の匂いが充満するばかりであった。
「ひ、ひぃ」一人の兵士が声を漏らした。
彼は泥遊びが好きだと言った兵士であったが、眼前にいる未曾有の怪物を見て、顔を引きつらせている。
「各種特殊弾も躊躇わず使え!」陣形の中央にいる隊長が叫ぶ。「ここで死んでは、調査に出た意味がない!」
彼は腰に差した剣を抜き、餌の部分をぐっと捻りあげる。たちまち剣は真っ赤に燃え上がり、周囲の湿気を揮発させていく。
「命を賭して切り抜けろ!」ゆらりと揺れる湯気が剣の周りに立ち上ったかと思うと、彼はそれを手に馬ごと、退路を塞ごうとする怪物に向けて突撃していく。
「た、隊長!」それを見た兵士は、彼の勇姿に感化されて同様に剣を抜く。
「一人でもこの状況を切りぬける!」隊長は馬を出来るだけ早く走らせながら叫ぶ。「街に戻らなければ、無駄死にだ」
冷酷な言葉であったが、地面に落ちている石のような事実であった。情報を得るために街を出た彼らにとって、この場で全滅し、何一つ情報を持ち帰れないのが、一番の失態であると同時に、一番無様な死に方であるのだ。
「うおぉぉおお!」隊長とそれに続いた兵士達は、けたたましい雄叫びをあげた。
グッと歯を食いしばった隊長が、怪物に向かって赤く燃える剣を振りかざす。鋼鉄のように弾丸を弾き返す硬い怪物の外殻側部を、溶け始めたバターのように溶かしながら、炎熱式剣が入り込んだ。切断箇所は赤い一筋の線に代わり、怪物に奇声をあげさせるに至った。
切り込まれた怪物は、皮一枚を残したソーセージの様に、ぶらりと崩れて動きを止めたのだ。
「炎熱式が効くぞ!」隊長が一瞬振り返り、自分の隊に向けて叫んだ。
隊長は自分の予想が当たっていて、未知の怪物を倒せるという余裕に、若干顔を綻ばせている。
「よっしゃああ!」兵達もそれに、合わせて喜びの雄叫びをあげて突進し始めた。
だが、彼らが隊長の顔を見るのはそれで最後であった。
横からもう一匹の怪物が飛び込んできて、口の脇にあった巨大な二本の鎌で、隊長の体を真っ二つに切り裂いたのだ。剣を構えたままの上半身は、宙を舞い、数秒浮遊したかと思うと、そのままドボンと水の中に落ちた。落ちたかと思うと、水面にはワインをこぼしたかのような、赤い血溜まりが広がっていく。
彼の手に握られていた赤く発熱する剣は、水の中に落ちた瞬間にジューを熱を吸い取られて、ゴボゴボと水泡を作り出していたかと思うと、色を失っていく。
馬に跨ったままの下半身は、馬が逃げ出すとずるりと落ち、怪物はその死体に我先と群がり始めた。
黒く畝る怪物の数匹が、逃げ出した馬にも噛みつき、弄ぶ様に捕食していく。
「ひっ……」隊長達を失った兵士達は、恐怖に顔を引きつらせ、各々悲痛の声を漏らしている。彼らの周囲を取り囲んでいる怪物達も、じりじりと近づいてくる。
「うあああ!」だが、その中の一人が隊から、剣を抜いて飛び出した。「隊長の死を無駄にするなああ!」
絶望に塗れた彼の顔には、ただ一つ、一人でも生きて街に戻るという決心だけが浮かんでいたのだ。
彼は炎熱式を振り回し、馬と隊長の死体に群がる怪物の群に斬り込んでいく。
「……一人でも帰還するんだ!」また別の兵が声をあげ、退路を確保するために馬を飛ばす。「行くぞ」
覚悟を決め、一つの塊になった兵士達は、立ちはだかる怪物の群をどうにかこじ開けようと、生ぬるい水の中を突き進んだ。だが一人、また一人と、怪物達の鋭い顎や、鋼鉄の様な体から繰り出される横薙ぎによって、血で濁った水の中へと沈んでいく。
頭を失って暴れる馬から振り落とされる者もいた。隊長の様に、体の一部を切り落とされた物もいた。
兵士達もそれを運ぶ馬達も、仲間と怪物の血を受けて、赤く染まっていく。先ほどまで茶色く地面の色で濁っていた水が、今はすでに赤色で埋め尽くされ始めていた。
そして前方に立ちはだかる、黒く畝る怪物が一匹もいなくなり、一筋の道が拓けた。
「ぬ、抜けたぞ!」兵士の一人が、逆境を乗り越えた喜びから好機の声をあげた。「そのまま走れ!」
そして、怪物の包囲網をくぐり抜けた時には、五人の兵士達を残すばかりであった。彼ら全員の瞳には、まだ希望が残されているように見えた。
「早く行け!」背後に残されたまだ息のある兵士達が叫んだ。だが、彼もまた、怪物の強靭な顎によって、体を縦に引き裂かれ、見るも無残な姿に成り果てた。
仲間が死んでいく断末魔も、怪物達が立てる奇声や捕食音も。全てを置き去りにして、残った五人は持てる能力の全てと、死への絶対的な恐怖から湧き上がる力を尽くして、馬を出来るだけ早く走らせた。
だが、蠢く怪物達は、二十五体の人間と、二十五頭のオクトホースを食い荒らしても、満足しなかったらしい。彼らは顔をあげ、顎から突き出した二本の鎌を、カチカチと打ち鳴らし、周囲を見回す。目が無いはずなのだが、逃げていく馬と人間、計十体の獲物をどうにか捕捉し、それらを追いかけるように地面を這っていく。
「まだ付いてくるぞ!」最後尾の兵士が水音に気づき、後ろを振り返って叫ぶ。
安心できたのも数秒であった。彼らの後ろから残った異形の怪物達が、黒い壁かと見紛うほどに押し寄せてきている。
「後五百メートルだ!」先頭が声を張り上げた。「五百メートルで、湿地から抜けられる! そうすればオクトホースの最大速で振り払えるはずだ! 全員で——」
彼が口にした希望はすぐに打ち砕かれた。
後ろばかりに気を取られ、横から迫り来る存在に気付いていなかったのだ。それは先ほどと同じような怪物であった様に見えたが、まだ子供なのか、体の線が一回りもふた回りも細かった。体の色も艶も燻んだ色で、脚は短かった。
だがそんなことは関係がなかった。それら二つは左右の木陰から突然飛び出したかと思うと、ぶるんと体を震わせて、四人の兵士達を馬からはたき落した。頭部が見えなかったので、怪物の尻尾なのであろう。
尻尾はナイフの様に尖っているのか、振り落とされた兵士達の鎧を砕き、さらに内部の体を斬り付けた。吹き出した血が、地面に雨の様に降り注いだが、彼らが一度水に落ちれば雨が止む。
「ぐ……ああ」兵士達は痛みに声を漏らした。
だが、落馬するという事実は、いくら叫んでも、いくら足掻こうとも変わらなかった。
「……行け、一人でも——」
そこまで言いかけた男に、巨大な黒く畝る怪物達が飛びかかり、無残にも引き千切って捕食し始めた。
「くっ……」一人残った兵士は、仲間を失った絶望と自分の職務をまっとうするという責任を胸に、馬を走らせて湿地を後にした。「一人でも帰らなければ……」
彼は一切振り返らず、馬を走らせた。彼の後ろを追ってきていた、黒い海老の様な怪物は、いつしか姿が見えなくなっていた。




