第2話 状況把握と赤ん坊
奇妙な体験をしたあと、なるほど、そういうことか、と納得できたのでそれについて話をしたい。
あの感電のあと、俺が体験した諸々は、一言でいえば、そう。
――異世界転生。
ということになるだろう、と気づいたのは生まれてから少し経った後だ。
一番最初、俺は俺が新たに生まれたのだということすら分かっていなかったが、数日もすればそういうことなのだなということは理解が出来た。
なぜなら、赤ん坊の体というのはどうにも本能の方が強いらしく、赤ん坊にあるだろう生理現象のすべてが明確に俺が赤ん坊であることを示していたからだ。
最も分かりやすかったのは、食事であろう。
最初のうちはろくすっぽ体も動かせずに困惑していたが、ふと、おなかが減ったな、と思うと意識していないのに勝手に俺は泣いていった。
そしてそれに気づいた一人の若い女性が、俺を抱いて、服をはだけさせた。
かなり勇敢な顔立ちの女性で、動きも機敏な人だな、と思っていたが、俺を見る視線はとても優しい人である。
そんな彼女の行動に初めは困惑していたが、しかし彼女がそうするとほとんど条件反射的に俺は食事を始めていたのだから、あぁ、なるほど、とその瞬間に思ったのである。
こんな行動をするのは、基本的には赤ん坊だけである。
俺の体が小さいのも、周りが大きく見えるのも、体が思い通りに動かないのも、勝手に泣き出したりしてしまうのも、すべては、俺が赤ん坊だからなのだ、とその時点でしっかりと理解できた。
ところで、俺はもともと地球の日本で、一人の人間として大学生活を送っていた人間だ。
名前は、碓井水城と言って、ごくごく平凡なに生きていた。
小さなころに少し不思議な体験をしたことがあり、それに関わった、やはり少し不思議な少女が幼馴染だったが、特筆することはせいぜいそれくらいで……。
あとは趣味がアクアリウム――水槽で魚を飼うこと、くらいなものの、特別なところは何もない人間だった。
それなのに、である。
今、俺は相当に奇妙な体験をしているわけだ。
異世界への転生。
それは誰にでも与えられるものではないはずで、しかしそれを俺は体験している。
ということは前世では死んだはずで、実際にその瞬間のことはなんとなく覚えている。
熱帯魚の世話をしていたとき、水に濡れた手でアクアリウム用品に触れ、感電して意識を失った。
あれが、死んだ瞬間、ということになるだろう。
そして、気づいたら俺は生まれ変わっていた、というわけだ。
本当に、世の中には不思議なことがあるものだ、と思う。
普通の転生だったら、地球のどこかで生まれなおしていたら、ここまで驚かなかったかもしれない。
けれど、俺は今、明らかに別世界にいるのだ。
俺に授乳させてくれた母と思しき女性や、屈強な体を持つ父と思しき男性の見た目は地球にはどう見ても存在しなかったタイプの人間だった。
肌がなめし皮のように滑らかで、浅黒いことはどこか秘境の奥地にいる人々であるということで納得できなくもない。
けれど、その肌に細かに刻まれている刺青は見たこともないもので、流石に現代社会では見ることがなかった。
刺青を彫る人間は地球でもいなかったわけではないし、それほど珍しくもなかったが、ここにいる彼らのそれはそういうものとは違うのだと一目で理解できるような、奇妙な存在感があるのだ。
そしてもちろん、それだけでここは異世界だ、と思ったわけではない。
俺が他の何よりもその思いを強くした理由は、一つだ。
それは、母や父が、奇妙な力を使っていたからである。
それは何か。
詳細は分からない。
けれど、俺の言葉でそれを説明するなら、呼び方はただ一つだ。
つまり。
――魔法。
と呼ぶべき何かを、父も母も使っていたのである。
◆◇◆◇◆
ある日、俺が籐で作られたと思われるベッドの上でごろごろ転がっていると、母が部屋の中心にある囲炉裏のような場所に炭を並べていた。
その日はいつもより冷えた日で、少し肌寒いかな、と感じる気候だった。
おそらく、母は囲炉裏で火を焚いて、部屋を気持ち暖めようと思ったのだろう。
それ自体は特に不思議なことではない。
しかし、驚くべきことは、母が炭を並べ終わった後に起こった。
すべての炭を母が並べ終わると、母は頷いて、それから、囲炉裏に向かって手をかざし、
「……火」
と唱えた。
いったい何をやっているのだろう……。
俺がそう思った瞬間、母の前に、何の前触れもなく、ぼっ、と炎が現れ、母の意思に従うように炭のもとへと動き、そして囲炉裏に並べられた炭に着火したのだ。
俺はその瞬間、唖然とした。
なにせ、その光景は明らかに、魔法、と呼ばれる何か以外の何物でもなかったからだ。
一応、手品であると言われても納得できなくもないが、なぜ赤ん坊以外の人間がいない空間で突然手品を始めなければならないのか。
そんなことは普通に考えてありえないだろう。
つまり、あれはおそらく手品ではない。
となると魔法というしかないだろう。
そんな力は、地球にはたぶん、存在しなかった。
だから、そんなものがあるということは、ここは地球ではない、ということになるのだろう。
そう思った瞬間でもあった。
実際、囲炉裏に着火した後、母は俺の方に近づいてきて言ったのだ。
「……む? どうした、ミズキ。そんな狐につままれたような顔をして。……あぁ、なるほど。お前はまだ一度も魔術を目にしたことがなかったな? 家で使うことはこの季節は特に少ないからな……。もっと早く見せるべきだったか。なに、心配するな。これは別に特別な力ではない。我らアジール族のものであればだれでもそのうち使えるようになるものだ。多少の勉強は必要だがな……」
そんな風に。
母は、その雰囲気や見た目に似合った勇敢な言葉遣いでしゃべる人で、言葉にも特有の圧力のようなものが感じられる人だが、俺に話しかける声は優しい。
父と会話する様子はまるで同年代の男同士が喋っているように感じられるほどだが、俺に対しては少しだけ感じが違うのだ。
ちなみにアジール族、というのは俺が生まれたこの家の属する種族のようで、父も母もその一族の人間だという。
この家のある場所は、アジール族の集落の中であり、この辺りにはアジール族しか住んでいないらしい。
父と母のする会話や、俺に話しかける言葉から大体そんなようなことが分かって来た。
言葉については、なぜ分かるのか不思議だが、日本語とも英語とも全く異なるそれは、俺の頭にすんなりと意味を持って聞こえる。
赤ん坊だからか、まだ全く喋れはしないが、それはまだ喋ることに不慣れな体だからで、こつこつ練習していけばそのうち話せるようになりそうだった。
また、集落の人間は父母以外にもこの家に訪ねてくるので見たが、皆、俺の父母のような色合いの肌をしていて、身に付けているのは地球で言うならアジア系の民族衣装のようなものが多かった。
若干、西洋風のものが混じっていることもあるから、おそらく、この世界にもそういう文化のある地域もあるということなのかもしれない、という推測が出来た。
と言ってもそうかもしれないというだけで、もしかしたら集落内で作っているのかもしれないが。
俺から見ると、アジア風、西洋風、と見えるだけで、この世界では同じ文化が生み出したものなのかもしれない可能性はないではない。
他に説明することは……。
そうそう、名前についてだ。
俺は前世、地球においては碓井水城という名前だった。
苗字はともかく名前は男性としては少し珍しかったが、全くいないという訳でもないありふれたものだろう。
だから、という訳でもないが、それほど名前に執着はない。
両親が名付けてくれた大切なものだという感覚はあるが、生まれなおしてまで同じ名前を名乗りたいとは特に思っていなかった。
だから、この世界で新たに別の名前がつけられるならそれはそれで、と考えていたのだが、意外なことに俺に名付けられたのは、前世と全く同じそれだった。
つまりは、俺はミズキ、という名前になったのだ。
アジール族、カジャクの末裔のスワラニ家のミズキ、という意味で、フルネームは、ミズキ・カジャク・スワラニ・アジールということになるらしい。
生まれてからしばらくして、両親にそう言われた。説明もしてくれたのだが、まさか両親も俺が理解して記憶しているとは思ってはいまい。
ただ、少し長い気もするが、ピカソやらじゅげむやらと比べれば大したことは無いだろう。
それに普段は父母からも集落の他の人間からもミズキ、としか呼ばれていないから問題にはならなそうだ。
それに加えて、父も母も、普段、他人に名乗るときはすべて名乗らずに、苗字部分はスワラニだけで通している。
カジャク、という部分とアジール、という部分は短縮可能なものらしい。
もしかしたら俺の理解が不完全かもしれないが、喋れるようになったらあとで細かく聞いてみようと思っていることである。
ちなみに父と母の名前であるが、父はウラガ、母はカリハという。
お互いに名前を呼び捨てで呼び合っており、地球の日本のように、お互いをお父さん、お母さんと呼ぶことは無いようだ。
俺がまだ赤ん坊だからなのか、歩けるくらいの大きさになってからもそれが変わらないのかはまだ分からない。
が、なんとなくそのままのような気がする。
俺が喋れるようになったら、お父さんお母さんと呼ぶことくらいは許してほしいが。
さすがに呼び捨てで二人を呼ぶわけにもいかないだろうし、まさかさん付けというのもないだろう。
ウラガさん、カリハさんでは他人行儀に過ぎる気がする。
まぁ、ところ違えば文化も変わる。
それでいいのだともし言われれば、反論は出来ない。
ちなみに、父母の夫婦仲はかなり良好なようだった。
若干、父ウラガが、母カリハの尻に敷かれているような雰囲気はないではないが、基本的に母はかなり献身的で、毎朝外に仕事に行く父に弁当と思しきものを持たせ、ちょうど帰ってくる時間を計算して夕ご飯を用意している出来た嫁のようである。
服などについてもしっかりと用意していて、至れり尽くせりのようだ。
父ウラガがたまに友人と思しき男――バヒール、という男が多い――を連れてきても特に文句を言うことなく、甲斐甲斐しく酒を運んだりして世話をしていた。
我が母ながら完璧な嫁具合にすごいものだと思う。
あそこまでやらずとも……と思うが、ここはそういう文化なのかもしれない。
母がすごいだけかもしれないが。
そんな忙しそうな中でも、母は赤ん坊である俺の世話も手を抜かない。
そのため、非常に快適に過ごさせてもらった。
おしめを変えてもらったり、授乳させてもらったりは初めのうちは相当恥ずかしかったことは言うまでもないが、羞恥心というのはすり減るものだ。
そのうち慣れてしまい、特に何とも思わなくなった。
むしろ、母が世話をしやすいように先を読んで動くようになったほどだ。
その方が、母の負担も減るだろう、と思ってのことだったが、母もそれを理解して、
「……お前は手がかからないな? バヒール夫妻が言うには、もっと泣きわめいたり大変だという話だが、お前は本当に必要なときしか泣かないし、夜泣きもしないし……。不思議な子だ。やはり、愛し子だからかな?」
と言っていた。
愛し子というのは何なのかはよくわからないが、俺が普通の赤ん坊と異なるのは明らかだ。
なにせ前世の記憶を持っているのだ。
手がかからないのも当然のことで、別に偉くはない。
ただ、母に負担をかけずに済んでいるらしいことがわかったので、努力は無駄になっていないようだと少し嬉しかった。
俺の赤ん坊生活は、そんな風に概ね快適で、幸せに過ぎていった。