第1話 プロローグ
――馬鹿をやったな。
正直なところを言えば、率直にそう思った。
だって馬鹿だろう?
あれほどでかでかと、しつこいほどに《水に濡れた手で触れないでください》と書いてあったアクアリウム用品に、たぶん大丈夫だろう、今まで大丈夫だったし、などという不注意な心得でもって触れてしまって、そのまま感電してしまったのだから。
アクアリウムを趣味にする人間にとってやりがちなことだが、好きだからこそそういうところはしっかりと注意しなければならないというのに、《慣れ》と言う怠慢でもって俺は大馬鹿をやってしまった。
そういうことだ。
結局、俺はその程度の人間だったんだろう。
この先、生きていても、やっぱりどこかで同じような間違いを起こして死んでいただろうさ……。
と、そこまで考えて、ふと、不思議に思う。
――俺、死んでるのかな? 生きてるのかな?
と。
感電して意識が完全に飛んだところまでは覚えている。
あぁ、こいつは死んだな、そういう痛みだな、これは、とそう思ったところまでは覚えている。
けれど、そのあとは?
そのあとは……いつの間にか人生を振り返っていた。
自分が死んだのだと決めつけて。
でも、それはおかしいことだろう。
なにせ、死んだ人間がものを考えられるはずがないのだから。
俺は実際にこうやって色々と考えている。
それはつまり、まだ生きているということではないか……。
そう思ったからこそ、不思議だと感じたのだ。
けれど、もし、人間と言うものが死んだ後もものが考えられるのであればまた話は別だ。
魂という存在が本当にあって、その状態でも精神は生きている。
そのような状態がありうるのなら、俺は死んではいるがものは考えられてる、そんな状態になる。
さて、今の俺はどっちだ?
考えてみた。
そして出た結論は、分からない、だった。
ただ、推測は出来なくもない。
今、俺はものを考えられているが、視界には何も映っていない。
真っ暗な闇だけが広がっている。
つまり、今の俺は思考だけの存在、ということだ。
となると、生きているというよりは死んでいる、に近いのではないか。
そう思った。
であれば、俺は今、魂だけの状態なのだろうか?
そうだとすると、この後、一体どうなる……?
分からない。
そして、どうしようもない……。
そう思っていると、ふと、視界に光が差し始めたのを感じた。
先ほどまで真っ暗だった光景に、一筋の光明が、見える。
やはり、死んでいる状態、というのは気のせいだったか?
光明は徐々に大きくなっていく。
そして、気づいたら心臓の脈動も感じ始めていた。
先ほどまで全くなかったはずの五感が、染みわたる様に広がっていくのを感じる。
――これは一体……?
そこまで考えたところで、体に強い力が加わった。
それは、何かに無理やり押されているような感覚で、俺はどうしたものか迷った。
このままそれを受け入れるべきか、抵抗すべきか。
しかし、試しに少しだけ抵抗してみようと体に力を入れても、まるで何の意味もなかった。
そもそも、体に大した力が入らない。
この調子では、おそらく箸すら持つことも出来なさそうな、それくらいの力のなさだった。
この力で、この押す力に対抗することなど出来るはずがない。
つまり、俺に残されたのは、成行きに任せてその力を受け入れることだけ、というわけだ。
悩んでいたのが馬鹿らしくなってくる。
そして、俺が少しだけ持っていた抵抗の意思を手放すと、押す力は強くなり、そして、俺の体はどこかに向かって運ばれていった。
光が近づいていく。
そして、気づくと、俺は泣いていた。
大きな声を上げて。
それから、肺に深く空気が流れ込んだのを感じ、どうやら、俺は生きていたらしい、と自覚した。
しかし、それにしても不思議な体験をしたな、と思う。
先ほどまでの奇妙な感覚はいったい何だったのだろうと。
いや、それよりも今は自分の状況の確認をしなければならないだろう。
まずは、周りを見なければ……。
そう思って、俺は瞼を開ける。
どうやら、先ほどまで見えていたのは、瞼の裏から見えていたものだったらしい。
俺はずっと目を閉じていたのだ。
それを今、自覚した。
だから瞼を開けたのだ。
それから、目の前に広がる光景は、当然、あの小さなアパートの部屋のそれか、病院の白い天井のどちらかだろう、と考えていた。
当然だろう。
俺はあそこで感電し、おそらくは気絶した。
状況から考えてそういうことのはずだからだ。
しかし、実際に俺の目に入って来たのは、そんな感覚とはまるで異なる、奇妙な光景だった。
周囲に見えるのは、木造の壁だ。
非常に原始的というか、明らかに現代工法で作られたものではないと分かる建物のそれである。
さらに、そんな部屋の中にどう見ても日本人ではない顔立ちの人物が何人もいて、その全員が俺を見つめている。
浅黒い肌に、複雑な刺青を刻んだ人々と、それに何か人間離れした雰囲気の人々が数人いる。
そんな彼らが、俺を覗き込んで見つめているのだ。
一体なんだこれは、と思ったのも当然の話だった。
しかしそれ以上に不思議だったのは、俺の背中の感覚の方だった。
おそらくは、手が添えられている、とわかったが、その添えられている手の大きさは、俺の背中一杯を覆うほどのものだったのだ。
大きすぎる、直感的にそう思ったが、そのすぐ直後に、もしや、俺の方が小さいのか、と考えた。
なにせ、周囲に見える人々、彼らの大きさは、家屋のものと比べて極端に大きいわけではない。
確かに巨体を持った人物が数人いるが、それでも普通の人間の範疇であると言っていいだろう。
にもかかわらず、俺にはすべてが大きく見えるのだ。
彼らの体、顔、手……それらすべてが、大きい。
それはつまり、彼らが大きいのではなく俺が小さいということだろう。
俺が、小さい。
それは一体どういう状況なのだろう?
分からない。
分からないが、ふと気づくと、部屋の中にいる人々の中でも異彩を放っている三人の人物が俺に触れ、何か唱え始めた。
「……では、失礼する。我が名はジャハルユーレン。漆黒と闇と武を司る者。この世に新たに生まれ出でた龍神ア・ガリジャの愛し子のため、祝福を授ける……」
「我が名はエッセ。純白と炎と治癒を司る者。この世に新たに生まれ出でた龍神ア・ガリジャの愛し子のため、祝福を授ける……」
「我が名はエテルノレガ。新銀と月と守護を司る者。この世に新たに生まれ出でた龍神ア・ガリジャの愛し子のため、祝福を授ける……」
それは、明らかに日本語ではなかったが、けれど確かに俺の耳には聞き取れた。
それから、何か熱いものが俺の体に入ってきて……。
直後、急に眠くなって、俺は意識を失った。