第二話 試し
第二話 試し
――人の命の儚さは昔から受け入れる事しか出来ないものだ。愛する人や友を突然奪われた気持ちは、経験した人でないと分からない。それは理不尽そのもので、信じられない事だ。向け先の無い怒りさえ湧き上がる。
病で逝った乳飲み子を抱えた母が、仏陀に額ずいて子の命の蘇りを願う故事がある。その時仏陀は静かに言った。
「母よ、今だかつて死人を出したことが無い家に行き、その家から供養の芥子の実を貰ってきなさい」
仏陀の言葉にすがった母は、冷たくなった子を抱き、町々を巡り歩く。戸を叩き、窓から叫んで死人が出たことの無い家を探し回る。人々は子供に涙し母を哀れんで芥子の実を供養しようとするが、どの家もまた死の悲しみをすでに経験していたのだ。やがて疲れ果てた母は気づいた。かつて死人を出したことが無い家など無いと。母は再び仏陀にまみえ、
「尊い方よ、何処にもそんな悲しみが無かった家は見つかりませんでした……」
仏陀は慈悲深い眼差しを母に向ける。その眼差しに見入ると、母は忽然と悟るのだ。
「嗚呼、我が子の死もまた人の常!」
「母よ、その腕に抱く子もまた他人の子も、かく言う私も、そして誰もがいつかは無に帰るのだ」
母は子を手厚く葬り、仏陀に帰依したと言う。母の名をキサゴータミーと言う。
君江の死は良治にとって同じ悲しみをもたらした。良治は理不尽さに苛立ち、向け先の無い怒りに囚われて、その怒りに身を任せたときだけ、悲しみが和らいだようにも感じた。しかし、怒りは一時、やがて訪問者のように何時しか去ってゆく。残された心の部屋は更なる悲しみが満ちていた。
良治がキサゴータミーの逸話に出会って目を覚まし、落ち着くことがやっと出来た頃、良治は仕事を止めて暫く旅に出ることにした。愛子は君江の祖父母が面倒を見てくれる。君江が望んだのだ。愛子が自分と同じように、君江の生まれ育った場所で育つことを望んだ。また、親族の居ない良治を慮ってのことだった。
君江は良治にある願いを伝えていた。それを成し遂げるには、愛子と暫く別れて一人にならなければならない。君江は子供の頃からの日記を残していた。日記には驚くべきことが書かれていたのだ。君江が世界の真実を垣間見た記録。そして本当の君江を良治の心に蘇らせることにつながるのだ。日記の冒頭にはキサゴータミーの逸話が、別紙に記されて挟み込まれていた。良治は深く決心して旅に出た。
*
断崖絶壁の端に立ちつくして、谷底を見ると吸い込まれそうだ。ごつごつした岩が断崖から幾つも張り出している。爪先が崖淵からはみ出ている。良治は体がわなわなしてそこに居ることに喘いだ。自分の死と隣り合わせの状況が目の前にある。一つ間違えば、岩が崩れれば、急に目眩がして足を踏み外せばと良治の頭脳は『もし』を際限なく作り出している。『もし』というちょっと先の未来を想像して、肉体は生理的に反応し、足は竦み、心臓は鼓動を高め、皮膚はうっすらと冷や汗を滲ませる。心もまた風に吹かれたら飛ばされるほど動揺して取りとめもなく、不安という文字そのものだ。
そこは熊岳の一番高い所、崖淵に張り出した大きな岩の上だ。ここを飛び降りたら、肉体はあの張り出した鋭利な岩肌に切り刻まれて、谷底に着くまでに噴出す血の塊に変わり果てるだろう。そのイメージがくっきりと良治の脳裏に浮かんだ。良治は一歩崖淵から退く。すると『もし』と言う頭脳の信号が少し和らいだ。もう一歩退くと肉体が寛いだ。三歩目に「ふう」とため息が漏れた。
開けた眺望を与えてくれる巨石の後ろに、杉の大木が高く枝葉を巡らして影を作ってくれる。岩の上には腰掛けにちょうど手ごろな小岩がいくつか、そこで風に吹かれて三日三晩、この上で佇んでいる。
日が昇ると谷風が朝霧と一緒に吹き上がり、密やかな風音をたてて岩の周りを巡り、乱れて吹き抜けてゆく。低く垂れ込めていた朝霧が一緒に舞い、風の流れと乱れが見えた。谷が暖まるにつれて、夜間に冷えて沈んだ空気が、熱の力を得て谷底から登って来るのだ。霧が上昇風に序々に吹き飛ばされると、深い緑と川に沿った田畑が姿を見せ始めた。谷の一方には朝日が当り、朝露が反射してきらきらと明るい緑に輝く。もう一方は影に沈み深くて濃い緑になった。その狭間に人の住む家々が点々と、緩く曲がる川に沿って続く。遠くの人の営みの音も聞こえ始めた。
昼は中天に上った太陽に谷全体が照らされる。森や林、屋根下の縁側に影を落として、あるいは木漏れ日になって陰影を作り上げる。午後になると日差しは反対から射して、各々山肌に大きな陰陽を再び作る。日が沈むと陰陽は消えて、あたりは静けさと共に、安らぎの闇がやって来る。
昔、百発百中の弓名手列士は、伯昏無人と共に目もくらむ張り出した崖淵に登って立った。そして弓を射ようとしたが、落ちるかもしれないと恐怖に駆られて平常心を失い、伯昏無人の平然とした心の安定に打ち負かされたと言う故事がある。
それに習って、良治はここに来た。妻君江との約束を果たすために再び切り立った岩の端に体を運び、目もくらむ谷底と対面しようとした。自分の死を知って生きた君江もまた同じ世界に生きたのだ。しかし、良治の体の細胞自体が生き残ろうとして足掻き、頭脳に無意識な命令を送って、足がすくんで鼓動が激しくなり、冷や汗がまた流れた。
《崖下を見ないようにすれば良いか》
そう考えて上を見る。しかし今度は腰下がむずむずして不安がむくむくと湧き上がり、バランスを崩して崖下に真っ逆さまに落ちる自分の姿が脳裏に浮かぶ。それは自分の頭脳が作り出した幻影であると分かっていても、恐怖は良治を打ち負かす強い力を持っているのだ。
この恐怖は、先のことを悪い方に考えるせいで生じている。爪先が僅かに宙に出ていても、大部分は岩にしっかりと付いている。まだ来ない未来に反応し、万が一のことを心配して防衛しているのだ。けな気な自動機能だと思う。この刹那はまったく問題なく大丈夫なのに。今と言うこの刹那に自分が生きていない証拠だった。
人は皆そうだろう。明日の希望を夢見て、明日の不安に急かされて、この二つの違いは根のところで同じものだ。希望だけでも無く不安だけでも無い。人の気持ちはこの二つの間を揺れ動くもの。そう思うと良治は今この時に自分はいないと気づいた。崖淵に立つ良治は、実はどこか他の所へ行って、幻の自分になっていると感じたのだ。
夜になっても良治の試しは続いた。月明かりに照らされて、足元と崖下の闇はさらに境が定かでなくなり、足裏が岩に吸い付いたように、足運びに不安と恐怖が付き纏う。闇には闇をと考えて目を閉じる。裸足の足裏に全神経を集中して、摺り足で崖淵に近づいて行くと、今度は、後ろから誰かが背中を押すような不安に駆られる。そして崖淵のかなり手前でさえ、体が揺れるようで目をつぶっていられない。しゃがみこんで目を開け、振り返っても闇があるだけだが。
夜も更け、高ぶった神経を休めるために小岩に腰を下ろす。誰も知らない山深い尾根に突き出た巨石の上で、たった一人。満天に掛かる星々は涼やかで美しく深い。良治は目を細めて暗闇を見つめ、自分を闇に溶け込ませようとした。すると闇は闇の陰陽を失い、周りがすべて漆黒に吸い込まれた。
その深い闇を遮って、突然、巨石の端に妙な黒い影が立ち、不気味な人影のように見えた。
《誰?》
やがて、はっきりと人型になり、序々にその姿を顕にして来る。輪郭はおぼろだが、どこかであったことがある既知の顔を持つ老人になった。
「良治、こんなところで何やっている?」
十年も前に故人となった祖父が浮かび上がった。孫を呼ぶいつものやさしい声が、良治の気持ちに染み込むように伝わってくる。白っぽい着物は生前の通り、頬が痩せて一重の優しい眼差しも往時のまま。しかし、いつもの笑顔では無く、時々見せた生真面目な心配が浮かんでいた。
良治はとっさに言った。
《おじいちゃん、おれは大丈夫。今、本当の自分を探している!》
「良治、人様と違う道をなぜ歩く? 人並みに生きられないのかい?」
祖父は心に直接響くような懐かしい声で言った。
「すまない、おじいちゃん……」
その言葉が心から自然に出ると、祖父はふっと闇の中に消えて懐かしさだけが残った。
《幻覚か?》
丸三日、水しか口にしていない。高ぶった神経。この一年、放浪をしている時にも良くあった現象だ。しかし、この込み上げる懐かしさはいったいどうしたことか? 祖父のあの声、眼差しそして表情、十年前にそんな場面があったかもしれない強い既知感が良治を捕らえた。
《人様と違う道をなぜ歩く? 人並みに生きられないのかい?》
その疑問はいつも自分の心のどこかにある事。それが無意識世界の何かと祖父の思いが繋がって、祖父を映像化した。それは霊だと思った。
夜も更けて、眠りと覚醒のちょうど狭間で良治は揺れていた。ひんやりした風が肌を撫でるように上から降ってくる。風に吹かれるという言葉は当たらない。それはまさしく微妙に優しく降ってくる風だ。谷が冷えて空気が沈んで行くからだ。
立ち上がると眩暈がする。神経も高ぶっていた。肉体が弱るに従って、良治の『気づき』も擦れて、やがて子供の頃の暗い気持ちに取り巻かれていった。
良治の心には子供の頃からなんともいえぬ寂しさが住みついていた。何を見ても哀れに見えた。自分が自分を感じることにさえ、愁いが被さって哀しかった。祖父母の話し声が遠くに聞こえると、なぜか泣きたくなった。風が鳴ると心の中にも風が吹きぬけるような気がした。森も林の中の小道も斉しく影の暗さに目眩さえ覚えて、力が抜けてしゃがみこみそうになった。それを誰にも言えないことが寂しさをいや増した。
良治に転機をくれたのは文字が充分読めるようになった十歳の頃、祖父から貰った母親の遺品の手記だった。
――子供たちの瞳は素晴らしい。生きていることだけで充分だと教えてくれる。大きく円らな瞳は輝いて、何も見つめていないかのようで全てを見つめている。そこにある光景、人も物もどんなものもあの子達の目には存在として映っている……。
――たった今、五歳の男の子が息を引き取った。ぐったりした体、見開かれた瞳は虚ろだった。でも、何の文句もいう事もなく、静かに母親に抱かれて、逝ってしまった。原因不明の熱病が戦火よりも蔓延している。
――もうそろそろ、良治の満五歳の誕生日がくる。会いたい。会って抱きしめたい。でも、今ここを離れられない。あの子達の瞳は和彦と私の子、我が子、良治と同じ。
――熱病は弱い者を選んで恐ろしい勢いで次々と幼い命を奪っている。でも、私達が村に着くと元気な子供達が笑顔で寄ってくる。ひもじさも辛さも吹き飛ばして、笑いかけてくれる。私も良治のことを思いだしてしまう。薬も設備も人も足らない。
――戦火が私たちのいるところにも拡大してきた。傷ついて運び込まれる人々が増えてきても、和彦は子供達と同じように何も言わない。淡々と一生懸命、処置を施してゆく。私は自分の夫を誇りに思う。
――良治、ごめんね。でもお母さんはね。お父さんの背中を追いたいの。『人を愛する以上に大事なことが、この世の中にあろうはずも無い。それ以外はみな幻』、 良治! あなたのお父さんはいつもそう言っている。
「和彦、祥子、おまえ達は何を考えているんだ!」
祖父の大きな声が襖のむこうから聞こえた。祖父の怒声など聞いたことが無かった良治はびくっとして聞き耳を立てた。
「お父さん、すいません。ただただお願いするしかありません。一年で帰国できると思いますので何とかお願いできないでしょうか?」 父の声は冷静でいつもと変わらない。
「お父さん、私は途中で数度帰国できるようにお願いしてありますから。」
母の声が続いた。その声に良治は訳も無く不安になって襖に近寄った。
「お父さん、私一人だけ行くなら、百人の子供しか救えません。でも祥子が一緒に行ってくれば二百人は救えるかも知れません」
それからしばらくして、二人は外国の戦地へ医師として旅立ち、戦火に巻き込まれて呆気なく帰らぬ人々となった。
この記憶の意味を良治が判るのはずっと後のこと。母の手記を読み終えた時、良治は初めて自分が孤独ではなかったことに気づいた。一人ぽっちだったけど、思いを込めてくれた人々が居た事を知ったのだ。その日から、良治は世界が別の姿を見せたように感じた。一人でも寂しくなくなった。野山に入り、自然と一緒に遊んだ。子供ながらに自分の心に自然の全てを写したいと願い、そして自然の不思議を感じるようにもなった。
《何故、人並みに生きられぬ?》
目の前に祖父の霊が現れて発した問いは、霊が消えた後もずっと良治の脳のなかで囁き続けていた。でも、父親の残した言葉を思い出したとき、何かが良治の中で合点がいった。
《父さんは人と違う人生を歩んでいた。だからいつも、爺さんは父さんのことを心配していた》
良治は祖父の面影を思い出した。時々父と母に抱かれた良治の写真を眺めて涙を浮かべ、優しくて心配性な祖父だった。
《おれのことも心配していたんだ。人並みで無ければ、父さんと同じように若死にするかもしれないと……》
血は争えず良治もまた人と変わった道を歩み始めた。そして良治自身がそれに無意識の中で気づいていた。だからどこかで祖父に対してすまない気持ちを持っていた。ごめんと思う気持ちが祖父の霊を自分の心の中に作り上げたのだ。
今、この岩の上で、自分の本体と対面したいと良治は願っていた。亡き妻の遺言、君江はそれを良治と愛子に伝えたくて、やはり良治の母と同じように日記を残した。
《人の本体は霊では無い》
君江はそう書き残していた。
では一体、人の本体とはなんなのだろう?
《自分の内側に新しい自分が生まれた。内側の自分が外側の自分を見ている。それはまるで果てしない虚空だ》
君江の言葉が実感として判るようになった。それこそが人の本体と思う。外の自分とは外側の世界と関係を結んで、生きるために、生き残るために作られた便宜的な自分、それは幻だとも思える。
良治に時折訪れるこの不思議な感覚、君江が言うその虚空が本当の自分なのか? ならばなぜそれは普段眠っているように、時々しか訪れないのか? 君江は『気づき』だけがそれを育てると言った。
《ここでこんなことをして何になる。そもそもおれはここに何をしに来たのだ? 自分がこんなに必死になって求めているものは何だろう? 子供を預けっぱなしでおれは一体何をしているのだ!》
自問するがその答えは無い。
《答えの無い質問に囚われるとき、それは迷いを生み、気づきが弱まる》
君江の日記にあった言葉が思い出された。
《大事なのは、その質問を発する者に気づいて見守ること》
そうだ。質問はその中に回答を含んでいるもの。良治はその質問が湧き上がる起点に気づきを置いた。
《人は己の細胞一つ一つにサバイバル(生き残り)という命令をインプット(プログラム)されているようだ》
この岩の淵に立って何度も感じたことだ。体は良治の意志とは別に己を守ろうとした。そのために良治の脳裏に様々な映像さえ見せた。感情も操り、不安と恐怖をかきたてたのだ。生理的な肉体反応を起こし、わなわなさせたり萎縮させたり、発汗させたりもした。常に自動的に機械のように反応したのだ。
《これは自分の肉体であっても、自分の本体ではないな》
良治はそう洞察した。過程にすべて気づいていられたからだ。そこに思い至ったとき、突然、閃きが浮かんだ。
《そうか! 自分とは何か? そう問いを発している自分に気づくことじゃないか!》
思い至ると騒ぎ立てる心が鎮まった。闇は別の姿を見せ、広大な漆黒の空間が広がり、静けさを放って良治を包み込んで行く。天の虚空にも匹敵して比類ない心地良さが、良治を安らぎで満たして行く。誘われるように、良治は静かに瞑想に入った。気づきが柔らかい光のように良治を照らす。
どの位の時がたったのか? 辺りは少しずつ闇が引き下がって行った。遥かな山並みが幾重もの濃淡に分かれて、遠くと近くを現わし始めた時、宇宙の彼方から光りを送る太陽の輝きの一部が東に姿を現わす。懐かしい日の出、しかし初めて見る日の出でもあった。
日の光りが良治の目に飛び込んできたその時、良治に忽然と理解が訪れた。
「そうか! 自分が存在しているから存在が問える! 今ここに自分が在る、存在しているからこそ、自分は何者かという問いを発することができるんだ! だから、答えは……」
衝撃が突き抜けた。そしてごろんと岩の上に横になり、仰向けに天を仰いだ。
「答えは、この刹那、自分は存在者だ! 問う者が答えそのものなんだ! ははは……、わっははは……」
良治は笑い続けた。心の底から笑いが込み上げて来るのだ。
「こんな単純なこと、こんなに明らかなこと、何故今まで気づかなかったんだ! この存在者は肉体じゃない。心でもない! それを見守るもの、気づくものだ! はははっ! わっははははっ、わっはははは……」
良治は笑いながら立ち上がり、崖淵に悠然と歩み寄る。それを見守る者は存在者そのもの。刹那刹那に世界が違う姿を良治に見せた。曇りが取れ、視界が広がり、色彩が鮮やかに広がる。崖下を覗くと、登りかけた光りに照らされて、谷底につながる瑞々しい緑が朝露を生んできらきらと輝く。その日の新たな命の始まりだ。鳥が謡い始めた。大気が動き、日がこぼれて大地の色彩に陰陽の模様を創る。人の営みの音も遠くから伝わって、谷全体の詩になった。本当の良治が目覚めたことを祝っているのだ。やがて世界が動き始めた。良治の笑いは納まり、爽やかで静かな微笑に変わる。良治は良治で無くなり、誰でもなくなり、存在そのものになった。この良治の静を軸にして世界の動が始まるのだ。
第二話 了