第一話 霊を見た日
第一話 霊を見た日
ゆるい下りの山道を愛子は必死に駆け降りる。夕日が西の彼方の山々を深い青と輝く橙色に染め、柿の実のつるりとした表面にも夕焼けが映る。山から谷へ吹くおろしが強くなり、山が冷え始めた。はあはあと息が荒くなって鼓動が激しく打ち、愛子は眼下に広がる谷の村落を見向きもせずに、山尾根の小道を駆け降りている。
《風の神が追いかけてくる》
祖母の言った通りだと思い、もっと早く帰ればよかったと後悔していた。
《愛子や! 山から谷におろしがでたら、それはなあ。風の神が愛子を捕まえようと山からいでる験だけんね。西の山が焼ける前には戻らないけんよ。じゃけんと、風の神に掴もうてしまうかもしれんでねえ》
祖母から何度も聞いた話が思い起こされて、愛子は身震いしながら駆けていた。山風が頬を冷たく撫でながら追い越して行く。小道の小石を避けるために愛子はもう、足元のちょっと先しか見ていなかった。
突然、動く黒い物がバサッと小道に飛び出して来た。その黒い塊は同じ様に小道のすぐ先を走る。
「うあっ」
風の神が出てきたと思った愛子は、倒れ掛かりながらなんとか走りを緩めて、黒い影を良く見た。タヌキが愛子の駆け足に驚いて山から飛び出して来たのだ。
《タヌキか、驚かさないでよ》
愛子は緩んだ走りをまた強め、タヌキを追って駆けっこになった。
《もう少し……》
愛子は歯を食いしばって手足を振った。
谷間の村落を見下ろせる中腹に、少し開けた台地がある。小道と台地の間に谷水が流れる溝があり、そこをタヌキが跳んだ。前足二本と頭を一緒に前に突き出し、後ろ足がピンと伸びて焦っているのが見える。タヌキは地面に着くと同時に左の山へ飛び込んだ。愛子も勢いで跳ぶ。そして着いた場所に座り込んでしまった。息が上がっていたけれど、
「ふう」
と、安堵した。小さな畑があり、愛子の家はもう目と鼻の先。祖父が井戸端で水を汲んでいるのが見え、祖母はかまどできっと煮炊きをしているに違いない。
「こら、愛子、遅いぞ! もっと早く戻りゃなあかんがな」
「はーい、おじいさん、ごめん」
八歳の愛子は羞恥も知らず井戸端で着ているものを全部脱ぎ、素っ裸になって水浴びをする。祖父はすでに汲んだ水をゆっくりとした足取りで、かまどの祖母に届けに行く。山井戸の水は身を切るように冷たい。桶の水が頭の天辺から音を立てて流れ落ちた。
愛子は身震いしつつ、水桶にまた水を汲む。二杯目の水を浴びるとき、もう冷たさは感じない。愛子は額から滴り落ちる水を透かして、彼方のたなびく山々が濃い灰色とあでやかな朱に染まるのを見た。夕焼けの朱色が落ちる水にも映るのを見て頭がくらっとする。足元を見ると流れ落ちた水が愛子の足元で広がり、すうっと流れた。
三杯目の水を浴びると、愛子は頭の中が白く空っぽになったのを感じた。愛子の周りにも西日が射して山風が音をたてる。足元の水も井戸端もみんなすべて茜色に染められたその時……、愛子は水の流れる先の畑に人を見た。
晴れやかな顔が輝き、長い髪を白い髪留めで結って、その髪留めの余りと髪が風に巻かれて揺れている。白い着物が輝いて後ろの森までも明るく照らしている。森は風に靡いて海のように美しく波打った。
「……だれ?」
その人は黙して答えず、ただ光るような懐かしい笑顔を返した。愛子は思わず手に持っていた水桶を落とした。カランコロコロと水桶が音をさせ、愛子が足元を転がる水桶に視線を奪われた時、
「おまえは見なくても良いものを見ねばならん」
そう、低く優しい声が届いた。
「えっ」
愛子がその声の主に顔を上げたときには、もうすでにその人は掻き消えていた。照らされていた森も暗くなり、闇が粛々と山に下りて来た。
愛子が五歳の時、母君江が早世して田舎の実家に預けられた。その頃、愛子の心になんとも言えぬ寂しさが棲み付いていた。田舎の景色がすべて憐れに見え、自分の存在そのものにも愁いが覆いかぶさっていた。理由は幼い愛子に分かるはずもなく、祖父母への問いにもならない。ただ、この微妙なさびしさは何だろうと思った。夏の暑さにうちひしがれたように、野に出て働く人々が寂しく写る。秋の夕刻に光る柿の実は悲しい。葉を落とした冬の枝々は痛々しく思え、春の甘い風さえ、それを分かち合えるということに気づかず、愛子は孤独を深めるだけだった。
――
生前の母君江は、天気が良い日にはいつも花壇脇のベンチに腰掛けて、花にそっと話しかけていた。中庭はコの字の白い病院の壁に囲まれて、中央の出入り口から眺めると、ちょうど小さな箱庭のように見える。花壇に春が訪れて、瑞々しい緑が息吹き始めていた。花々が傍の小道へ溢れんばかりに咲き乱れている。それは病に俯いて歩く患者の目に留まることを競っているのだ。
父良治が娘愛子の手を引いて行くと、愛子はベンチに小さな母の姿を見つけて走り出し、母に抱きつく。君江は愛子を抱きしめて、暫くは無言で愛子を慈しむ。
「お母さん!」
愛子の呼びかけに君江はいつも、
「愛子、良く来たわね。寂しくなかった?」
「ううん」
愛子は母に心配を掛けたくなくて反対のことを言う。すると母は、
「お母さんは寂しかったわ。愛子に会いたくて会いたくて」
そして愛子の頬を両手で優しく包み、愛子の顔をじっと見る。顔はちょっと寂しげなのだ。
良治は君江の隣に腰掛けて二人を微笑みながら何も言わず見守る。
「愛子! ほうら、綺麗でしょ」
君江はそう言って花壇の一番手前に咲く淡い紫の花、サツキを指差した。そしてベンチから立ち上がり、一輪の花の手前に愛子の手を引いてしゃがみ込む。
「お花さん、どうしてあなたはここにいるの?」
君江は花に話しかける。五歳の愛子は母の真似をして、
「お花さん、どうしてあなたはここにいるの?」
「愛子、お花さんはお返事したかしら」
君江が愛子に聞いた。
「お花さん、なんにも喋らないの」
「そうね。それがお花さんのお答えよ」
「喋らないことがお答えなの?」
「そうよ、愛子」
君江は愛子超しに良治を笑顔で見つめる。良治ははっとして君江の言葉の意味を心の中で探った。君江は不思議な微笑みを浮かべている。良治は何かが口からでかかったが、口をつぐんだ。君江はまた静かに視線を花に落として、
「お花さん、どうしてあなたはそんなに綺麗なの?」
愛子はまた母の真似をして同じように聞いた。するとその花が春の甘いそよ風に揺られて花びらを震わせたのだ。気持ちの良い花の匂いがほわっと漂う。
「ほうら、愛子。お花さんがお返事してくれたわね」
愛子はサツキの花が花びらを震わせてくれたこと、そして匂いを放ってくれたことが、花の返事だと思って、
「お母さん! 本当、お花さんがお返事してくれた!」
愛子は喜び満面に、母と父を交互に見るのだ。良治は笑顔を愛子に返し、君江には少し真面目な顔を向けた。
「さあ、愛子! お友達と遊んでおいで。父さんは母さんと少しお話があるからね」
愛子はハーイと返事をして、周りの子供達を見つけるように首を振り、中庭の右手端にある子供達が遊んでいる場所へ駆け出して行く。
君江は再び良治の手を取り、ベンチに腰掛けた。花を揺らした風が甘い匂いを運んで、君江の髪を梳かす。透き通るような君江の肌に風が吸い込まれているようだ。
「良治さん、この風を感じて! この風は癒しの風よ」
「ああ、君江! その通りだね」
「そう! そしてあの空に浮かぶ千切れ雲!」
君江は円らで澄んだ瞳を少し細めて天を見上げる。良治も彼方に霞む雲を見て遥か遠くを感じた。
「天は果てが無いのよ」
良治は君江の言葉の意味が分かるような気がした。もう直ぐ風に癒されたり、千切れ雲に永遠を感じたり出来無くなるのだ。そう思うと良治は君江が無性に愛しく、強く抱きしめて一緒に永遠になりたいと思う。
「それからこの花! 黙して語らぬことがご返事なの」
君江は愛子と一緒に語りかけた一輪の花を指差して、謎のようなことを言う。
「君江、それはどうゆう意味?」
「さあて、良治さん、この言葉は良く覚えておいてね。これは良治さんと愛子への私の遺言。きっといつか二人とも、この言葉の本当の意味を解かる日が来る……」
良治は訳も無く、つないだ手に力を込めて君江の澄んだ瞳を見つめ続けた。良治の表情が曇る。君江が居なくなるという不安に囚われたのだ。それは今すぐかも知れず、明日かも知れない。それで顔が崩れそうになった。残された自分と愛子はどうやって生きて行くのだろう。君江が居なくなることが想像できないのだ。
君江はそれを読み取って、
「良治さん、私が居なくなっても悲しまないで……」
そうポツリと言った。君江の笑顔がすまなそうに少しだけ俯いた。
「な、何を言っているんだ! 君とぼくはまだまだしなければいけないことが沢山残っているじゃないか」
良治は結果が見えていることに少し苛立ち、力なく逆らうような気持ちになって言った。
「いいえ、良治さん。人の世の中で成すべき事は何も無いのよ。一つの事を除いて……」
花壇の向こうからブランコに揺れる子供達と、はしゃぐ愛子の声が聞こえた。それに混ざって小児科練の赤ん坊の泣き声が重なる。君江が言ったその一つのことは何か良く分かっていた。それは二人がこれまで一緒に求めてきたものだからだ。
「お願い、良治さん。私に与えられた時間は余りにも少ない。今できること……、あなたと愛子に私の全てを伝えたい」
――
愛子も、山の暮らしの四季の移り変わりを三度ほど過ごすうちに、母が逝った悲しさはやがて心の奥底に終い込まれ、田舎での遊びがそれを忘れさせてくれた。
夕刻、愛子は不思議な人を見た。祖父母に話すとそれは山の神だという。もっと早く帰らねばならないと叱られた。愛子はその人の顔の輝きや風に靡いた長い髪の美しさ、そして辺りが不思議な明るさに照らされた事を祖父母へ伝えたいのだが、言葉が見つからないのだ。
祖父母は当然だと驚きもせず、神々に敬いと畏怖の気持ちを持てば良いのだと言った。
囲炉裏にくべられた炭が燃える赤と白っぽい灰色に分かれて黒い部分がなくなるまで、愛子はちろちろと燃える火を見つめる。祖父母は自分の見たものが判らないのだと思った。
山の静けさは力があると思う。それは夜の深さかもしれない。暗黒の天に無数の小さな光りの粒が煌き、地の音を吸い取っているのかも知れない。だから夜になると誰もが小声で話すのだ。そして人の心の声も聞き取れるくらい、静かなのだ。
《これから私は何を見なければならないのだろう?》
愛子が山の神の言葉を心の中で繰返すと、囲炉裏の火がぼうっと小さく燃え上がった。
それから数日して、山道脇の細い水の流れに沿って、祖父に教わった茸がある場所をもっと登った。暫く行くと、小さな滝がある開けた谷に出る。滝の両側は苔生した岩がごつごつして、それを覆うように日に照らされた木々が秋の風に揺られている。舞う枯葉が谷を敷き詰めるように落ちて来ている。谷の水は真ん中の大きな岩を境に左右に分かれて流れ、細々とした流れでも水音がさらさらとして愛子を包む。うっすらと汗が滲み、冷たい秋風が心地よくて、愛子はその大きな石によじ登った。天辺は程よく平らで、あお向けに寝転がって伸びをする。目に映るのは雲一つ無い空、沢登りの疲れと汗が引いて行く。
谷を挟む山上の方で木々が揺らいだ直後、突然、音を立てて大きな風が谷に吹き込んで来た。空を見ると落ち葉が大きな渦を描いて螺旋になって登って行く。半身起き上がって周りを見回す。色とりどりの枝葉が波うっている。黄、赤、黄緑、薄茶の紅葉の色が鮮やかに混って、滝を背景にして吹き飛ばされて舞い上がり、色が空中に飛び散った。揺れる枝葉からは解き放たれた葉の渦が次々に、さらさらと葉と葉が触れ合う音を立てて、風の音に馴染んで空高く舞い上がる。谷中全体に枯葉が舞い踊り、天へ昇って行くのだ。
その枯葉の行方を愛子がじっと追っていると、風ははたと止み、天に舞った枯葉が、今度はひらひらと愛子の上にゆっくり落ちて来る。次から次ぎへ、くるくると回りながら愛子の回りに音も無く落ちてくる。愛子はその光景を見つめているうちに、ふわっと頭の中が空っぽになって、言葉も無く深とする自分を感じた。
落葉の雨が、全体の光景を生き物のようにして、圧倒しようとしていた。葉々が落ちてくる動きの中に静けさが潜み、その静けさの背後に濃密で生き生きとした空間がまた潜んでいた。愛子はそれに包み込まれ、愛子の内側にも外側にも浸透して来た。いや、内側も外側もその区別が無くなってしまったのだ。
愛子は思考を奪われ、自分の中で起こる始めての鮮烈な体験に驚き戸惑う。そして立ち上がろうとしたが、体から力が抜けて跪いてしまう。空っぽの別の自分、もう一人の愛子が奥に居て、枯葉の雨の中にいる自分自身を見ている。空っぽの自分は虚空のようにどんどん広がって行く、どこか遠くに消え入って自由そのものになりそうで怖くなった。
《これは?》
山の神がいつの間にか脇に立ち、柔らかい光りで辺りが満ちて、静かで落ち着いた声が響いた。
『己が己を見守る。それが本当のおまえ』
震える自分を山の神が支えてくれているように感じだ。愛子は思った。
《私は何処まで広がって行くの?》
山の神が低くつぶやく。
『果ては無い』
再び風が強く吹いて、天に舞う枯葉をさらさらと滝上の向こうに運んで行く。滝の向こうが果てしないように、吹き飛ばされた落ち葉は遠くに霞んで消えるまで、蒼天に舞って行った。
その日から、愛子の胸には切ないような虚空が宿った。そこには何も無い。だから時々自分や人の思いが映るようになったのだ。人だけではない。野の花や小鳥達、自然の全てと自分の胸の虚空を占める切なさが、お互い触れ合って共振しているかのようだ。花壇の傍で母と一緒に花へ話した思い出が蘇る。花は問いかけに黙して語らなかった。ただそこに佇んでいた。語らぬ代わりに、風に吹かれて花弁を揺らし、可憐さをくれた。
愛子は思う。
《この気持ちは寂しさとは違う。この気持ちは……》
一人であることがしみじみと伝わってくる。寂しさとは違うのだ。
《ちょうどあの時の花の気持ち……》
動かぬ山々も、落ち葉に揺らめく森や林の木々も、梢に囀る小鳥達も、谷に流れる細い水もがすべて、そこにただ佇み風に吹かれて言葉でない言葉で答えている。
《ああ、あの時のお母さんの気持ちだ》
愛子は心の深い所で母と一緒になれたような気がして、嬉しかった。この日を境に、様々な人の思いが幽かに形になって映るようになった。でも愛子はもう驚かない。これが『見なくても良いものを見る』という事だと分かったからだ。いつも山の神が傍に居るような気がして、安らいだ気がするのだ。
霊とは人の思いが時空に影響を及ぼすのかもしれません。そこから摩訶不思議な力や予言が飛び出す。しかし、霊はそれでも、人の本体では無いと思います。人の本体とはもっと凄いものでしょう。