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「もう、ダメかも知れないな。どこの銀行まわっても、無理です、貸せません、の一点張りだ」

 峰山民生は食卓で頭を抱える。先に夕飯と風呂を済ませた子供達四人が、取っ組み合いを始めた。彼にしては堪えた方だが、それでも苛ついた民生は「うるせぇよ!」と食卓を叩き付け怒鳴りつけると、蜘蛛の子を散らすように子供が散乱して行く。妻の涼は子供達に目をやり、短く溜め息を吐く。できれば夫が機嫌を損ねていない時に言いたかった。そんな風に涼は思いながら、口を開いた。

「あのね、こんな時にアレなんだけど、五人目、できたみたいなの。どうしよう、堕した方がいいかな、家計のことを考えても」

 薄汚れた作業着の袖に視線を落とし、民生は暫く考える。取引先の社員から聞いた、あの、話を。

「なあ、トルチル、知ってるか?」

 温まった味噌汁を食卓に置きながら涼は「産科で聞いたけど」と言い、夫の顔を疑念の眼差しで見た。「まさか......」

「二十歳ならかなりの額だぜ? うちみたいな小さな工場を立て直すには釣り銭がくるぐらいだ。もううちには子供が四人もいる。少子化にも貢献してる。国のために役に立って、自分の生活も潤うのなら、こういう選択も、ありじゃないかなって思うんだ。子供には保険もかけてさ。どうかな」

 明らかに浮かない顔の涼が、民生の目の前に腰をかけた。テレビではちょうど、トルムチルドレンの推進に関するCMが流れていた。

「二十歳。私達が結婚した歳だよ。これから社会に出て働いて、って時だよ。そこで人生が終わるなんて知ったら、この子、絶望するよ」

 言いながら、まだ膨れてもいないお腹をさする。

「じゃあこのまま飯もろくに食えずに、子ども四人、高校まで行かせられるかもわからない、今の生活を続けんのか? それこそ絶望的だ。このままじゃ工場、潰れるのは間違いないぞ」

 拳を硬く握って声を殺すように呻く民生に対し、涼は涙を浮かべた顔を見られないように気をつけながら、頭を縦に振る他無かった。


******


21年後


「ヒロ代返、頼む」

「またぁ?」

 男の声で代返するのはなかなか難しいのだ。何をしてるんだか知らないが、講義のサボりグセがひどい。いつも光輝は、缶コーヒー一本で私を買収するのだ。

 同じ学科で、ちょっと仲良くなったぐらいで代返係とは。しかし腹が立つが断れない。私は自由奔放な光輝の振る舞いに、一方的に惚れているのだ。

「そうだ、今回はスタバでコーヒー奢るからさぁ。講義終わった頃を見計らって俺、ここに戻ってくるから、帰らないで待っててよ」

 それだけ言い残して講義室から堂々と去って行った。水色のシャツの背中に「ばーか」と投げてみるも、相手は何も反応せずに講義室のドアから消えた。


「まーた頼まれたの?」

 光輝の名が呼ばれた際に私が低い声で返答をしたのを見て、隣に座った静香が呆れた顔で言う。私は苦笑しならが頷く。

「光輝君、何か商学部の、誰っつったかな、朝長さん? とかいう子としょっちゅう一緒にいるって、誰かが言ってたよ」

 誰かが言ってた。静香の口からはよく出てくるフレーズだ。誰かが、というその肝心な「誰か」の名前は出さないのか、出て来ないのか。私には分からない。

 光輝と朝長さんという女性、よく一緒にいるという事は、交際をしているんだろうか。講義が始まり、私は教授がホワイトボードに黒いペンでなにやら書きはじめたのを、顎をシャーペンのお尻で支えながらぼんやり見ていた。

 丁度この時間、その「朝長さん」は講義を取ってないのかも知れない。それに合わせて光輝は講義を抜けているという事か。

 高校時代まで、バスケットボール一辺倒で、恋愛という物を全く経験した事がない私は、部活の先輩に憧れを抱く事はあっても「好きだ」という感情を持った事がなかった。それが、大学に入り、同じ工学部の生命工学科で、同じ研究室に入った光輝に、特別な感情を持つようになった。

 光輝はいつも自由に振る舞っていて、自分を着飾るような事はなくて、誰に対しても気軽に話し掛けるし、いつも光っている。「光輝」という名前をつけたご両親は、凄いと思う。


 退屈な講義を終えると、私は光輝との約束通り講義室に留まり、静香は「彼氏と待ち合わせだから」と言ってスキップでもするように出て行った。

 大きく伸びをしながら大あくびをし、反らせた背を後段の机に沿わせると、眼前に光輝の顔があった。焦って姿勢を戻す。

「すんげぇあくびだな」

「まずは礼をしろ、代返の」

 光輝は首の後ろに手をやり「あんがと」と言うので私は「よろしい」と腕を組んでみせる。

「礼はスタバのコーヒーつったろ。ヒロは静香ちゃんと違って彼氏もいないからどーせ暇なんだろ」

 そう言うと私の手首を掴んでぐっと引っ張るので、私は顔を赤くしながら慌てて鞄を掴んで光輝の後ろをついて行く。

「さっき静香が、光輝は商学部の、あぁ、名前忘れちゃった、なんとかっていう女の子に会ってるんじゃない? って言ってたけど、その人に会うために講義抜けてるの?」

 私の顔をまじまじと見た光輝は「お前、情報通?」とふざけて言う。

「だから静香の情報だって。で、質問に答えていないと思うんですが」

 一度目を伏せた後、顔を上げた時に光輝は、何かを画策しているような、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。

「まぁ、さっきの講義は確かに、商学部の子に会ってたよ。静香ちゃんに正解って伝えて」

 道端に落ちていた蝉の死骸をひょいと避けながら、私の方を見た。

「こんな答えていいですか?」

 私は無言で少し首を傾げ、それから訊くか訊くまいか迷った挙げ句、何も言わずに頷いた。

「付き合ってるのか」なんて、訊けない。傷つくのは嫌だ。自分の消極的な性格に、ほとほと呆れる。


「さっきの講義のノート、見せてよ、写したいから」

 だったらサボるなよ、と視線を投げ呟きつつも、自分を頼ってくれる事が嬉しくて、鞄の中からノートを取り出すと、テーブルの上に広げた。

「ここから、ここまで」

 人差し指ですーっと指すと、光輝も鞄からノートを取り出し、ペンケースから猫のキャラクターが描かれているシャーペンを取り出し、写しはじめる。

 私は、光輝におごってもらったアイスコーヒーをストローでかき混ぜながらその作業を見ていた。男の人にしては神経質そうな文字を書く。ノートに書いてある文字は何度も見た事があるけれど、キャラ物のシャーペンと合わせると、まるで女の子がノートを書いているように見える。男性の指とは思えない奇麗な指も、それを助長しているんだろう。

 少し苦いブラックコーヒーに口をつけ、「その猫のやつ、好きなの?」と訊ねる。ふとノートから顔を上げた光輝は間の抜けた顔で私を見て、何かスイッチでも切り替えるように「あぁ、好きだよ」と言って目を細める。そしてまた、ノートに目を落とす。

 シャーペンの芯がノートに擦れる音がきちんと聞き取れる。筆圧が高いのだろう。

「なぁ、ヒロ」

 彼はノートに目を落としたまま口を開くので、私はストローから口を離し「何?」と訊ねる。

 私の声にも全く顔を上げず、すらすらとノートを写し続けながら少し訝し気な声で言う。

「俺とその、商学部のなんとかさんが、付き合ってるとか、静香ちゃん、言ってた?」

 私はかぶりを振り、それが顔を上げない光輝にも伝わったのか、彼はふっと笑った。

「お前、この猫のキャラクター好きか?」

 相変わらずノートから目を上げない光輝に、今度は声に出して「うん、好きだよ」と言う。光輝はまた溜め息みたいに笑い、そしてひと言。

「俺の事は好きか?」

 銃弾を食らったみたいに、一度身体が跳ねた。これは全くの不随意運動で、自分でも驚いた。返事をしなければいけないと思うのに、開いたり閉じたりする口は、空気ばかりを出し入れして、のどが声を出そうとしない。

 そのうちに光輝がすっと顔をあげ、私に真っすぐな視線を送り込んできた。

「俺はヒロの事が好きなんだ。付き合って欲しいんだ」

 耳から入った情報は、脳の中に伝達され、次は口を開いて、声を出せと指令を送る。

「わ、わたしも、好き」

 硬直したように私を見据えていた顔は、瞬時にふんわりと緩み、「何だよ、もっと早く言えば良かった」と穏やかに笑った。

 私は顔が火照ってきて、きっと見た目にもそれは現れているのだろうと思い、コーヒーを飲む手で誤摩化す。顔色一つ変えない光輝が羨ましかった。

「よし、終わった。これから暇でしょ? どっか行こうよ、初めてのデート」

 ノートをパタンと閉じて私に手渡す。私はそれを鞄に仕舞いながら、これは夢なのか現実なのかと思い、右足で左足を思い切り踏んづけてみたら、思った以上に痛みが走り、これが現実なのだと分かる。

 どこ行くかなーと言いながら、ぐいっと伸びをした光輝が、二回、三回と咳をした。飲んでいたカフェオレが気管にでも入ったのかと思い、笑ってやろうと彼の顔を見た。

 途端、顔色が瞬時に真っ白になり、苦しそうに顔が歪んだ。口を押さえた手の指の隙間から、体液が漏れだす。何なんだ、何の冗談。

「誰か、きゅ、救急車!」

 私は叫んだ。殆ど悲鳴に近かった。自分が携帯電話を持っているのは分かっているのだが、起こっている事を目の前にして、冷静に救急車など呼べない事も分かっていた。他の客は遠巻きに私と光輝を見ている。

 光輝は口元を押さえたままテーブルに突っ伏し、苦しそうにノートの縁を握っている。その手は大袈裟な程に震えている。


 そのまま、動かなくなった。

 ノートにマジックで書かれた「峰山光輝」の名前は、体液で滲んで輪郭だけを残した。


光が、失われて行く。


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