こんな夢を見た
「ここはどこだ」
果てしない砂漠に人間がひとり立っている。
パジャマを着ていた。靴を履いていない。上着も着ていない。常識的に考えて、屋外に出てくる服装ではない。しかし、本人はまったく気にする様子がなかった。自分の格好に気が付いているかすら定かでない。
辺りは一面、そぼろ状になった黒い土に覆われていて、まるで闇夜の天幕がそのまま地に降り立ったかのようだ。
見渡す限りの雪原に似て、慣れていない人であれば立っているのも難しいほどのめまいに似た平衡感覚の狂いを覚えてしまうことだろう。
見上げる空は真っ青で、しかし、ちっとも明るくない。加えて、空気はむっとする湿気と熱を帯び、息をする疲れるほどだ。
人間は気分の悪さから喉元へ手を当てる。
何度か、何かを確かめるように喉をさすり、そうしてやっと、自分の喉がカラカラに渇いていることに気が付いた。苦しそうに眉間にしわを寄せ、声は出さず喘ぐようにパクパクと口を動かす。
しばらくの間、人間はぼんやりとしてその場を動かなかった。
日常から遙かにかけ離れた大地に、たった一人で立っている。いや、日常がどのようであったかすら判然とせず、なぜ空が暗いのか、なぜ目の前にまっさらな大地が延々と広がっているのか、そもそもここはどこなのか、そういった言葉が認識されずに頭の中を延々と浮遊している。
その人間は、認識することをまったく放棄している。怖ろしい夢から飛び起きたものの、その夢の内容を思い出すことが出来ずぐずる子どものように思考していた。
じゃりじゃりじゃり、と音がした。やっと歩き出したのだ。
足元の見た目にそぐわぬ軟らかさを持つ土を、小気味良く踏み鳴らしつつ前へ進んでいる。
平坦だった地面は次第に下り勾配を持ち始め、しかしすぐにまた平坦となり、また下る。進む先には緩やかに高い、真っ黒な丘が影の輪郭を作る。しかし、まだ、ゆったりと下る。
じゃらら、じゃららと一歩を踏み出すごとに、砂が不気味な音を立てて沈みこむ。踵が半ばほどまで埋まってはそこから抜け出でて、向こうへ行ってはまた沈み込む。
額から吹き出て眉に溜まっていた汗が一滴、地面にこぼれ落ちた。滴は一瞬輝きを得るが、その輝きは砕け散るガラスのごとく空中で飛散し、その行方を最後まで指し示すことはなかった。
「ここは、どこなんだ」
しばらくすると、その人間の唇は再び同じ言葉を漏らした。
目は確かに風景を捉えているのだが、どうしてもその感覚に乏しい。見ているような、見ていないような、蜃気楼の中にでもいるような気がして、どうにも居心地が悪い。
じゃり
歩いている人間の足元からではなく、音が発せられた。
「ここは地獄だ」
答える声があった。
下りはいつの間にか平坦へと変わっていて、そこに男がいた。
それを見つけた人間はぎゅっと、力を込めて足を止めた。じゃりと強く踏みしめた足先が、すっかり埋まってしまった。
「地獄?」
被っている土を払うように、緩慢な動きで足を土の中から引き抜く。見ると、細かくなった土がくるぶしから下に満遍なくこびりつき、汚れている。ズボンの裾にまで土が付き、黒く汚れてしまっている。
「そうだ、ここが地獄だ」
男は土の上に跪き、まっすぐに正面に顔を向けていた。
土によってではなく、長い間洗わずに着続けたために付いたと分かる、薄汚れた布切れで身を包み、癖の強いぼさぼさに伸びた髪が目を隠している。わかる限り表情はない。
人間は、男の視線が向かうであろう先を追った。近く、遠くを、それから、辺りをゆっくりと見回した。
土が作る丘の起伏はどこまでも緩く続き視線を隔てるものもなく、その輪郭はそのまま地平を成している。
あまりも異様で嫌悪すら覚えるもこもことした雲が、地平から僅かに顔を出している。動いている様子はない。しかし、まったく動かない雲など存在するだろうか。
人間は目を細め、雲の様子をじっと観察する。もしあれが雲でないとしたら、いったい何だというのか。
自然が生み出す造型にしてはあまりに人工物然とし、しかし人が、心を持った生き物がその意志で作れる形ではないはずだ。およそ、あの形の不気味さは心で想像することすら叶わないだろう。
「あれは鬼だ。じきに、ここへも来る」
男はそう言った。
人間は男の方へ少しだけ顔を動かし、その頭を目だけで見下ろした。
「お前は誰だ」
男はぎしぎしと音を立てそうなくらい、ゆっくりと、小刻みに首を回して言葉の主を見上げた。髪が動き、ぎょろりとした右目がわずかに覗いた。
目の下に重苦しい隈を作ってはいたが、白目には血管の一筋もなくまったく綺麗で、黒目は底が知れないくらい暗く、虚ろだ。
「おれは、神だ」
吐き捨てるかのような口ぶりだった。
「なんで神が、地獄にいる」
パジャマ姿の人間はすぐさま、思いつくままにぼつりと呟いた。
跪く男の瞳が一瞬、ぎょろりと人間とは逆へと動く。しかし、瞬きを一度する間には元に、相手の双眸を見つめる方向に戻っていた。
二人は腕の長さひとつ分の間隔を持って向き合い、瞳の内側を覗き合う。そのまま、しばし沈黙を保った。
「……うう」
人間の問いかけに答えることなく、男は腹の底から搾り出すように言葉を吐いた。その語勢の強さに反し、表情はまったく動かなかった。
男はさっきとはまったく違う、なめらかな動きで首を回し、顔を空へ向けた。ぼろぼろの唇が痙攣するように、何か言葉を発しているみたいに動く。しかし、空気を震わせるものは男の体から吐き出される呼吸のみ。
脇にいる人間はその気味の悪い姿に息をのみ、右足を一歩引いた。
意識したわけではなかった。体が勝手に、まるでここから逃げ出そうとでもするように動いたのだ。
「どうして」
まるで何か別の意志を受けて動こうとしているような体に対し、はっきりと自らの意志に応ずる思考に従い、思い浮かんだ通りを口にする。
男は果たしてその声を聞いていたのか、まったくの無反応で黙っている。沈黙は苦しそうに響く男の呼吸を強調する。問いかけた方は、さらに追及することはなかった。まるでそこに時間など流れていないかのようにじっとして、口を結んで立っていた。
そして、男は数度かの、ゆったりとした呼吸を終えた頃、
「もうすぐだ。世界もなくなる」
再び、相手の問いかけに答えることなく、言った。
続けて、
「神のいない世界など、意味のない……」
その声が耳に届き、言葉をかみ砕き意味を解する前に、全身の血が逆流するような震えがつま先から頭へと突き抜るのを人間は感じる。頭がかっとなり、
「どうして」
叫ぶような声が高く響き渡った。
重く、汚らしい空気と、その向かう先を知らない暗く粘つく憎しみを練り合わせた感情が、声とともに吐き出され霧散した。
男は実に眠たそうに目蓋を閉め、そしてまた開き、空を見つめた。
突然、辺りが陰り、男の姿が縮んだように見えた。
人間はバネ仕掛けのおもちゃのような勢いで空を見上げた。
不意に力が首から、肩から、腰から膝から流れ出し、つま先から地面に滑り抜ける。
後ろに向かってぐらりと、世界と、自分とが傾き始めたことに気が付いた。
パジャマが汚れてしまうだろうことがはっきりと分かったが、しりもちをついた。
ボウンという、鈍い音が伝わった。
体の背中側を支えるものは砂ではなく、軟らかく、ふわりと体が沈み込む。
じわじわと、背中、尻、太腿、肩、ふくらはぎ、首、くるぶし、後頭部、つま先、こめかみ
そして最後に、視界が闇夜に沈んだ。
地上を遠くに感じている。地上はどんどん遠ざかり、どんどん小さくなってゆく。
やがて何か別のものが、はるか遠くにのぞいた。
それは、始めはゆっくりと。
どんどん大きく、広がっていく。どこまで膨らみ続けるのだろう。
その速さは次第に早くなり、はっとする。
目の前に迫った。
ふっと顔の正面から、なめらかな風を受け、風呂上りの湿った長い髪が翻った。
火照った肌にその風がなんとも心地よく、微笑を浮かべる。髪はやや乱れてしまったけれどそのまま放っておく。
パジャマ姿の、七歳くらいの女の子がひとり、ソファーに深く腰をかけている。
その正面、三歩ほど離れた場所にテレビが置いてあって、夕方のニュースを放送している。
テレビの中では厳しい表情の女性アナウンサーが、幾人もの教え子を脅し猥褻な行為を繰り返した教師が警察に逮捕されたという速報の原稿を読んでいる。彼女の右上にひとりの男の顔写真が映し出され、下に名前と年齢が並んだ。
女の子はソファーにじっと座り、表情は微笑のまま、テレビ画面に映し出される男の写真を、自分の父親の映像を見つめていた。
背後から声がかけられた。
「そろそろご飯にしましょう。テレビ消して、手伝ってちょうだい」
「はあい」
私が幼い頃に見た白昼夢だ。
黒澤明監督の映画「夢」を観て考えた話です。オマージュといってしまうのはおこがましいのですが、そのように作りました。