君に合っていると紹介されたのはお嬢様大学でした
短編に変えました
人生の転機を聞かれたら、たぶん私は硬いシャツの襟の感触を思い出す。
高校入学の朝、意気揚々と袖を通した高校指定のおろしたてのシャツの襟は、思わず背筋を伸ばすほど硬かった。
自宅で着た時にはただ着にくいと感じるだけだったシャツは、入学式が始まる頃にはだんだん布ずれして、首筋をひりひりと擦っていた。
他の子は痛くないんだろうか。
そっと左右を見ても、みんな平然とした顔で校長のスピーチを聞いている。
式の最中、何度も首元に手が伸びる私は、ずいぶん落ち着きのない新入生に見えただろう。
だけど、人の目すら気にならないほど、あの日の私の頭の中は、これから始まる学生生活への夢と希望でいっぱいだった。
帰宅後、両親は浮かれきった私を狭いダイニングテーブルに向かい合わせに座らせると、無情にも告げた。
「うちが出せるのは高校まで。もし大学にいくなら奨学金を借りてくれ」
その言葉は、部屋の明かりをバチンと消したかのように、目の前を真っ暗にした。
無意識に首筋へ指をやると、定規で引いたみたいな赤い跡が、思ったより長く残っていた。
うちは公団だけど、特別切り詰める生活はしていなかった。だから、何も言われたことはなかったけれど、学費は望むだけ出してもらえると思い込んでいた。
将来を決めるのは二十歳過ぎてからでいい、今は学生生活を満喫したらいい。そんな気楽な考えは始まる前に崩れ去った。
学費を稼ぐなんてどうやったらいいんだろう。
さっきまでは布が擦れて痛いだけだった首筋に、今度は金の話まで食い込んできて、なんとも痛い十五の春だった。
大学に行くなら奨学金。
両親にそう告げられてから、私は高校を卒業したら専門学校に進んで、なにかしらの資格を取って就職しようと、ぼんやり考えるようになった。
特に就きたい仕事はない。とりあえず食っていける資格はなんだろう?
この時の私は、専門学校なら学費を出してもらえるかもしれないと、ずいぶん甘いことを考えていた。
だから担任との進路相談でも、私は専門学校に進むつもりだと話した。
どんな仕事に就きたいのかと聞かれても、そこまでは決まっていない。
すると担任は、少しあきれたような顔をしてから、何か思いついたように言った。
「もしお金の問題なら、こういうのもあるぞ」と言って、ある指定校推薦を勧めてきた。
「ここさ、いい大学なんだけど、女子大のせいであんまり人気がないんだよ」
ラミネート加工された資料を見れば、私でも知るお嬢様大学が載っていた。
堂々と書かれた学校名の下には、白亜の校舎、大輪のバラが咲く美しく手入れされた生垣、パイプオルガンまである講堂の写真が並ぶ。
「いや、無理。身分違いすぎます」
すると担任は、何度も同じ反応を受けてきたのだろう、やけに滑らかな口調で続けた。
「写真は特別きれいに見えるけれど、実物は案外ふつうだよ。成績次第だけれど返還不要の奨学金制度もあるし」
返還不要の奨学金制度。
それは美しい学校紹介より、ずっと深く私の心に突き刺さった。
反応を確かめるように担任は続けた。
「指定校推薦だから、一般受験も不要だぞ」
中間期末だけ、しっかりやっていれば、あとは遊べるじゃん。
その時初めて、私の中で大学進学が夢物語ではなくなった。
担任は「たぶん白鳥の王子様っぽい雰囲気なら、この大学でも馴染めると先生は思うぞ」と続けていたけれど、あまり耳には入らなかった。
振り返ってみれば、最初の「身分違い」という直感を、もっと信じてもよかったのかもしれない。
人の感想は当てにならない。
それを実感するのは、パイプオルガンの伴奏の中で入学礼拝を受けた後だった。
中間期末だけ、しっかりやる。
それを合言葉に、高校三年間、部活やバイトに明け暮れながらも成績は落とさず、私は無事に返還不要の奨学金を勝ち取り、憧れの大学生活を始めた。
両親は最後まで渋っていたけれど、大学で遊びたいという私の意思が競り勝った。
入学してみれば、あの日担任が言った「いい大学」は、その通りだった。
授業は充実していたし、就職率もなかなか良かった。
そして、心配していた「実物は案外ふつうだよ」も、あながち間違ってはいなかった。
白亜の校舎も、よく見ればそれなりに年代を感じたし、バラの生垣だって、いつも完璧に手入れされているわけではなかった。
ただ、そこに通っている人たちは、私の思う「ふつう」とは少し違っていた。
「ごきげんよう」
そんな言葉を、本当に挨拶に使う人たちがいるとは、入学するまで知らなかった。
みんなに倣って私も同じように返すけれど、背筋がぞわぞわするような居心地の悪さが拭えない。
こんにちはもさようならもごきげんようなら、いっそアロハでもいいじゃないか。
明るい日差しの下で「アロハ」と挨拶する自分を想像してみる。
まだそっちの方が、私には似合っているだろう。
私のボキャブラリーにない言葉が飛び交うその大学は、まさしく通える異世界だった。
どうにも馴染めない。
浮いている自覚だけは、いやというほどあった。
ところが、挨拶ひとつでたじろぐような私にも、ご学友のお嬢様方は驚くほどお優しかった。
気さくに話しかけてくれるし、さりげなく気まで使ってくださる。
出席番号で隣になった鈴木エイミー真澄様も、そんな方だった。
折れそうなほど華奢な身体に、ゆるく巻いた髪。
おっとりとした柔和なお顔が、そのやわらかな雰囲気をいっそう際立たせていた。
「体育の講座は決めまして?」
「えっと、まだです」
たぶんここでは、「まだですの」とでも返すのが正解なのだろう。
けれど、どうしてもそんな言葉は口から出なかった。
もちろん、誰もそんなことは気にしない。
エイミー様も私の返事など意に介さず、やさしく続けた。
「まぁ。もし決めかねているなら、ご一緒にダンスの講座を受けませんこと?」
「ダンスですか」
「えぇ。きっと楽しくてよ」
たった数往復の会話なのに、同じ時代の日本語を話している気がしない。
少し冷静になろうと手元の講座表を見ると、体育は必修で、四つの選択肢から一つ選ばなければならなかった。
テニス、ゴルフ、馬術、ダンス。
そこに並んでいたのは、私の知っている体育ではなかった。
テニス、ゴルフの次には、せめてバレーボールくらい来てほしい。
エイミー様は、目を見開いて固まった私をやさしくのぞき込んだ。
「ダンス、お嫌い?」
「お、お嫌いと言えるほど、経験ないです」
「皆さま同じですわよ」
ほほほ、と軽やかに笑う声に嫌味などない。
けれど、『皆さま同じ』が言葉通りなわけがない。
おそらく皆さまは、幼少期から日舞だのバレエだのに親しんでおられるに違いない。
エイミー様は、きっと私に気を使ってそう言ってくださったのだろう。
テニスで空振りする自分。
ゴルフクラブは何本必要なのかもわからない自分。
馬術にいたっては、馬に触ったことすらない。
どう考えても、四つの中でまだましなのはダンスだけだった。
「……ご一緒させてください」
少し遠慮がちに答えると、エイミー様は花がほころぶように微笑んだ。
入学前に、私は学校案内をもう少し真面目に読んでおくべきだった。
あのラミネート加工された資料を隅々まで見れば、ヒントはちゃんとあったのだ。
「鹿鳴館華やかなりし頃、女子の教育に力を入れ……」と。
そんな大学が、SNSで流行るようなK-POPのダンスなど採用するはずがない。
待っていたのは、いかにもこの大学らしい、三拍子で優雅に踊るワルツだった。
ワルツでまず心を折られたのは、ステップより姿勢だった。
背筋を伸ばし、顎を引き、腕の角度まで意識して立つだけで、私にはもう立派な運動である。
華奢なお嬢様方のほうが、ぴたりと形を決めているのだから、情けなくもなる。
「あなた、ちょっとこちらへ」
講師に一人だけ名指しされ、少し離れた鏡の前に立たされた。
「まずは姿勢から。これを付けましょう」
背筋に沿って身体を固定するような器具を渡され、私は思わず黙り込む。
「あなた、せっかく背も高いし、素敵なんだから、猫背になるのはもったいないわ」
褒められているはずなのに、公開処刑にしか思えなかった。
「さあ、同じように姿勢を取ってみて」
ほとんどギブスみたいなそれを付けて、講師の真似をしながら胸を張る。
「身体が硬そうだし、男性パートで踊ってみましょうか」
教室のどこかから、「宝塚みたいね」とささやく声が聞こえた。
ちっともうれしくない。
けれど、優雅さより力強さを求められる男性パートのほうが、まだ踊れた。
授業では持ち回りで男性パートと女性パートを入れ替えていたけれど、私の位置はいつの間にか男性側に落ち着いた。
スカートをひらりと翻して踊るのにも憧れたが、やってみるとどうにも優雅さが足りない。
その点、男性パートなら衣装も白いシャツに黒いパンツで済むのがありがたかった。
少しコスプレ気分になってみると、ワルツは案外楽しかった。
終盤には、なんだかんだ人前で見られるくらいには踊れるようにもなっていた。
次々とパートナーを替えて踊っていれば、モテ男気分まで味わえてしまった。
ありがとう、エイミー様。ワルツは意外と楽しかったです。
手を取って踊るエイミー様に感謝を込めて笑いかけると、
「余裕が出てきましたわね」
と、こちらへもきらきらした笑顔が返ってきた。
前期試験が終われば、こんなダンスを披露することもないし、履歴書の特技欄に書くこともたぶんない。
そう思っていた頃、エイミー様が少し思いつめたような顔で話しかけてきた。
「あの、今度うちの集まりがあるのだけど、参加してくださらない? 」
うちという二文字が重く響く。
「身内の集まりに、私のようなものが参加するのはご迷惑では?」
「気楽な集まりですわ。それに、迷惑だなんて。お願いしているのはこちらです」
いつもと違ってどこか必死なエイミー様に、私は違和感を覚えた。
「何かあるんですか?」
そう尋ねると、エイミー様はこれまで見たこともないような憂いを含んだ笑みを浮かべた。
「実は婚約者がいるのですが、彼は私ではなく、別の方と参加するつもりのようなのです」
「エイミー様、婚約されているんですか⁉」
結婚なんて、私の中では就職のもっと先にあるものだった。
同じ十八歳のエイミー様に婚約者がいるということが、信じられなかった。
「同級生なんですから、様付けはおよしになって。子供の頃に結んだ婚約なのです」
そこでいったん言葉を切ってから、エイミー様は少しだけ視線を伏せた。
「ただ、最近少し拗れておりまして。あちらも何か思うところがあるようで。パートナーをお願いしたいのです」
なんかゴタゴタに巻き込まれそうで嫌な感じがする。
それでも、これまでたくさん気を使ってくださったエイミー様を無下にはできなかった。
それに、パーティーという響きに私は抗えなかった。
遊びたい。
上流階級のパーティーなんて、これを逃したら二度と参加できないだろう。
行くと答えかけて、私はひとつ大事なことに気がついた。
「あの、私、ドレス持っていないです」
「いつもの格好で問題ありませんわ」
「パートナーで、いつもの格好って、ダンスの授業の時みたいな男装ってことですか⁉」
「今なさっている格好という意味でしたが、そうですわね。ダンスの授業で着ていた白いシャツと黒いパンツのほうがいいかもしれませんわ」
エイミー様は少し考えるようなしぐさをしたあと、何かを企んだ笑みを浮かべた。
「大学でできた新しいお友達として両親に紹介したかったのですが、まるで本当のエスコート役のようにご一緒していただけるなら、少し面白いことになりそうですわね」
「いらっしゃい。よく来てくれたね」
身内の集まりと聞いていたけれど、指定されたのは一軒家レストランだった。
クリーニング出しておいてよかった…!
友達のパーティーに行くと聞いた時、両親は最初、
「友達できたのか! よかった!」
と、手放しで喜んでいた。
でも、着ていく服をわざわざクリーニングに出し始めたあたりから、さすがに心配を隠せなくなっていた。
わかる。
私だって、家族が友達の家に行くだけでクリーニングなんて言い出したら、ちょっと身構える。
友達の家なんて、Tシャツ短パンビーサンで行けるものだと思っていた。
「ご迷惑では?」
母よ。それは私も言った。
「で、なんでスラックスなんだい?」
父よ。エイミー様のご指定なんです。
釈然としない私の答えに、両親の顔には大きく「騙されてない?」と書かれていた。
大丈夫。たぶん騙されてはいない。
ご迷惑もかけていないはずだ。少なくとも今は。
お店の方に案内されて会場に入ると、エイミー様によく似たご両親がやさしく迎えてくださった。
立食形式のビュッフェ台の向こうには広い庭が広がり、軽やかなクラシックが流れている。
気楽な集まりと聞いていたけれど、ジャケットやドレスに身を包んだ人も多く、さっそく気後れした。
隣で親しげに腕を絡めてくるエイミー様も、ふんわりとしたドレス姿で、いつもよりずっと愛らしい。
場違いな場所に来てしまった気がして、嫌な汗がにじむ。
きっちり第一ボタンまで留めた、クリーニングしたばかりのシャツの襟が気になった。
せっかく整えた服も、いつもより少し気合を入れたメイクも、もう台無しだ。
そんなことはお構いなしに、エイミー様は私をご両親の前に連れ出した。
「こちら、大学で仲良くさせていただいている白鳥翼さんです」
「はじめまして。白鳥翼です。エイミーさんには、いつも助けていただいてばかりで」
「娘からお話は聞いていますよ。大変な努力家だとか」
エイミー様はいったい何を話しているのだろう。
背中にじわりと汗が浮く。
「恐れ入ります」
かろうじて、そう返した。
「楽しんでいってください。あちらのほうが若い人たちが集まっているから、少しは居やすいかな」
お父様がさりげなく会場の隅を示すと、そこには私たちと同じくらいの年頃の男女が、グラスを片手に談笑していた。
「そうね。移動しましょうか。では、お父様、お母様、また後ほど」
「ごきげんよう」
エイミー様と腕を組んだまま会場の隅にたどり着くと、談笑していた男女が一斉に振り向いた。
その顔に一瞬、驚きと戸惑いが走る。けれどすぐに、誰もがにこやかな笑みを浮かべた。
「やあ、エイミー。あれ、エスコートは正彦君じゃないんだ? 隣の方を紹介してくれるかい?」
「こちら白鳥翼さん。最近仲良くさせていただいてますの」
「へぇ」
「初めまして」
なんとなく場違いな居心地の悪さは消えなかったけれど、皆おおむねフレンドリーだった。
特に私へ話が振られるわけでもなかったので、私は皆の会話を聞いているだけで済んだ。
これまで飲んできたどの百パーセントジュースより濃厚なオレンジジュースを飲みながら、見たこともないパテが刺さったピンチョスをつまむ。
お飾りと割り切ってしまえば、自分には縁のない世界の話を聞くのも案外悪くなかった。
DJでもやってそうな男の子が面白そうに語る、どこにあるのかもわからない海外のビーチでのハプニング話を、生配信でも眺めるような気分で楽しみ、艶やかなリップの女の子が語る最新美容の情報を興味深く聞く。
そんなふうに、それなりに和やかだった空気は、唐突に破られた。
「エイミー。そこにいたのか」
横柄な声が響く。
「正彦君」
振り向けば、派手なシャツの胸元を大きく開いた大柄な男が、計算高そうな女を連れて立っていた。
「なんだ。エイミーにも男いるじゃん。じゃあ気にすることないな。俺たち婚約破棄しよう」
「何を言ってますの?」
「俺、好きな女ができたんだよ。真実の愛ってやつ? 愛の結晶もできちゃってたりして」
「な……っ」
正彦君の隣に立つ女の腹に、その場にいた全員の視線が集まった。
けれど、まだぺたんとした腹では、本当かどうかもわからない。
足元の高いヒールを見るかぎり、私はずいぶん嘘くさいと思った。
当の本人は正彦君にしなだれかかりながらも、その場にいる男たちを値踏みするような目で見ていた。
その視線がこちらにも、頭の先からつま先までなぞるように向けられる。
「正彦君、そのお話は少し場所を選んだほうがよろしくてよ」
「冷静だね。まあ、俺のほうの提案は変わらないけどね。で、エイミーの隣にいるのは誰?」
「こちら白鳥翼さん。最近仲良くさせていただいてますの」
先ほどより少し声は硬かったが、紹介の文句はまったく同じだった。
「白鳥翼さんねえ。ずいぶん綺麗な顔してるじゃん。名前まで格好いいし」
「翼さんは」
「翼さぁん。エイミーは真面目でつまらないけど、女としては悪くないよ」
正彦君は下から覗き込むように、顔を寄せてきた。
こういう時、何と返したらいいのだろう。
反論しても、どうせ揚げ足を取られる気がする。
だから私は、正彦君を避けつつ、思ったままを口にした。
「正彦さんでしたっけ。お相手はお隣の方なのでしょう。でしたら、そちらだけをご覧になっていてはいかがですか」
「へぇ。そう来るんだ。じゃあ俺らは退散しようか。ああ、その前にオヤジたちに挨拶していくか」
ギャルの肩を抱いて、正彦君は親世代の集まるほうへ向かっていった。
まさか、このまま親たちにも婚約破棄を告げるつもりなのだろうか。
どっと疲れた。
この場にこれ以上いても、ろくなことにはならなそうだ。
「私はそろそろお暇します」
「その方がよさそうですわね」
正彦君の姿が見えなくなっていたら、ご両親に挨拶して帰ろう。
そう思って視線を向けると、そこではまだ正彦君が声を荒らげていた。
「だーかーらー。婚約破棄したいって言ってんだろ。話通じないな。まともな社会人なのかよ」
正彦君は、大げさな身振りで何とか言い分を通そうとしていた。
けれど、どこぞの大物気取りで手を振り回しても、寄り目で天を仰ぎ、心底あきれたような顔をして見せても、癇癪を起して地団駄を踏む子供にしか見えなかった。
私でさえそう感じるのだから、大人にはなおさらそう見えただろう。
「ここで話す事ではないだろう」
「日を改めなさいな」
周りの大人たちは、とにかく場所を変えて話そうとしているのに、正彦君にはまるで通じていない。
どうやら、まだ長引きそうだ。
出直そう。
そう思って戻りかけたところで、エイミーのお父様とばっちり目が合ってしまった。
「もうお帰りかい?」
「はい。そろそろ」
「その前に、一曲踊っていかないかい。君のワルツは、なかなかなものだとエイミーから聞いているよ」
「まあ、あなた踊れるの?」
「いいわね」
お父様がさっと手を振って合図を送ると、音楽ががらりと変わった。
そのまま奥様の手を取ると、堂々と踊り出す。
面白そうに成り行きを見ていた人たちも、それをきっかけに次々とパートナーの手を取った。
あっという間に、会場は踊る空気になっていた。
エイミー様がそっと袖を引く。
私は仕方なくその手を取り、輪の中へ入った。
「ずいぶん都合よく使ってくれましたね」
「ごめんなさい。正彦君が、ここまで馬鹿だとは思わなかったの」
あまりに率直で、かえって返す言葉に困る。
「でも、あなたを仲のいいお友達として両親に紹介したかったのは、本当よ」
くるりとターンした拍子に、正彦君たちのほうが目に入る。
ギャルのほうは、どうやらワルツは踊れないらしい。
二人はさっきと同じ場所に、憮然と立ち尽くしていた。
「婚約を解消するにしても、このまま形だけ続けるにしても、受け入れるつもりでした。だけど、もっと上手くやってほしかった」
エイミー様は笑顔のままだった。
けれど、ささやく声にだけ後悔がにじんでいた。
「誰にも相談できず、強行突破しかないと思ってしまう時点で、もう駄目なのです」
おっとりしたお嬢様に見えて、私が思っていたよりずっと、物事を冷静に見ている人なのかもしれない。
涙を隠すように、エイミー様が私の肩に顔を埋めた。
「正彦君の責任を放り出して、自分のやりたいようにしたい気持ちもわかるの。面倒がらずに、もっとちゃんと話せばよかった」
エイミー様が私を呼んだ理由が、少しわかった。
正彦君もエイミー様も、たぶんただ、学生らしく遊んでみたかったのだ。
「それで、私を虫よけにしたんですか。わざわざ誤解されるような紹介の仕方までして」
「悪ノリが過ぎました」
軽くため息をつくと、エイミー様はしおしおと、
「申し訳ありません」
と小さく口にした。
親同士のしがらみのない同性の友達。
たしかに、これ以上気楽な相手はいないのだろう。
下手に異性を連れて来たら、あっという間に次の婚約者になってしまう。
「これっきりにしてくださいね」
何の効き目もなさそうな約束を、一応お願いしてみる。
「約束するわ。しばらく留学でもしようかしら。一人暮らしもしてみたかったの」
「留学も一人暮らしも、よさそうですね」
気分転換に留学を選べるなんて羨ましい。
私にできるとしたら何だろう。せいぜいバイト先を変えるくらいか。
曲が終わって手を離すと、うっかり風船を手放してしまったみたいに、少し寂しくなった。
「また遊んでくれますか」
「もちろん。喜んで」
その後、エイミー様は両家で話し合いをすると言って、早々に会場を出て行った。
私もタクシーを呼ぶと言ってくれたお店の方に断りを入れ、駅へ向かった。
歩きながら、息の詰まるシャツの第一ボタンを外す。
ぐっしょりと濡れた襟が首から離れると、夜風が首筋をかすめ、さっきまでのワルツとはまるで別物の、居酒屋の喧騒が耳に流れ込んできた。
エイミー様のことを少し知れた気もするし、知らなくてよかったことまで見てしまった気もする。
空を見上げれば、流れ星みたいな飛行機の光が見える。
知ってしまった以上は、とにかくエイミー様の決意が報われてほしい。
ついでに正彦君には、少しくらい痛い目を見ていただきたい。
本物の流れ星じゃなくたって、この願いくらいきっと叶えてくれるはずだ。
飛行機は願いを叶えてくれたらしい。
宣言通り、エイミー様は夏が終わる頃、海の向こうへ飛び立っていった。
留学する前、エイミー様はもう一度だけ、私を遊びに誘った。
プリクラを撮ってみたい。
あまりにもありふれていて、少し拍子抜けするようなお願いだった。
でも、そういう遊びこそ、きっと私にしか付き合えないのだろう。
出来上がった写真に、エイミー様は「ズッ友」と書き込んだ。
「言ってみたかったんです」
そう言って笑うエイミー様は、私が今まで見た中で、いちばん普通の十八歳の同級生だった。
「婚約もなくなったことですし、素敵な恋をしてみたいですわ」
「今のエイミー様なら、きっと放っておかれませんよ」
「良い人ができたら、一番に連絡しますわ」
「では、競争しましょうか」
「あら。よくってよ」
私は数週間後、この競争にあっさり負けることになる。
メッセージアプリに送られてきた写真には、どう見ても恋をしている顔のエイミー様と、それを大切そうに見つめる誠実そうな男性が写っていた。
嬉しいはずなのに、少しだけ置いて行かれたような心もとなさが残った。
アプリを閉じ、新しいバイトの面接に向かうため、シャツに袖を通した。今日の襟も、やっぱり硬かった。




