第9話 【ざまぁ】夢の跡
あれから季節は巡り、冬が来ました。 かつては暖かい家にいたはずの元夫は今、どうしているのでしょうか。
自業自得とはいえ、因果応報とは恐ろしいものです。
季節は巡り、木枯らしが吹く季節になっていた。
都内の公園のベンチ。 薄汚れたコートを頭まで被り、震えている男がいた。健太だ。 かつてはスーツを着こなし、そこそこの企業で係長をしていた男の面影は、もうどこにもない。
「……寒い」
かじかむ手で、コンビニの袋に残ったパンの屑を口に運ぶ。これが今日の夕食だ。
あの日、里奈に捨てられた後、健太の人生は坂を転げ落ちるように崩壊した。 まずは仕事だ。
家を失い、ネットカフェを転々とする生活では、身だしなみを整えることもままならない。ボロボロの服、無精髭、そして染みついた異臭。 当然、会社での評価はガタ落ちした。
さらに悪いことに、美咲が脅し文句として言っていたことが現実になった。近所の奥様方の噂話が、巡り巡って会社の同僚の耳に入ったのだ。
『あいつ、借金踏み倒すために親の遺産放棄して、家族追い出そうとして自滅したらしいぜ』 『うわ、最低だな』
針のむしろだった。居場所を失った健太は、逃げるように自主退職を選ばざるを得なかった。
退職金は雀の涙。それも、生活費とギャンブルですぐに消えた。 里奈? あいつは一度も連絡を寄越さない。風の噂では、新しい男にもすぐに捨てられ、今は夜の街で借金まみれになっているらしいが、どうでもいいことだ。
「……なんで、こうなったんだ」
健太は濁った目で夜空を見上げる。
数ヶ月前までは、暖房の効いた部屋があった。 風呂上がりのビールがあった。 「おかえり」と言ってくれる妻と息子がいた。
退屈だと思っていた日常。 だが、それは失って初めてわかる、何よりも得難い「幸福」だったのだ。 それを自らの浅はかな欲望と、ちっぽけな見栄のために、すべてドブに捨ててしまった。
「……帰りたい」
無意識のうちに、足が動いていた。 電車賃もないため、数時間かけて歩き、かつて自分が住んでいた町へと向かった。
深夜、静まり返った住宅街。 見慣れた家の前にたどり着く。
リフォームされた二世帯住宅。かつては俺の家だった場所。 家の前の花壇には、綺麗な花が植えられ、手入れが行き届いているのがわかった。
リビングの窓からは、暖かそうなオレンジ色の光が漏れている。
――ガサッ。
庭の木が風で揺れた音に驚き、健太は電柱の影に身を隠した。 不審者だ。今の自分は、どう見てもただの不審者だ。
その時、玄関のドアが開いた。 出てきたのは、ゴミ袋を持った美咲だった。
部屋着のままだが、その顔色は良く、肌も艶やかだ。介護の疲れでやつれていた頃とは別人のように若々しく見える。
「ママ、寒いから早く入ってよー」
奥から春斗の声が聞こえる。
「はいはい、今行くわよ。……ふふ、今日は春斗の好きなシチューだからね」
美咲は幸せそうに微笑むと、ゴミを集積所に出し、すぐに家の中へと戻っていった。
閉ざされたドアの向こうから、楽しげな笑い声が微かに聞こえてくる。 そこには、健太の居場所など、最初から存在しなかったかのような「完結した幸せ」があった。
「あ……ぁ……」
健太の口から、嗚咽が漏れる。
ドアを叩いて、「許してくれ」と叫びたい衝動に駆られる。 だが、できなかった。
あの時突きつけられた「鍵」が、物理的にも心理的にも、完全に世界を隔てていることを知っていたからだ。 それに、もし今さら顔を出せば、今度こそ本当に警察を呼ばれ、刑務所行きになるだろう。
借金はない。 だが、それ以外は何もない。
過去も、未来も、家族も、プライドも。 相続放棄という名の「人生放棄」を選んだ男の、これが末路だった。
健太は後悔の涙を流しながら、暖かな光が漏れる窓に背を向けた。 冷たい風が吹き荒れる闇の中へ、トボトボと歩き出す。
その背中は、以前よりもひと回りもふた回りも小さく見えた。 二度と、この家の敷居を跨ぐことはないだろう。
彼は、闇夜に消えていった。
窓の外と中。 一枚のガラスを隔てて、天国と地獄が分かれました。 もう二度と、彼がこちらの世界に関わることはありません。
さあ、悪夢は終わりました。 最後は、主人公たちの清々しい朝で締めくくりましょう。
次話、最終回です。
(全話投稿済みです。最後までお付き合いください!)




