第8話 惨めな旅立ち
家もお金もない男に用はないようです。 浮気相手の切り替えの早さは、ある意味清々しいほどでした。
寒空の下、一人ぼっちになった元夫。 一方で、主人公たちは……。
近所の奥様方の視線と嘲笑に耐えきれず、逃げ出した健太と里奈。 二人が足を止めたのは、家から数キロ離れた、人気のない公園のベンチだった。
日は既に傾きかけ、夕暮れの冷たい風が吹き抜けていく。 二人は肩で息をしながら、しばらくの間、言葉を発することもできずにいた。
「……はあ、はあ……くそっ、なんで俺がこんな目に……」
健太がベンチに座り込み、頭を抱える。 その隣で、里奈がハイヒールを脱ぎ捨てて足をさすっていた。逃げる途中で靴擦れを起こしたらしい。
「ちょっと、健太。これからどうすんのよ」
里奈の声には、もう甘えも色気も一切なかった。あるのは苛立ちと軽蔑だけだ。
「どうするって……とりあえず、今日はどこかに泊まるしか……」
「ホテル? まさかビジネスホテルとか言わないわよね? あんなことあったんだから、高級なスイートで慰めてくれないと割に合わないわよ」
この状況で何を言っているんだ、この女は。 健太は力なく首を振った。
「無理だ。そんな金、あるわけないだろ」
「はあ? 財布見せなさいよ」
里奈が健太のポケットから強引に財布を抜き取る。 中を確認した里奈が、鼻で笑った。
「……嘘でしょ? 現金、これだけ?」
財布に入っていたのは、千円札数枚と小銭だけ。合計しても五千円にも満たない。 ATMに行こうにも、健太のメインバンクのカードは、確か家に置き忘れてきたバッグの中だ。
「慰謝料だの手付金だので、手元の金はほとんど使っちまったんだよ……。お前だって持ってるだろ?」
「ないわよ! 言ったでしょ、家具のキャンセル料とかで全部飛んだって!」
沈黙が流れる。 空腹と疲労、そして絶望的な金欠。
愛の巣になるはずだった家はもうない。帰る実家もない。頼れる友人もいない。
「……ねえ。あんたさ」
里奈が、ゴミを見るような目で健太を見下ろした。
「家もない、金もない、仕事もヤバそう。その上、バツイチで子持ちで、親の借金から逃げようとして失敗した男……ってことよね?」
「う、うるさい! 俺だって被害者なんだよ! 美咲のやつがハメやがったんだ!」
「ハメられたんじゃないわよ。あんたが馬鹿なだけ」
里奈はそう吐き捨てると、スマホを取り出し、誰かに電話をかけ始めた。
『あ、もしもしぃ? タカシくん? 久しぶり~! うん、今ね、ちょっと暇になっちゃって。……え? 会える? 本当? 今から行っていい?』
甘ったるい声。さっきまで健太に向けていたのと同じ声だ。 健太が呆然として見上げると、電話を終えた里奈が立ち上がった。
「じゃ、私行くから」
「は? おい、どこ行くんだよ!」
「元カレのところ。あんたと違って、彼は商社マンだし優しいから、泊めてくれるって」
「ま、待てよ! 俺はどうなるんだよ! 二人で一緒になるんじゃなかったのかよ!」
健太が縋りつこうと手を伸ばすが、里奈はその手を汚いものでも払うように叩き落とした。
「勘違いしないで。私が好きだったのは『家持ちの健太くん』。今のあんたはただのホームレス予備軍。……邪魔だから、二度と連絡してこないでね」
里奈はそう言い残すと、タクシーを拾うために大通りへと歩き出した。 一度も振り返ることはなかった。
「……嘘だろ……」
たった一人、薄暗い公園に取り残された健太。 カラスがカァカァと鳴きながら頭上を飛んでいく。
寒さが身に染みる。だが、それ以上に懐と心が寒かった。
その頃。 かつて健太の家だった場所では、軽快なドリルの音が響いていた。
「はい、奥様。鍵の交換、完了しました」
作業着を着た鍵屋の男性が、ピカピカの新しい鍵を3本、私の手のひらに乗せた。
「ありがとうございます。助かりました」
私は新しい鍵の重みを確かめるように握りしめた。 これはただの鍵ではない。私と春斗の安全と、平穏な未来を守るための守護符だ。
ガチャリ、と新しい鍵を回し、ドアをロックする。 その感触は、今までのどんな施錠よりも頼もしく感じられた。
リビングに戻ると、春斗が心配そうに私を見ていた。
「ママ、パパたちは?」
「もう二度と来ないよ。魔法の鍵に変えたからね」
「そっか! じゃあ、もう怖くないね」
春斗が安心したように笑う。 窓の外を見ると、日は完全に沈み、夜の帳が下りていた。
外の寒さは厳しいだろう。家も金も失った彼らが今夜どう過ごすのか、私には想像もつかないし、想像するつもりもない。 ただ一つ確かなことは、この暖かい家の明かりは、もう二度と彼らを照らすことはないということだ。
「さあ、春斗。今日は奮発して、デリバリーでも頼んじゃおうか!」
「やったー! 僕ピザがいい!」
温かいリビングに、私たちの明るい笑い声が響いた。
新しい鍵、それは自由の象徴です。 暖かいピザと、春斗の笑顔。これ以上の幸せはありませんね。
さて、季節は巡ります。 全てを失った元夫は、その後どうなったのでしょうか。
次話、数ヶ月後の冬。落ちるところまで落ちた男の末路です。
(全話投稿済みです。続けてお読みください!)




