二章 水の精霊術師
昨夜、私は頭の中が混乱したまま、取り敢えず寝る事にして一晩経った。混乱していた割によく眠れて、スマートフォンのアラームより早く起きた。
枕元の横には顕現した精霊のヒートが火の粉の鼾をかいて寝ている。
「精霊も寝るのか……」
「いや起きてるぞ」
起きてるんかい。と、心の中のエセ関西弁で突っ込んでしまった。
「寝てる姿はお前のイメージだ。精霊が眠るという事はない。炯奈だって寝てる時、心臓は動いているだろう」
「そりゃまぁ心臓止まったら人間死んじゃうし」
「そんな事より今日から探してもらうんだからな」
「はいはい。それより試したいことがある」
「試したい事?」
私はベッドから降りてパジャマのまま構える。そして深呼吸をした後に、目をカッと見開いた。
「星の深淵に揺蕩う無限の光よ。我の呼び掛けに応じ、久遠の言葉を辿りて紅き炎となれ!」
私はサッと右手を突き出した。
昨日の火傷痕を見るが何も起こらない。もう一度手を突き出す。
――ふんっ! エイッ!
沈黙の時間が流れ、当惑しているヒートが口を開いた。
「なんじゃそりゃ」
「呪文よ。詠唱よ。出せるはずでしょ。炎!」
「出る訳ないだろ」
「何でよ! 火の精霊のあんたと契約したんだよ」
ヒートが頭を抱えて呆れている。
「無理だって。燃えたくない万物の意志を無視してるからさ。昨日も言ったが精霊との契約は双方の意志が合って初めてなされる。精霊術も然りだ」
「双方の意志が合わされば出せるって事? 炎!」
「精霊術は同調。魔法は魔力。科学は無理矢理って感じかな。それ以前にお前にそんな力は無い」
私は膝から崩れ落ち、四つん這いになった。昨日燃やした黒歴史ノートの中の魔法陣は本物だったのに。泣きそうだ。
「何でそんなに絶望するんだよ。そうだなぁ。今のお前なら一日一回か二回、小さい火花を出せるか出せないかって程度かなぁ」
「出るのね!」
「いや……わかんないけど、集中してお願いしてみ。精霊とかに」
精霊はあんたでしょうに。まったく。だけど希望が出てきた。
私はさっきの詠唱を繰り返そうとした。
「呪文とか要らんからな」
ムッとしてヒートを睨む。良いじゃない別に。
(精霊様。どうか私に力を! 炎出したいです! 天変地異なんとかしますんで!)
火傷痕が少し暖かくなって、ほんの微かな火が指先から出た?
「アチッ」
熱いというより静電気で弾けたみたいな感じで痛かった。実際火の粉よりも小さい。そしてとても疲れる。
「おお。出せたじゃないか」
「これで終わり? これだけなの?」
「出せたんだから文句言うなよ」
「ライターの方が早いじゃん」
「人間の『科学の力』は偉大だな。ライターが無い時に重宝するかも知れない」
がっかりしてたらアラームが鳴り、一階から母が私を呼ぶ声が聞こえて来た。
「ねぇヒート。ヒートの姿って、例によって他の人には見えないんだよね」
「なんだ『例によって』って。そりゃ基本的に人間には見えないが、契約者とか、もともと精霊に近しい者ならば見えたりするかもな。気になるなら消せるが?」
「いや、いいよ」
気にしても仕様が無い。それに側に精霊が居るなんて、使い魔みたいで恰好良い。
ヒートを手に乗っけてやろうと思って右手で掬う形をしたらふわふわと浮かんできた。
飛べるんかい。と、また突っ込んでしまった。
居間のテーブルには私の御飯だけが残っている。家族皆朝食はもう済ましている。
爺ちゃんは朝早くに畑だし、父も勤め人で朝が早い。父の場合は通勤時間のせいだけど、最近は電車を使って遠くの職場への行き帰りが堪えて来たから、農家をちゃんと継ごうかなとか言っていた。母もパートへ出かける準備をしていた。
「洗い物お願いね。それと遅刻しない様に」
「わかってるって。行ってらっしゃい」
伏せてある茶碗を取ってご飯をよそい、炊飯器の余ったご飯をどんぶりによそってから炊飯器の電源を切り、内窯に水を張っておく。どんぶりによそったのは、冷ましておいて、後で冷蔵庫へ入れる為だ。そのまま残しておくと夏場とかは傷んで危ない。それに母が午後二時前には帰ってきて家で昼を食べるので、冷御飯があると便利だからと言う事だった。味噌汁は温め直さずお椀に注いで、空の鍋を流しに置く。
テーブルにご飯と味噌汁。これだけでも絵になる。焼き魚とかがあったらザ・和食って感じだが、おかずは目玉焼きに適当な野菜をいためたやつとウインナー。パンでも応用が利く。おかずはほぼ毎日同じだが、食べられることが有難いし、朝を食べないで来る子とか居るから考えられない。婆ちゃんが生きていた頃には全部婆ちゃんがやっていたけど、死んじゃってからは家族で代わる代わるやっている。朝ご飯を作るのは爺ちゃんが多いかな。
私は手を合わせた。
「いただきます」
「それが人間の風習か」
「そう。言わない奴は日本人じゃない。あんたも食べる?」
ウインナーを一つ箸で掴んでヒートの口元へ持って行った。
「俺はペットじゃない。そして精霊は食べない。マナは喰うけどな」
ヒートは食べないと言ったが、人間の食事に興味はあるみたいで、私が食べるのを横でチラチラ見ながら「これは何だ?」「これがあれか?」とか、知識と現物を確かめるようにしている。
実際ヒートが食べ物を食べたらどうなるのだろうか。食べたらやっぱり燃えるんだろうか、とか思いながら手早く朝ご飯を平らげ、四人分の食器の洗い物をする。
ヒートの人間の知識は精霊界の中でそこはかとなく共有されているみたいで、干渉しないとか言ってた割によく知っている。私が顔を洗ったり歯を磨いたりしてても、歯ブラシとか歯磨き粉とかを使うだけで「へぇ」とか「ほぉ」とか横で感心していた。
制服に着替える時に精霊の性別について考えた。「俺」とか言ってるし、男の子なんだろうか。私ではなく制服には興味があるみたいだけど、まぁいいか。
流石にお手洗いの時はまぁ良くない。良くないので消えては貰ったけど、実体は心臓に間借りしているわけで、どんな感じなんだろうか。見えているのだろうか。覗きになるのだろうか。
うーん……。気にしない様にしよう。
時間割を確認し、忘れ物が無いかも確認し、全て完璧。
「行ってきます」と言って外へ出る。
「ほう。これが人間界か。田舎みたいなのにここは村じゃないのか」
私は鞄でヒートを叩く。
「だから村じゃないって」
鞄で叩いても透き通ってしまったが、頭を押さえている。この仕草も私が投影しているからそういう風に動いているという事なんだろうか。
私が町と言いながらも、田舎だという事は認めざるを得ないような田舎道を歩きながら、ヒートに天変地異の事を聞いてみる。
「一言で言うなら闇」
闇の力。不謹慎にもテンションが上がってしまった。
「マナは四元素以外に光と闇って無いの? 光の精霊、闇の精霊ってのが居ても良いもんだけど」
「光と闇が無いと言うより四元素全てに光があって闇がある。それで、どちらかと言うとマナの根源が闇。闇から光が生まれ、精霊界が生まれる」
「ビックバン的な?」
「人間が提唱した理論か。人間界でもそうなら、さして精霊界と変わんないだろう」
壮大だ。けれど宇宙の片隅の小さい地球の、そのまた小さい日本の片田舎の幸梨町でそんな天変地異が起こられても困る。
「でもさぁ。そのマナの根源たる闇をどうこうしようってんなら、闇から生まれた精霊界も大変なことになっちゃうんじゃない?」
「闇そのものがあるなら問題ないんだ。天変地異は闇に悪意が混ざった様な物で、万物の流れを阻害するモノ。それらをウチら精霊の四元素がバランスをとる事で調整し、回避していくんだ」
「小さい物からコツコツとって感じね」
「お前……なんか事の重大さを分かって無さそうだな」
面倒な事を深く考えないようにしてるのは私の良い所だと思っている。
ふと田んぼの向こう側を見る。小高い丘を越える道があり、そこの交差点辺りで何か慌ただしい気配を感じた。昔からお世話になってる小さな雑貨屋がある。他にも床屋、電気屋、薬屋があったが、廃業して数十年経ち、廃墟になっている。その建物の影から誰かが走りだして来た。幸梨中学の制服を着ている。
あれは……
「清花?」
「友達という奴か?」
「うん。でも学校とは逆の方へ走っていくけど……」
大変だ。猪だ。清花が猪に襲われそうになっている。
「きよかーっ!」
私が大声で叫んだからか、猪が止まり、狙いを私か清花をどっちにするか迷っているようだった。
くそっ。どうする。何か鞄に……。
制汗スプレー? それを見た時、ハッと昔読んだ漫画を思い出した。
私が制汗スプレーを構えると、猪は私を敵だと認識したようで、嘶いた。
「精霊様どうかお願いします。清花を助ける為に」
「お、おい。さっき精霊術を使ったばっかりだろ。やめろっ」
「こんにゃろーーー」
可燃性のガスに私の指から出た火花に引火して火炎放射器の様になった。
ぶわっと広がった炎に猪は驚き、周辺をぐるぐる回って逃げ出した。清花が居る所とは反対方向へ逃げて行ったので一先ず大丈夫だろう。急いで清花の下へ駆けつける。
「けいちゃ~ん。 怖かったよ~」
へたり込んだ清花の肩を抱く。
「大丈夫だった?」
清花は涙目で頷くだけだった。
「そうだ。警察警察……」
スマートフォンで一一〇番。
「猪です! 事故?事件? だから猪ですって! 場所は幸梨町炭広の大木雑貨店と田んぼの近くです。幸梨中学方面に逃げて行きました。はい。はい。分かりました。」
「お巡りさんはなんて?」
「とにかく安全な所へ避難してください――だって」
安全な場所と言ったら学校……あれ? なんだ? 心臓の動機が早まる。
「けいちゃん? どうしたの?」
「胸が……。あと喉が焼けるみたいに痛い」
「参ったな。精霊術の反動だ」
私の肩の所にふわふわ浮いてるヒートが言った。
「さっき俺の忠告を無視したからだ」
確か……やめろとか言っていた気がする。けど、集中していて聞こえてなかった。
(そんなこと言ったってどうすることも出来ないでしょう)あぁ……。声が出ない。ふらついて視界がぼやける。
あれ? 清花にヒートが見えている?
私の意識がふっと途切れた。
ハッとして目を覚ますと清花に膝枕をされて、何故かおしゃぶりみたいに清花の人差し指をしゃぶっていた。
「ぷはぁ。なんでっ?」
「よかった~目が覚めて」
「ここは……?」
「大木のおばちゃん家」
清花が答えてくれた。
見回すと、見覚えがある。大木雑貨店の帳場の座敷だ。古い柱時計に、未だに使っている帳場箪笥。私が横たわっていた横には帳場格子。まるで江戸か明治からあるような造りだけど、大木雑貨店が建てられたのは戦後だという話は聞いた事がある。
古いままかと言われるとそうではなく、レジの所は改築されて新しいし、レジど連動しているパソコンのPOSシステムで帳簿を付けているし、最新のCAT端末も備えているのでスマホ決算も当たり前に出来る。
清花の膝枕から上半身を起こすと目の前に胡坐をかいたヒートがいる。怒っているようだ。
「まったく。軽々しく精霊術を使うんじゃない。命に関わるぞ。それで契約者に死なれたら精霊の恥だ」
「ごめんって」
て言うか、命に関わるのなら最初に言ってよ。
「清花が居てくれて助かったぞ。居なかったら丸一日寝てたかもしれない」
「それってどういう?」
ヒートが答える前に清花が代わりに答えてくれた。
「あのね。マナの補充だって」
「マナの補充?」
清花は私の前に人差し指を立てて見せた。すると小さな水玉が現れて、それを私の口元に近づけてきた。私はそのままパクリと水玉ごと清花の指を咥えた。
「水だ。おいしい!」
おいしいけどそうじゃない。清花は精霊と契約している。意識を失う前に見たのはやはりそう言う事だ。
「精霊術の水だ。火のマナが枯渇したお前には丁度よかった。助かったぞ清花」
清花はにっこりとほほ笑む。
「じゃあ精霊は?」
私が周囲を見ると清花の後ろから振袖を着た小さい女の子が慎ましく出て来てお辞儀をした。
私も居住まいを正してお辞儀をする。
「ほぇー。なんとお行儀のよい精霊様でしょう」
お辞儀をした水の精霊は、水の精霊らしく透明な水で形作られていて、着物にも柄があり、髪も綺麗に整えられて水の流れが見える。
私が感心しているとヒートが私の足をビシビシと殴ってきた。
「なんだお前。随分俺と対応違うじゃねぇか! 精霊を差別すんなよ」
ヒートが殴ってくるのを無視して清花に尋ねた。
「きよかは水の精霊と契約したんだよね。どんなふうに契約したの?」
「わたしは、その、お風呂に入ってる時に指でなんとなくぐるぐるお湯を掻き回してたらスイが偶然現れて……あ、スイって言うのはこの子ね。それで契約をしましょって」
会話にヒートが割り込んでくる。
「そうか。お前はスイと名付けられたか。なかなか力のある契約者で良かったな」
「なによー。当て付け? それより偶然ってどういう事。精霊との契約は双方の意志が合わないと契約ってならないんじゃないの?」
清花は契約の意志についてうーんと考えている。
私の場合は精霊紋が偶然黒歴史ノートに書かれたものだったが、契約の意志があったかどうか分からない。本心ではそう思っていたのか。黒歴史ノートへの未練が契約に繋がったのかな。
水の精霊のスイが、何か小さい声で囁いている。
ヒートが耳を近づけてふんふんと頷いている。耳……あるのか。
「精霊界でも天変地異は一大事だ。それで水の精霊側が人間の方へ呼び掛けていたんだな。基本的に人間側が天変地異を予見して契約紋を描くが、清花の場合は精霊の呼び掛けに感応したという事だ」
「なんか納得いかない。私だって心臓を契約の媒体にしたくなかったし……。そうだ清花は契約の媒体ってどうしたの」
「わたしは声」
「声……」
清花は別に何とも思ってない様に答えたけど、スイは申し訳なさそうにしている。
契約が成された後に媒体を決める事が出来るのなら心臓なんて捧げなかったよ。でも、天変地異を回避出来なかったら清花の綺麗な声が失われる。声なら命に関わらない様に思ったけど、自分の心臓が燃えるより嫌な気がした。
「さて、早々に契約者を見つける事が出来て重畳だ。それよりさっきの猪とか言う魔物だな。天変地異の前兆だろう」
ヒートが仕切りだした。
「猪が? て言うか魔物じゃない。ただの獣だし、猪なんて全国各地で暴れ回ってるじゃん」
「あれは契約者を狙っていたように思う」
「別に契約者じゃなくても狙われるよ」
「お前にはあの淀みが見えてなかったのか?」
「見えてない。昨日今日でそんなん分かるようになるわけ?」
「ハァ……。お前は未熟だものな」
「な、なにおぉぉ」
私とヒートが睨み合っているのを清花が止める。まぁまぁと言いつつなんか楽しんでないか。
「わたしもよく分からなかったし、天変地異を何とかすれば良いんでしょ。それで、ヒートさん、具体的にどうしたら良いの?」
清花はヒートをさん付けて呼ぶのか。私もスイの事はスイさんと呼ぼうか。さん付けて呼びたくなる振る舞いだったし。
「淀みの発生源に四属性の契約者が手を翳せばいい。そうしたら俺達精霊がマナを安定化させる」
「なんだ。簡単じゃん」
「お前はよくそんなお気楽に考えられるな。いいけどさ」
なんとなく話し合いに落ちが付いた所で、スイが外から誰かが来るというジェスチャーをした。声が良く聞こえないのは契約者じゃないからなのか、声を媒体としているからなのか、スイの声が小さいだけなのか。
ガラッと店の引き戸が開いて、気だるそうに入ってくる誰かが言った。
「はー疲れた疲れた。おっ、目が覚めたか」
「あけみ姉……」
あけみ姉は大木のおばちゃんの娘だ。歳は私より五つ上で、時々店を手伝ったりしている。四代目とか呼ばれたりする事もあるけれど、店は継ぎたくないそうだ。
昔よく遊んでもらったし、パソコンを教えて貰ったりもしてくれた。あけみ姉が高校へ通ってからは殆ど会っていなかった。
「くくく。炯奈が猪にびっくりして気絶するとはな。ま、無事で良かった」
直ぐに否定しようとしたけど、「精霊術を無理に使ったせいで……」なんて言っても余計にからかわれるだけだからやめた。そもそも話したところで余計笑われる。
「学校は臨時休校にはなりまーせん。早く行け行け。遅刻だぞ」
「遅刻扱いなの?」
「さぁ。取り敢えずパトカーで巡回してくれてるし、猟友会にも連絡したから通学路とかは大丈夫だろ」
あけみ姉は私が呼んだ警察の対応をしてくれていたらしかった。
長居する意味もないので、畳に寝かせてくれた事を感謝して、清花と一緒に登校する事にした。