第5話|婚約未定、それが何か?──近衛の午後
任務を終えた近衛たちの控室。
油断した一言が場を凍らせ、静かに語られる“空白の意味”。
王太子の視線が向けられる先を、彼らは見てはいけない。けれど、知っている。
それが“最も強い圧”であることを──。
昼下がりの訓練場。
日差しはあたたかく、
風はまだ春の冷たさを含んでいる。
そんな中、数人の近衛騎士が槍の手入れを終え、
控室で遅めの茶を囲んでいた。
訓練も任務も一段落。
話題は、やはり、あの件に尽きる。
「…… で、結局、“あの方”の婚約話って、
今回も流れたってことで?」
「おいおい、声がでかい。
誰の“あの方”か分かってるのか、ヴェイル」
若手の騎士が眉をひそめて釘を刺すと、ヴェイルと呼ばれた男は肩をすくめた。
「わかってるさ。
だけどさすがに疑問に思わないか?
もう二十代半ばだぞ、殿下」
「── 下手に口を滑らせたら、首が飛ぶぞ」
茶を啜っていた年長の騎士が、静かにそう言った。
一瞬で、空気が冷える。
「悪い。そこまで深い意味は ──」
「わかってる。だが、軽口で済む話じゃない」
銀髪の王太子。
完璧な王の器と称えられながら、
政略結婚の噂が一度として決まらない。
では、なぜ。
「三人の伯母君 ── すでに周辺三国へ嫁いでいる。
北の軍事国家リュクリューヌ王国には“氷の王妃”。
東の宗教国オルレアには“祈りの蛇”。
西のヴェリシア海商同盟には、“海に咲く梔子”だ。
…… それ以上の政略など、もはや意味をなさない」
「ってことは …… もう“同盟”は足りてるってことか」
「そう。殿下に政略結婚は不要。
だが、“婚約者がいない”という事実が、逆に重いんだ」
若手たちは言葉を失った。
ただ“未定”なだけではない。
選べないのではなく、
選ばない。
選べない理由があるのではなく、
選ぶ気がない。
── それが、殿下。
「それに、一度だけ“候補”がいた。
けれど …… その方は、“逃げた”そうだ」
「逃げた ……? まさか ……」
「違う。王女殿下ではない。
五大家の一人の令嬢。
いまはその話も封印されている」
話を聞いていたヴェイルが、ぽつりと呟いた。
「…… だったら、いっそ王女殿下が相手の方が、まだ ……」
ぽつりと漏れたその言葉に、誰もが反応した。
空気が凍りつく前に、ふたりの騎士が、そっと目を伏せる。
「言うなよ。わかるけど ……
言うな」
「“あの方”がああなるのは ──
あの時だけ、だからな」
その瞬間、場が凍りついた。
全員が息を呑み、次の言葉を飲み込む。
「二度と言うな」
低い声が、控室に響いた。
先ほどまで穏やかだった年長騎士が、
鋭い眼差しを向けている。
「…… “それだけは許されぬ”と、殿下は仰った。
口にするだけで、粛清の対象になる。
…… そういう話だ」
ヴェイルが青ざめて黙る。
だが、誰も彼を責めなかった。
代わりに、ひとりがそっと言葉を継ぐ。
「だってさ ……
殿下、王女殿下にだけは、優しいものな。
でも ── どう見ても違う。
執着だよ。
まるで ……」
── 檻だ。
誰かが呟く。
誰も、それを否定しなかった。
婚約未定。
それが何か?
そう言わんばかりに睨みをきかせ、
沈黙を貫く王太子。
それが、最も強い“圧”であると、
近衛の誰もが知っていた。