第3話|王太子殿下の婚約欄が、今日も空白な件について
婚約候補一覧──そこに残されるのは、いつも見慣れた“斜線”ばかり。
末端文官たちの記録の中にも、“消された跡”は確かに残っている。
知っていて、知らないふりをする。それが王宮の鉄則だ。
「──で、本日の進捗報告は?」
書類の山に埋もれながら、庶務課第四記録室の主任代理・エグバートは、湯気の立つマグカップを片手にぼそりと尋ねた。
「おおむね問題ありません。ただし、例の件を除いては」
まっすぐ返すのは、今年度採用の新人文官・フィネアス。
まだ襟の折り目も固い制服姿で、きっちりと書類を差し出した。
「例の件、ねぇ」
エグバートは書類を受け取り、一枚一枚めくっていく。
査定状況、提出数、婚約進捗──そして、王族関係。
「……空欄だな」
「ええ。王太子殿下の婚約欄、今月も記載なしです」
無表情でそう言ったフィネアスだが、どこか不服そうだ。
「というか、候補一覧のページ……これ、全部斜線が引かれてるじゃないですか」
「あー、それな」
エグバートが面倒くさそうに頭をかいた。
「前任の人、全部通したんだけどな。五人とも“事情により見送り”だってよ」
「その“事情”って、記録に?」
「残ってるわけないだろ。“察せ”って付箋が貼ってあった」
「付箋……」
「しかも、手書きでな」
「筆跡、見覚えありますか?」
「あるに決まってるだろ。
王宮の“察せ”系文書で筆跡なんて一人しかいない」
「……王太子殿下」
「言うな言うな、命が惜しければな」
エグバートが慌てて窓のカーテンを引く。
「で、斜線は王宮直轄の訂正命令。
候補の欄は“現在空白、追記予定なし”で確定した」
「それって……殿下の婚約、未定のままってことですか?」
「ま、そのうち何かあるかもなー。いや、ないかもなー」
「……まさか、“永久欠番”だったりして」
「口が軽いぞ新人。うちは粛清ラインぎりぎりを歩いてるんだ」
冗談めかしてエグバートが笑うが、その目は笑っていなかった。
「でも、本気で理由はわからないんですか?」
「知らん。知ってたら黙ってる。
王宮の事情なんて、我々末端文官が知っていいことは何ひとつない」
「そもそも……王太子殿下って、何考えてるのか分からないですよね」
「それでいいんだよ。“考えているように見えない”が一番怖いんだから」
「怖いって……殿下、そんなに?」
「歩く粛清ってあだ名、知らんのか?」
「えっ、あれって冗談じゃ……」
「冗談だと思いたいなら、そう思っておけ」
窓の外を見ながら、エグバートがぽつりとこぼした。
「ただまあ……あの“空欄”が、あそこにずっとあるのは……
不思議でも、異常でも、ないらしい」
「誰にとっても?」
「さあな。少なくとも、我々にとっては、それが“平常運転”ってやつさ」
フィネアスは無言で書類を整えた。
「……提出、どうしますか?」
「午後の便で出しとけ。どうせ差し戻されるけどな」
「じゃあ、意味ないのでは?」
「あるさ。『提出した』という記録が残る」
「どこにですか?」
「この記録室の片隅と、粛清されるまではこの机の引き出しにな」
そう言って、エグバートはマグを持ち上げた。
湯気の向こう、提出トレイには“空欄”のままの進捗報告書。
「──我々はただ、今日も提出し、そっと差し戻されるだけである」