第1話 |どうして、お兄様には“婚約話”がないのですか?
王女アリシアがふと零した、ささやかな問い。
それは、王太子エドワルドの静かな微笑の奥に潜む“空白”を揺さぶるものだった。
誰よりも近くにいて、誰よりもその執着を知る妹の目に映る“沈黙”とは──。
──翠月の風が庭を撫でる昼下がり。
王宮の中庭、春の陽射しのもと。
白いベンチに並んで座る兄妹は、まるで絵画のようだった。
「お兄様……ひとつ、お訊ねしてもよろしいでしょうか?」
隣で静かに紅茶を啜っていた兄──王太子エドワルドは、
カップを置いてアリシアに目を向けた。
「どうぞ」
「……どうして、お兄様には“婚約話”が出ないのですか?」
その問いに、兄の指がふと止まる。
けれど、すぐに微笑が浮かんだ。
「近隣に、ふさわしい相手がいないからだ」
「……それは、ご冗談ですわよね?」
アリシアは首を傾げる。
「だって、周辺の王国には立派なお姫様方が──」
「それぞれ、伯母上たちが嫁いでいる国だ」
兄の声は、穏やかにして静かだった。
「北の大国には、父上の一番上の姉上が。
海運と交易の要衝には、二番目の姉上が。
宗教国家には、三番目の姉上が」
「すでに三方すべて、王家の血筋と同盟を結んでいる」
「……なるほど」
「つまり、今さら王太子が新たな縁組をする必要は、
外交上どこにもないのだよ」
「でも……それなら、国内の方は?」
兄は微かに笑った。
「一人、条件を満たす令嬢はいたのだが──逃げられたよ」
「逃げられ……っ」
アリシアは唖然とする。
けれど、兄の表情はどこまでも穏やかだった。
「形式上は“候補がいた”ということになっている。
だが今は、誰もいない。それだけだ」
「でも、それでも……王太子殿下でいらっしゃいますのに」
アリシアはぽつりと言った。
「“ふさわしい姫君”など、いくらでもいらっしゃいますわ」
それは、王族としての兄を立てる言葉だった。
けれど、兄の笑みは崩れない。
「“妹を見つめてばかりの男”に、
誰が娘を預けたがる?」
「……お兄様」
アリシアの声が小さくなる。
「お兄様は、いつも、冗談がお上手ですわね」
「冗談ではないよ」
兄は静かに立ち上がり、春の花が咲く庭園の小径を歩き始めた。
アリシアも、その後をそっと追う。
沈黙が、二人の間にしばし流れる。
「そもそも、私は“婚姻”を必要としていないのかもしれない」
「……どうして、そう思われるのですか?」
「必要かどうかは、私自身が決めることだ」
その言葉に、アリシアは立ち止まった。
兄は背を向けたまま、風に髪を揺らしていた。
その姿はどこまでも優雅で、どこまでも冷静で。
けれど──
(……たぶん、“いない”のではなく、
“見ないふりをしている”のですわね)
アリシアは胸の中で、そう思った。
兄は、決して怒らず、決して求めず、ただ静かに見つめる。
けれどその視線は、時に炎よりも熱く、剣よりも鋭い。
──誰にも気づかれないように。
──誰にも悟られないように。
けれど、アリシアにはわかる。
兄の優しすぎる微笑の裏に、どれほどの“執着”が秘められているのか。
それを、誰よりも知っているのは──他ならぬ、妹である自分なのだから。