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駅弁大学のヰタ・セクスアリス  作者: 深海くじら
第1章 中嶋弥生
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第8話 今日が休みで、ホントに良かった。

 土曜の夜、心が昂っていた逸郎は寝付けなかった。理由はわかっている。数時間前の弥生の顔が頭から離れないのだ。


「いつかそのうちイツロー先輩の部屋に行って、お奨めしてくれる映画をふたりだけで観てみたい……」


――弥生はあのときそう言った。あれはいったいどういう意味があるんだろう?

 単なる言葉通りか?

 弥生の性格で考えれば、たぶんそれが正解だ。でも本当にそうなのか?

 あの、箱に入れて綺麗に包装してリボンまで掛けたような純粋培養の娘が、あの瞬間だけ、奥に潜む何かを覗かせてくれたってことは有り得ないのか?


 そんなことを悩みだした逸郎の頭の中は、昼間見た弥生のしぐさや表情、言葉で一杯になっていた。

 スクリーンの反射光にほんのりと照らされたボブカットの横顔。物語と同調(シンクロ)して潤む瞳。お仕着せの不自然さなどまったく感じられなかった蓮華を拭う仕草。赤いスープを口に入れると同時に開いた瞳孔。ドーナツを切る手つき。不本意な見立てをされたと言って膨らました頬。カバーを掛けなおすときの丁寧な指遣い。集中して話を聞いているときに微妙に閉じたり開いたりを繰り返す小さな鼻孔。お釣りを手渡す際に一瞬だけ触れた指先と明らかに赤くなった耳の先。自分の中の何かに抱く諦めと、それを克服したいと願う外向きの心。


――このままでは眠れない。


 そう思った逸郎は寝る努力を放棄して、布団から立ち上がった。明かりをつけ、居間のストーブ(アラジン)を点火し、いま観るべき映画を探しはじめる。


          *


 三本目の映画を観終えたときには、外はすっかり明るくなっていた。

 ストーブを消し、トレイから取り出した『ローマの休日』の円盤をケースに仕舞い、テーブルの上に残っている二枚のケース、『小さな恋のメロディ』『翔んだカップル』とともに所定の位置に収めた逸郎は、ようやく自分の中を覆っていたもやもやの形を捉え、理解した。


――俺は、弥生の中に(ほの)見えるアンビヴァレンツな魅力に、既に取り込まれている。

 俺はたぶん、中嶋弥生のことが好きなんだ。


 ひと晩掛けてやっと答えに辿り着いた逸郎は、急激な眠気に襲われる。


「今日が休みで、ホントに良かった」


 布団に入り、そう口にした数瞬後には、逸郎は深い眠りに落ちていた。


          *


 日曜の夕方、逸郎はシンスケの声で目が覚めた。


「なんだよ。ちゃんと居るじゃねぇか。電話しても出ないから、出掛けてるのかと思ったぜ。ま、いなかったとしても勝手に上がり込むつもりだったけどな」


 紙袋を下げたシンスケが、勝手知ったる足取りで台所に戻り、手荷物を仕分けしながら冷凍庫の中に仕舞っている。


 スウェット姿のままのそのそと起きだした逸郎が、何してんだ、と尋ねると、シンスケは包みの一つを見せつけながら、ひと言で返してきた。


「肉食うぞ」


 パウチ包装された包みのラベルには『ラムジンギスカン』と大書されている。


「今朝実家から送られてきたんだけど、こんなん見つかったら寮の連中に根こそぎ食われっちまうだろ。お前んとこで預かってて貰おうと思ってな。心配すんな。半分は食わしてやるから。野菜はお前持ちだけど」


 この家にはジンギスカン鍋もねぇのか、などと無茶を言いながら、シンスケは勝手に野菜を物色している。


「キャベツももやしもピーマンも置いてあるとはなかなか優秀じゃないか。お、人参もあるじゃん。あと足りないのは酒だけだな」


 そう言って、シンスケは逸郎の目の前に手のひらを突き出してきた。


「千円出せ。ビール買ってくる。その間に顔洗って準備しといてくれ。なんなら飯も炊いといてもらえると助かる」



 本場北海道直送のジンギスカンは文句なく旨かった。ひとりで野菜の下拵えをしていたときは悪態をついていた逸郎だったが、散々飲み食いし腹いっぱいになったいまは現金にも、良い友だちを持ったと感じてさえいた。肉の力はやはり偉大だ。

 新しいロング缶を取りに行こうとするシンスケを制して、逸郎は寝室の四畳半からショットグラス二個と箱入りのウイスキーを持ってきた。


「せっかく()い肉ご馳走してもらったし、この前の十三日もなんにもしてやらなかったから、今日はこいつを開けてやる。ザ・マッカランの十二年だ。一週間ちょい遅くなったけど、誕生日おめでとう。オトナの世界にようこそ。やっと大手を振って酒が飲めるな。って、寮では去年からずっと飲んでるか」


 ウェイターズナイフで封を切ってスコッチを傾ける。口開け特有のコポコポという心地よい音とともに、水よりも粘度の高い琥珀色の液体がショットグラスを満たしていく。逸郎はこのときに香り立つオーク臭が好きだ。


「さすが、バーテンやってるだけのことはあるな。おまえのバイト先、杜陸(もりおか)でも老舗なんだろ」


 ストレートで喉を焼くウイスキーに顔をしかめながら、シンスケは聞いてくる。


「見た目ほど旧いわけでもないらしいんだけど、店長のシングルモルト愛はホンモノだよ」


          *


「ところでイツロー。明日なんだけど、お前、午前中は朝イチの英語Ⅰの再履修(さいり)だけだよな」


 二杯目からはハイボールに切り変えたシンスケが、おそらく四杯目のグラスを空けながら確認してきた。

 大きなお世話だ、と返してチェイサーを口に含む逸郎に、シンスケはにやついた赤ら顔で話を持ち掛ける。


「英語のあと、俺の仮面受講に付き合わない? 発達心理学なんだけどさ」


「なにそれ。前向きな大学生みたいじゃん。シンスケ、キャラ変えるのか?」


「や、そうじゃなくて。ちょっと気になる噂聞いてさ。なんでもその講義の先生、すっげぇ美人なんだってよ。黒髪ロングにスーツ姿の眼鏡っ子らしくて」


「眼鏡っ子って。お前さ、大学の先生ならもういい加減おばさんだろ? 俺、年増には興味ないよ」


「それがまだ二十代なんだって。海外の大学で飛び級してきたとかって話で。なんかこうワクワクしね? 眼鏡っ子美人教師とかさ。もっと厳しく叱って~、みたいな」


 シンスケはオタク入ってるから変態にもアジャストできるんだな、と逸郎は妙な感心をしている。


「どうせお前も暇なんだから、いっぺん拝みに行っとこうぜ」


――ま、暇つぶしと考えれば別にいいか。


 逸郎は酔いでうまく回らなくなってきた頭で、その提案を了承する。だが逸郎からすれば、そのあとの昼休みの方が百万倍も重要なのだ。


――その時間、弥生はきっと、綺麗にカバーを掛けたラノベ二冊を持って、俺に会いに来る。

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