第86話 また大学で会おう。
「弥生は宮沢賢治記念館に行ったこと、ある?」
弥生が用意した前夜の豚汁とご飯と納豆という健康的な朝餉の最中に、逸郎はそう尋ねてみた。唐突な質問だったが、とくにいぶかしむでもなく弥生は首を横に振る。
「じゃあさ、行ってみないか、ふたりで。原町田との待ち合わせの前に」
待ち合わせは午後一時だが、長く部屋にいておかしな雰囲気になっても困る。この際早めに出て現地で時間をつぶそう。そう考えた逸郎の浅知恵だったが、ふたりでという部分に反応したのか、弥生は顔をほころばせて快諾した。
「そうと決まれば、さっそく準備しなきゃ」
板の間に座り込んだ逸郎がバイクの荷物を帰ってきたときと同じになるよう詰め直していると、やはり一昨日のTシャツとデニムパンツに着替えた弥生が、ディパックを持って近づいてきた。
「これ、お返しします」
逸郎はパッキングする手を止めて振り返った。彼女の背後に置かれているのは、昨日の買い物の際に手に入れた一枚五円のポリ袋だった。どうやらそれに自分の小物を詰め替えたらしい。
「別に急いで返さなくても。なんならそのまま持って帰ってもらったっていいし……」
そんな逸郎の返事を遮るように、弥生は鋭く言い放った。
「それはダメ!」
困惑する逸郎の横にすとんと膝をついた弥生は、脇に置いたディパックに手を掛けたまま、強い言葉で畳み掛けてきた。
「いいですかイツローさん。私たちはもうずっと、何ヶ月も会ってないんですよ。もちろん、今日も昨日も一昨日も。そんな私が、どうしてイツローさんのトレードマークみたいなリュックを持ってたりするんですか?」
他人行儀にそうまくしたてた弥生は一拍置くかのように押し黙り、それから横に置いたディパックを再び持ち上げて、抱きしめるように胸にあてた。
「そりゃ、欲しいに決まってます。イツローさんのものならなんでも。でも、そんなの駄目なんです。イツローさんは、イツローさんの日常のどのひとつも、私に分け与えたりしちゃいけないんです。そうじゃないと……」
そうじゃないと、無傷のイツローさんを恋人さんに返せない。そう告げる弥生の声は、蝉の声に紛れて消えてしまいそうだった。
*
駅前のレストハウスで食後のコーヒーを飲んでいると、向かいの階段をのぼってくる人影が見えてきた。待ち人、原町田由香里だ。大きめのボストンバッグを抱え、不機嫌そうな顔をしている。と、此方を見つけ、ずかずかと真っ直ぐに近づいてきた。
ほら、やっぱりむくれてる。そうつぶやいて苦笑いする逸郎。振り向いた弥生も悪戯っぽい笑顔を見せていた。
「ふたりしてなに笑ってるんですか、ほんとにもう。こちとら一昨日キエフを発ってから移動のしっぱなしなんですから。なのになんで新花巻?! こんななんっにもない駅で好き好んで待ち合わせしなきゃなんないんですか。イジメ? それともなんちゃって系のTV企画?」
「いや、弥生が賢治記念館行ったことないっていうから」
「はぁ?! 家飛び出してお金持たずにネットカフェ行ってた娘が賢治記念館? よりによって。もう、ワケわかりませんね」
欧米人のように両手を広げた由香里は、心底からのあきれ顔でそう返した。
「その節はごめん。ホントごめんね、ゆかりん。おかげで助かったよ。帰ったらマッサージしてあげるから許して」
マッサージと聞いた由香里は、大袈裟にため息をついた。
「はいはい、わかりました。ほんに手の掛かるまーやがこんな元気な顔して言うんだから、手を打ちましょ、マッサージで。その代わり、三十分はしっかりやってもらいますからね」
「ひゃあ。三十分は厳しすぎるよゆかりん。せめて五分に」
「あり得ない! 三十分をまけて五分とか。交渉のこの字もないですね、この娘は」
「そんなことより、ゆかりんもなんか注文してあげて。向こうで店員さんが、入るタイミング無くて困った顔してるから」
メニューを広げながら逸郎が促した。
「おふたりは何食べたんですか?」
「俺はかつ丼セットで」
「私はひっつみ」
「なんですか、その仲良しさんみたいな台詞かぶせは。口惜しいからあたしもまーやと同じひっつみにします」
ふたりの顔を交互に睨みつけた由香里は引率者の口調でそう言い返し、そのままの流れで店員にも声を掛けた。
*
「はるばるウクライナから空の旅、お疲れさま。おかえり、ゆかりん」
「おかえりなさい、ゆかりん」
「はいはい、ただいま帰りました」
ようやく労いの言葉をかけてきた逸郎と弥生に対しおざなりの返事で応じた由香里は、ボストンバッグから紙包みを取り出した。弥生と逸郎の前にひとつずつ置く。
「はい、お土産。キエフ名物マトリョーシカ人形。ありがたく受け取っちゃってください」
「キエフってあれだよな。展覧会の絵に出てきた……」
「お。物知らずのイツローさんにしてはよくご存じですね。そうです。ムソルグスキー作曲の組曲『展覧会の絵』の最後を飾る十番『キエフの大門』のキエフです。テーマになった門は、向こうでは黄金の門と言われてます。もちろんですが、行ってきました。ていうか、あたしの土産話は今はどうでもいいんです。そっちの方はまた日を改めて、人を集めてちゃんとやりますから。それよりも、です。さっきからの感じを見るに、どうやら少しは気持ちが落ち着いたんですね、まーやは」
一息にそこまで喋ってから、由香里はひっつみのひとつ目に箸をつけた。
「うん。イツローさんに助けてもらって、お散歩したりお話聞いてもらったりしたら落ち着いた。まぁ、事態はなんにも変わってないんだけどね」
ひっつみが熱かったのか、はふはふと口を開け閉めしてようやく咀嚼し終えた由香里は、グラスの水をひと息あおってからふたりに顔を向けた。
「そりゃそうです。どっちにしたって覆水は盆に返ってきたりしませんから。要は気の持ちようです。少なくとも今のまーやは、あたしが旅行に出かける前と全然雰囲気が変わってる。とても良い方向に。正直まったく期待していなかったイツロー先輩は、殊の外いい仕事をしてくれたようですね。びっくりです。いや本当に感謝します。ありがとうございました」
箸を置いて居住まいを正した由香里は、逸郎に向かって深々とお辞儀をしてみせた。見たことの無い由香里のそんな態度は、逸郎をかえって狼狽えさせる。
「いや。マジでたいしたことはしてない。てか、それもこれもほぼほぼ全部、今までのゆかりんのおかげだから」
「そうだよ。ゆかりんがいなかったら、私生きてこれてなかったよ」
頭を上げた由香里は、そんなの当然といわんばかりの済まし顔でにやりと笑うと、何事もなかったかのように食事を再開した。
*
「で、おふたりはこれからどうするんですか? 賢治記念館におデートでも行かれるんですか」
緑茶の湯飲みをテーブルに戻した由香里は、主に逸郎に向かってそう尋ねた。
「いや、記念館は午前中に行ってきた。俺はこのあとアリバイを作りに出掛けなきゃいけない。だからゆかりんには、弥生を一緒に連れて帰るのをお願いしたいんだ」
「アリバイとはまた不穏な響きですね。嫌ですよ。犯罪の片棒は」
「別に犯罪とか、そんな怪しい話じゃない。ほら、俺、予定を早めて帰ってきただろ。元々の帰ってくる予定日は今夜なんだよ。昨日一昨日は杜陸にはいなかったことになってんの。だから それに合わせて、ちょっと南方向に戻らなきゃいけないんだよね」
由香里に説明しながら、逸郎は、同じ話の別側面を考えていた。
すみれからの連絡が未だ届いていない。朝方送った再確認のメッセージにも既読は付いていなかった。そんなこんなでもう午後二時過ぎ。
――仕事疲れと前夜の飲みすぎでまだ寝てるってだけなら、別にいいんだが。
「なるほど。バイクのお仲間とのミーティングですか。それで新花巻なんですね」
逸郎の説明を由香里はそう引き取る。逸郎は無言で頷いた。
「そういうことなら致し方ありませんね。承りました。今夜のまーやは我が家で引き取ります。アマゾネスに戻るのは明日以降にしましょう。とはいえ気になることもあるから、明日はあたしと一緒に行こうね、まーや」
「お世話になります」
弥生は殊勝に頭を下げた。
「いいの。今夜うちの両親に捕まったら、たぶん寝かせてもらえないから。土産話の大嵐を覚悟しといてね」
そう言って由香里は悪役の笑い顔を見せた。
*
弥生がトイレで席を離れたのを見計らって、由香里が逸郎に声を掛けてきた。
「今回は本当にお世話になりました。というか、イツロー先輩はいったいどんな魔法を使ったんですか? この二カ月間、あんなに普通で明るいまーやをあたしは見たことありません」
息継ぎひとつはさんで、由香里は話を続ける。
「このあたしがキッチリ二カ月かけてできなかったことを、イツロー先輩がたった二日でやってのけられるとは。正直無力感で一杯ですよ。まーやが自分から話す気になってくれたらという条件付きですけど、その辺のことはおいおい彼女自身から聞ければいいかとは思います。今はとにかく、ホントの本当に心からお礼を言います。有難うございました」
――マジで真剣に、この娘は弥生のことを心配してるんだ。
あらためて逸郎は、由香里を見直した。自分はもうこれ以上のことはできないが、この娘が隣にいてくれるなら、弥生はきっと立ち直るだろう、と。
「私が見てないとこでなにいい雰囲気になってるの? もしかしてイツローさんとゆかりんって、仲良しさんなの?」
戻ってきた弥生が冷やかしてきた。逸郎も由香里も笑った。
――こんな軽口もたたけるようになったのか。
この平和がずっと続けばいいのに、と逸郎は思った。
*
改札での別れ際、逸郎は弥生にヘルメットを渡した。
「これは弥生にあげるよ。原付用だからそんなに丈夫ではないんだけど、もしもバイクの後ろに乗らなきゃいけなくなったら、これを使うといい。必要なくなったなら捨てちゃってもいいし」
手にしたヘルメットをじっと見つめた弥生は、すい、と顔を上げて応えた。
「私のために横浜から持ってきてくれたんですよね、これ。有難くいただきます。私、ずっと大事にします。そしてまたいつかイツローさんの後ろ、乗せてください」
改札の外側で、逸郎は柵に手を掛けてふたりを見送っていた。前を歩く由香里と少し遅れてついていく弥生。
先にホームに上がっちゃうよ、と声を掛ける由香里が上りのエスカレーターに乗った。振り向いて手を振っている。逸郎も振り返して応えた。
由香里の後を追っていた弥生は、思いついたかのようにエスカレーターの手前で立ち止まり、それから踵を返し、走って戻ってきた。
息を弾ませた弥生はひとつ深呼吸をしてから、柵を挟んで向かい合う逸郎の手に自分の手を乗せた。真っ直ぐに逸郎の目を捉える。
「イツローさんが忘れても、私、昨夜の夢は一生忘れません」
射抜くような弥生の瞳に、影が灼きついた心を見透かされないよう祈りながら、逸郎はただ黙ってその言葉を受け止めた。
行きます、と言い残した弥生は、古い映画のヒロインのように美しくターンしてみせた。
胸を張って歩き去る後ろ姿に向かって、逸郎が声を掛ける。
「元気で。そして、また大学で会おう」




