第85話 どうせ夢の中なんだから。
状況は、すでに共同作業となっていた。
一方による奉仕(もしくは搾取)などではない、能動と受動が適宜に入れ替わるフォアプレイ。
「イツローさん、気持ち、い?」
吐息交じりの弥生がか細い声で逸郎に尋ねる。
対する逸郎は言葉を出すのももどかしく、もはや頷くことしかできない。目の前を行きつ戻りつするTシャツ越しのふくらみをなんとかして口で捕らえんとする以外、なにも考えられない。そんな様子で。
「直にキスしたいのね。いいよ。待ってて」
そう言って、弥生はTシャツを脱ぎ捨てた。
逸郎の眼の前に、直に見たい、触りたいと渇望していた弥生の裸身が据えられた。
「さ、召し上がれ」
部屋全体が淫靡な匂いで満たされていくなか、ふたりの深度は後戻り可能な閾を遙かに超えていた。もはや行き着く先は海の底まで。
*
いったん居室に顔を出した逸郎は、テーブルに置きっぱなしのスマホを掴むともう一度台所に戻った。横目でちら見した四畳半では、とくに動いた様子は無かった。
表示時間は05:21。
――まだ早い時間なのに、もうこんなに明るいのか。
ヒョーピ、ヒョーピ、ピピピピピ……
――番同士が呼び合うときの鳴き声。たしかクロツグミ、だったっけ。
唐突に耳に飛び込んできた鳥のさえずりに注意を奪われた逸郎だったが、スマホを手にしていたのを思い出し、アプリの着信を確かめはじめた。
由香里からメッセージが新着のいちばん上にあがっていた。タイムスタンプは昨夜十一時半。成田のホテルからで、今日の待ち合わせについての伝言が書かれていた。昼過ぎには杜陸に着くけれど、希望があったら善処する、とあったので、注文を入れておく。
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待ち合わせ、できれば新花巻駅あたりにしてもらえると助かるんだが。
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――あの辺りからなら一関まで二時間もあれば着けるはず。であればこっちも余裕ができる。それに、新花巻なら早めに行って時間つぶすネタもあるし。
一方ですみれからの連絡は、昨日の夕方に見たもうじき仕事が終わるというメッセージが最後だった。帰ったら送ると言っていた追加の方は届いていない。彼女にしては珍しい、と思ったが、藤井先生の研究室メンバーと飲みに行くみたいなことを書いていたから、おそらく飲み過ぎて忘れたのだろう、と見当をつけた。
――念のため、リマインドを一本送っておこう。
横浜のいまの天気をネットで調べて所要時間を概算してから、逸郎はすみれ宛のメッセージをしたためた。
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おはよう!
こっちは快晴。道中も問題無さそう。
もう少ししたら発つつもり。
でも急ぎ過ぎないように安全第一で行くから、すみれも焦って転んだりしないように。
十七時くらいには到着すると思うけど、時間厳守じゃないから安心してゆっくりおいで。
すみれが着くまでコーヒー飲んで待ってるし、もしも逆だったらすみれが待ってて。
待ち合わせ場所は打ち合わせ通り、一関のベイシーで。
落ち着いたジャズ喫茶だって評判だから、たぶん何時間だって待ってられるよ。
だからお互い、ご安全に!
逸郎
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アリバイを仕込んだメッセージの送信ボタンを押すのと同時に、逸郎は堰を切ったように思考の暗渠に落ち込んだ。
――あそこで押し留めることができてたら、ここまで裏切ることにはならなかったのに……。
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二度目の暴発が目前になったところで動きを止めた弥生は、立ち上がって逸郎の手を取った。
「お布団に行こ。ここじゃ座椅子が壊れちゃう」
そう言いながら手を引いて奥の部屋へと誘う弥生に、逸郎は抗ったりしなかった。
――もう少しだったのに、というリビドーがあったのは認める。でもそれは、あのまま続けた理由の中では取るに足らないものだった。一番の理由は……。
座椅子にもたれての疑似交接の間じゅう、押し寄せる感覚の瞬きに意識のリソースを削られながらも、逸郎はずっと考えていた。
これからの弥生が背負うであろう消せない過去。それを踏まえた上での弥生の望ましい未来像。過去の瑕をことごとく上書きしてくれたすみれ。愛してくれますかと尋ねるすみれ。それに頷いた自分。満ち足りたすみれとの交歓。本来あるべきだったはずの自分の予定。明日しなければいけないこと。目の前にある弥生の潤んだ瞳、そして、自分の弥生への残心。
いま、自分はどうすべきなのか。どうすれば弥生を救ってやれるのか。
――俺は、いったいどこまでを弥生に与えてあげられるのだろうか。
答えは、出なかった。
確たる答えを見出せなかった逸郎は、もっとも手近で、かつ直截的な言い訳で逃げを打ってしまった。
「駄目だよ、弥生。俺、持ってないし」
そのひとことが、すべての考えを無効にさせるキッカケとなった。
妖艶な魔性の貌を瞬時に悪戯好きの少女に変えた弥生が、これなーんだ、と謎掛けしてきた。少女が手にしていたのは小数点の数字が表書きされた小箱だった。
「昨日のコンビニで、下着と一緒に買ってきちゃった。そうなったとき、きっとイツローさんは気にするだろうなって思って」
封を切ったその箱から小分けされた一枚を取り出し、口元に持ってきた弥生は、準備完了、とおどけてみせた。
「さ。いくね」
――そう。あのとき俺は、最悪の理由を持ち出してしまった。すみれを大切にするという大前提も、弥生を救いたいという強い望みもすべてチャラにして、ただ準備が無い、という状況だけを成否の分かれ道に置いてしまったんだ。
天秤は片側の皿を地面にベタ付きさせた。もはや留まる理由は無い。
すべての思考を投げ出した逸郎の耳元に、弥生は優しい魔法の言葉を告げたのだった。
「今夜のことは、きっと夢。私がそうなりたかった夢とイツローさんがしたいと思っていた夢を、ふたり一緒に見てるだけ。明日の朝になったら全部忘れちゃってる。だから目が覚めてしまう前までは、もう少し夢を見ていましょ」
*
窓の外はすっかり明るくなっていた。
開きっぱなしになっていたメッセージ画面に返信が入ってきた跡は無かった。
スマホの画面を閉じて振り返ると、Tシャツを被った弥生が立っていた。突然の登場で声を失っている逸郎に向かって、弥生は無理につくったような笑顔でおはようの挨拶をした。
「いなくなっちゃったか、って思って哀しくなってました」
そのまま二歩でぶつかってきた弥生の身体を逸郎は受け止める。布一枚だけ挟んだ肌と肌の接触。背中に手を回して柔らかく抱きながら、逸郎は思っていた。
――俺はもう二度と弥生を抱かない。いや、弥生だけでなく、すみれを除いたほかの誰も。俺はもう二度と、こんな後悔はしたくない。
裸の胸に顔を押し当てた弥生が、心臓に直接語り掛けるように空気を震わせた。
「大丈夫ですよ、イツローさん。私、この部屋を出たらもう我儘を言わないから。これ以上イツローさんを困らせたりしない」
顔を上げ、仰ぎ見るように逸郎の視線を掴んだ瞳は、四月と同じ光を灯していた。
――いや、違う。この光は、あのころよりもきっと強い。
そんなふうに思う逸郎を、弥生は思いきり抱きしめてこう言った。
「イツローさん。私を愛してくれてありがとう。本物の夢を見させてくれてありがとう。そして、このあとは、ポニーテールさんを大事にしてあげて」




