第83話 でも、今は違うの。
スマートフォンを閉じた逸郎は、ついでにTVも消して、ふた口目のビールを呑んだ。最初のときの清涼感は、もう跡形も無かった。
「イツローさんの従妹の弥生は、これでお終い」
弥生の声は、消え入るようだった。
「明日になったらゆかりんが迎えに来るんですよね。私がここに居られるのは、もう今夜が最後……」
逸郎は、会ったことも無い十四歳のすみれの既視感を見た。
楽しかった時間は終わった。
しばらくの重い沈黙が続いた後、弥生は再び口を開いた。
「昨夜の続きをしてもいいですか。公衆便所のような私の躰と心の話」
逸郎は頷いた。そんな言い方をしないで欲しい。そう言いたい気持ちを無理やり押さえつけて。一切の忖度が無い弥生の話を聞いてあげられるのは、もう今夜しかないのだから。
弥生は話し始めた。斜に座る逸郎ではなく、真っすぐ前の窓の方、どこか虚空の一点に向かって。
「あの部屋で暮らしている間、私は可能な限り私の躰が望むことに従おうとしていました。逆に言えば、私の躰が欲しないことは、できる限り拒絶して」
その言葉に、逸郎は少なからず混乱した。
――していたことはすべて望んだこと? ということは、槍須とのセックスのみならず、その様子を撮影され、それらの動画を顔も見えない、どんな属性の人かもわからない不特定で数多くの視聴者に向けてばら撒かれることすら、望んでいたことだというのか?
逸郎の混乱をよそに、弥生の告解は続けられる。
「一番わかりやすい例で言えば、口ですること。あのフェラチオという行為に、私の躰は一切の価値を認めませんでした」
抑揚のない淡々とした語り口で、過去の弥生なら決して口にするはずもない単語を発話する。その痛々しい姿に、逸郎は泣きそうになっていた。
「槍須さんに口でしてって初めて言われたとき、それが自分の中にどのような快楽をもたらすのかわからなかったから命じられるままにやりました。でも、ぜんぜん気持ちよくなかった。それどころか、単に苦しいだけ。私の躰はその一度ですっかり懲りてしまった。あれは私が気持ちよくなるためのものじゃないって。だから、それ以降は請われても二度と受けませんでした」
表情を失い熱量も感じられない、昼間散歩したときの日向の子犬のような姿とは真逆の弥生を見るのは、辛さを通り越して苦行ですらあった。が、それでも目を逸らせてはいけない。逸郎は弥生と向かい合うことだけに全力を傾けた。たとえ彼女が自分を見ていなくても。
「幸いなことに、槍須さんは暴力的な人ではありませんでした。それと、あの人やあの人から私を借りたほかの人たち、街でわたしを拾った見ず知らずの人たちみんなが、口を揃えて随分と褒めてくれたのです。私のあそこはとても具合が良いって。おかげで私は彼らに、未経験だった最初の一回以降は一度たりとも奉仕することを無理強いされずに済みました」
「撮影されるのもそう。リアルの人に見られながらするのも温泉の一回で懲りました。あとはずっと、怖いからという理由で拒否して。でもカメラで撮られネットに乗せることについてはとくに嫌がりはしませんでした。そのときの映像を自分で観たり人に見られたりコメントされたりすることは、直接触られるのとは全く別種の刺激と快感を呼び覚ます。そのことを、私はかなり早い段階で知ってしまいました。だから深く考えることなく了承してしまったのです。デジタルタトゥーの意味も知らないまま」
「連れ去られて以降の何十回かの、もしかしたら百回すら超えるセックスのほぼ全ては、どういう場面であろうが誰が相手であろうがそんなことには関係なく、ただ私自身の躰が気持ちよくなることだけを求めたものだったんです」
逸郎は、弥生の眼が泳ぎ始めてるのに気づいた。虚空の一点に集中することで保っていた無表情に、揺らぎが生じてきた。そんな気がしたのだ。それが良い兆候なのか、それとも良くない方なのか、逸郎にはどちらとも判断がつかなかった。
――いや、どちらにしろ無表情よりも悪いことなんて、無い。
逸郎はそう信じることにした。
「セックスのことを英語で『メイクラブ』と呼ぶことがあるそうですね。でも私のセックスには『愛』なんてなかった。もしあったとしても、それは単なる『自己愛』。それ以外の要素なんてこれっぽっちも」
弥生の口調が明らかに変わってきた。表情もさっきまでの能面から、眉を寄せ口の端が歪む苦痛を示している。
――何か、殻を破ろうとしているんだな。頑張れ。がんばれ弥生。
逸郎は無意識にこぶしを握り締めていた。
「でも、今は違うの」
そう言うと弥生ははじめて首を傾げ、逸郎の顔と向き合った。
いつの間にか、弥生の瞳に精気が蘇っている。逸郎はそれを美しいと思った。
「今日、イツローさんの従妹になって、一緒に外に出ていろんな体験をしました。ボートに乗ったり、手を繋いで歩いたり、ふたりで同じ景色を観たり。ひとつひとつはとりたててなんということはない、ささやかな日常の切り取りに過ぎないできごと。だけどそれらひとつひとつがすべて、今まで体験した無数のセックスのどれよりも強く豊かに、私の心に快楽を与えてくれたの。充実とか安心とか慈しみとか、それだけじゃない、拙い私の表現では表し切れない何か素晴らしいものに満たされて」
弥生は、言葉を続けながら逸郎ににじり寄ってきた。
「私は今、思ってます。心の底からイツローさんに奉仕したい。あなたのものを、私の、躰の私なんかじゃない私自身の口で気持ちよくしてあげたいって」
息が荒い。弥生の片手はすでに逸郎の腿の上にある。
「私の愚かで恥ずかしい話をイツローさんに聞いてもらえれば、それで憑き物みたいなものがきっと落ちる。そう思ってた。でも、やっぱり足りないの」
呼吸のテンポに同期して前後する胸。Tシャツにふたつの突起が浮き上がって消えるのが繰り返される。逸郎の眼はその動きに釘付けになっている。まったく動けず、声すら出せなかった。
「イツローさん。お願い、私にあなたを愛させて」
そう言うなり、弥生は逸郎のスウェットと下着をまとめて指に掛け、一気に彼の股間を露出させた。きらきらと輝く瞳の弥生が愛おし気にそれを見つめ、顔を寄せてきた。




