第81話 お兄ちゃん、見たわね。
「お兄ちゃんは野菜取らなさ過ぎだから、今日は弥生が美味しいのをつくったげる」
長い散歩の後にスーパーに寄り、いったい何日居座るつもりかというくらい食材を買い込んだ弥生はそう言って腕まくりをしている。
「役作りはもういいから」
逸郎は居間に座り込んで笑いかけた。
弥生は台所でジャガイモと格闘しながら、このままでいいの! と叫び返す。
「それよりお兄ちゃんはお風呂の準備して!」
よっこらせと立ち上がり、弥生の後ろを通って風呂場に向かう逸郎。浴室に繋がる扉を開け、中に一歩踏み出したところで、後ろから叫び声が上がった。
「だめーっ! 入っちゃ!!」
静止の大声に振り返った逸郎だったが、その直前に視界の端で感じた違和感が気になり、もう一度顔を戻して浴室を眺めた。あーっという叫びが背後から聞こえたが、もう遅い。逸郎の視線は浴室の空間に浮かぶ一点に縫い取られていた。
レースの刺しゅうが施された白くて薄くてとても小さい装身具。
「お兄ちゃん、見たわね」
後ろを向くと、鬼の形相をした弥生が包丁を片手に仁王立ちしていた。
「昨日あれほど見ないでってお願いしたのに」
「ごめん。すっかり忘れてた。てか、見てない。ほとんど見てない。いやホント」
逸郎はとにかく弁解した。まさか干してたパンツ見たからって刺されることは無いよな。
予想以上に震え上がる逸郎を見て、弥生も自分の右手に握っているものに気が付いた。あわてて手を下した弥生は、まな板の上に包丁を置くと取り繕うように腕を組んで、そっぽを向きながら言った。
「まぁ、私にも取り込み忘れたって責任はあるし、お兄ちゃんも見なかったって言うんだから、これはなかったことにしといたげる。特別なんだからね! これからはくれぐれも気を付けるように。弥生、年頃の乙女なんだから」
――収まってくれたのは助かった。最後の一言は、役に合わせての無理やり感もあったけど。
ひと息をつく逸郎の横をすり抜けて浴室に入った弥生は、さっと下着を外すとデニムのポケットに押し込んだ。
「もう大丈夫だから、お風呂お願いね」
恥ずかしそうにそれだけ言った弥生は、ハンガーを掴んだまま背中を向けて料理の仕込みに戻っていった。髪の隙間から覗く耳の先がワンポイントのように紅くなっていた。
*
湯が溜まるのを待つ間、居間に戻った逸郎はスマートフォンのチェックをした。弥生は根菜を煮る鍋を見ながら、別の仕込みをしている。
すみれからのメッセージが届いていた。いつもの定時より少し早い。嫌な予感がしたが、悪い想像をしていてもしょうがないので、とりあえず開く。
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ふにゃ~。
追い込みの土日出勤でおつかれさまのすみれだよ。
そっちのご親戚の会はまだ続いてるのかな。
くれぐれもだけど、飲み過ぎないようにね。
イツローはすみれちゃんより弱いんだから。
私の方は、あとちょっとで資料作りがひと段落つきそう。
明日明後日に代休取れるよう、すみれちゃんがんばったよ(`・ω・´)ゞ
今日は終わったら、藤井先生の音頭でみんなでご飯食べに行くんだって。
ご飯とか言ってるけど、きっと居酒屋になりそう(*>∀<)o(酒)
おうち着いたらメッセするけど、遅くなるかもしれないから気にしないでね?
イツローも、明日のために早く寝るように。
道中のお天気はお祈りしとくから。
じゃ、明日ね!
?すみれ?
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取り越し苦労だった。逸郎は安心し、無難な作文のメッセージをリプライしておく。今宵は間違っても外には出られない、と思いながら。
台所から弥生の声がかかった。
「こっちはだいたい準備終わったから、お兄ちゃん、先にお風呂入っちゃって」




