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駅弁大学のヰタ・セクスアリス  作者: 深海くじら
第12章 中島弥生3
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第79話 大好きなお兄ちゃんとはじめての休日デートなんだから。

「ねぇイツローさん、やっぱりお買い物行きませんか。もうちょっと食材を仕入れないと、さすがにこれじゃあなんにもつくれない」


 逸郎の書棚の古いマンガを読んでいたはずの弥生が、顔を上げて訴えてきた。外は晴天。南関東ほどではないが、杜陸(もりおか)も午後には暑くなりそうだ。

 隣でネットサーフィンをしていた逸郎も手元のノートPCから顔を上げた。


「たしかにね。食材は必要だ」


 返答とは裏腹に、逸郎は心中で渋い表情を浮かべていた。

 自分は今ここにはいないことになっている。だから知り合いに見られる可能性のある外出は、正直あまりしたくない。とはいえ食べ物が無いのは、弥生に最低限の文化的生活を送らせるための根本的な問題だ。外食するにしてもこの辺りは学生の住まいが多い上に学生寮も近いからどこで鉢合わすかわからない。

 歩いて十分のスーパーに行くのがもっとも無難な策だろうな、と逸郎は結論付けた。


「一緒にいるのを見られるのが心配なら、私、ここで待ってますよ。イツローさんの本棚、知らない面白そうなのが沢山あるし」


 一瞬その提案に乗ろうかと思った逸郎だったが、すぐにかぶりを振る。由香里から念を押されていたことを思いだしたのだ。弥生から目を離すな、と。


――どこかに行ってしまうってことは、たぶん無いと思う。でもそれよりなにより、弥生とは心の平穏を共有しなくちゃいけない。俺がオタついてちゃだめだ、ってこと。


「そうだね。本読んで過ごすのも悪くない。揃えてるのはお薦めばかりだし。でもまぁ天気もいいし、せっかくだから外に出てみようか。目立つのはたしかにちょっと困るけど、近所の散歩くらいなら問題ないよ。マンガとかは、また今度来たときにいくらでも読めばいい」


 パソコンを閉じた逸郎は、そう言って立ち上がった。


          *


「設定を決めよう」


 派手過ぎない色使いのアロハとデニム地の野球帽(キャップ)を手渡しながら、逸郎はそんなことを言いだした。

 着替えを受け取った弥生は不思議そうな顔で聞き返す。


「設定?」


「そう。ロールプレイング。俺は駅弁大の大学生で、実家を離れて杜陸(もりおか)に独り暮らしをしだして二年目」


「まんまイツローさんじゃないですか」


「利用できるリアルは使っておくの。俺は演技が下手だからね」


 逸郎は肩をすくめて笑う。


「で、弥生は俺の従妹で、実家の近所に住んでる高校三年生。お互いひとりっ子で小さい頃からずっと一緒に育ってきてるんだ。今回は受験生弥生の束の間の夏休みで、来年受けるつもりの駅弁大学とその周辺を下見するために、俺のとこを訪ねて来たんだ」


「わかりました。下見っていうのは口実で、本当は大好きなイツローお兄ちゃんに逢いに来たんですね?」


「や、その辺の細かいとこは弥生の好きなようにしてくれればいい」


「えーーー? それ、重要なとこじゃないですか。あ、でも知らないんですね。お兄ちゃんは弥生のその気持ち。わかりました。役作りは任せてください」


 弥生は思いのほか楽しそうだった。


          *


「お兄ちゃんの住んでるとこ、すっごくいいね。近くにこんな水辺もあって。ここはなに? 湖? にしては小さ過ぎるよね。向こう岸まで全部見えちゃうし」


「池だよ。高松の池。三十分くらいで一周できちゃう大きめの水溜まり。だけど冬には全面で氷も張るし、白鳥も越冬するんだぜ」


 残暑の陽射しの下、歩いてすぐの広場を抜けて池沿いの遊歩道をふたりは歩いている。Tシャツにサングラスの逸郎と、キャップを目深にかぶり、伊達メガネを掛けたアロハ姿の弥生。ふたりともデニムにスニーカーの散策仕様だ。

 朝晩なら周回するジョガーたちがそこそこいるところだが、夏休みの日曜とは言え暑い盛りの時間はほとんど人通りも無い。


「あ、ボート乗ってる人がいるよ」


「あっちに貸しボート屋があるんだ」


「お兄ちゃん。弥生、ボート乗りたい」


 手を掴んだ弥生は、逸郎が指した先に引っ張っていこうとする。


――可愛い従妹の我儘はやっぱ付き合ってやらんといかんのだよな、お兄ちゃんとしては。



「六十分千円だって」


 貸しボート屋が見えてきたところで手を離して駆け出して行った弥生が、大声で伝えてきた。麦わら帽をかぶって後ろに立つボート屋のオヤジもにこにこしている。

 しょうがないなぁという体で、逸郎も腰のポケットから財布を取り出しながら近づいて行った。


          *


 一周一キロ半の池とはいえ、手漕ぎボートで遊ぶのならそれなりに広い。目の前の満悦顔を見ながら、逸郎は黙ってオールを漕いでいる。弥生がこんなふうに喜んでる顔を見るのは本当に久しぶりだ。逸郎には、この数カ月間のことが嘘のように思えた。


「お兄ちゃん、帽子無しで大丈夫? ほら。漕いでるときはこれかぶって。弥生はまだ大丈夫だから」


「それ、まだ続けるのか?」


「決まってるじゃないですか。設定は大事。今日は大好きなお兄ちゃんとはじめての休日デートなんだから。あ、言っちゃった。弥生の秘密なのに!」


 ボートが揺れるのも構わず、弥生は身をよじらせて笑っている。逸郎も嬉しかった。そして、この年下の従妹のことがたまらなく愛おしくなってきているのも自覚していた。無意識にすみれと比べ、それがどちらにも失礼だと頭から追い払い、しかし気がつくとまた比べてしまっている。その繰り返し。


 漕いでみたい、と弥生が言ってきた。が、交代しようと立ち上がったところでバランスを崩した。弥生を抱き留めた逸郎は、危うく池に落ちそうになる。

 ボートの上で抱き合う形になったふたり。上に乗った弥生は、逸郎にそっと囁くのだった。


「お兄ちゃんに好きな人がいるのはわかってる。でももう少しだけ、このままでいさせて。弥生だけのお兄ちゃんで」

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