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駅弁大学のヰタ・セクスアリス  作者: 深海くじら
第11章 中嶋弥生2
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第75話 弥生の心臓。

「いまのは、私が自分の意思でした初めてのキス」


 座椅子にもたれる逸郎に身体を預けた弥生が、逸郎の眼を見つめ、そう言った。

 一方、逸郎は金縛りにあっていた。映画の終盤、弥生が頭を預けてきたところから。引き離すべきなのは頭ではわかっている。自分にはすみれがいるのだ。でも、動けない。それどころか、弥生を抱え込むように誘導された左腕を抜き出すことさえ。


「もう、とうに遅すぎて時効になってるのはわかってます。でも、やっぱりちゃんと伝えておきたい。合宿の最後にイツローさんが私にくれた告白の返事、今してもいいですか?」


 疑問形で放たれた台詞だったが、イツローの返事を待つことはなかった。


「イツローさん、私もあなたが好きです」


 向きを変えた弥生は逸郎の首に手を回し、身体ごと抱き締めてきた。その負荷を支えきれず座椅子ごと後ろに倒れ込むことになった逸郎は、後頭部を本棚にぶつけた。不安定な置き方だった何冊かの文庫本が、折り重なるふたりの上に降ってきた。


「いたっ」


 後頭部を押さえた弥生が短く声をあげる。その瞬間、逸郎の呪縛が解けた。

 向き合う弥生の小さな肩を両手で押し上げた逸郎は、しがみついていた華奢な身体を起こさせた。

 弥生の両手は未だ逸郎の首に絡んだまま。でも、ふたりの間に幻のすみれが入り込める隙間はできた。


「聞いてくれ、弥生。今くれた言葉はとても、いや、心底嬉しい。全力で応えてやりたい。そもそも俺が言い出したことへの答えなんだから、応えられなきゃ嘘だ」


 すぐ目の前、顔全体を捉えきれない近さで、はっきりと逸郎だけを見つめている弥生の瞳があった。ほんの四カ月前には、こうして見つめてもらうことこそが望みだった弥生の瞳が。


――本当に好きだった。今だって大事に思ってる。……でも。


「恋人ができたんだ。知り合ってからまだひと月半しか経ってないけど、とても大切な。俺はそのひとを、裏切ることができない」


「ポニーテールのひと?」


 息継ぐ間もなく真っ直ぐに打ち返された弥生のライジングレシーブに、逸郎は狼狽(うろた)えた。


――駄目だ、考えてちゃ。こっちも即座に応えてやらないと。


 逸郎も間を置くことなく、そうだよ、と口に出して、頷いた。


「私が汚れてしまったから?」


「違う! そんなの関係ない!」


 逸郎は首がもげるかという勢いで大きく左右に振った。何度も。


「だいたい俺は、弥生が汚れたなんて、これっぽっちも思ってない。ただ知らなかったものの価値を知って、きっとその大きさに戸惑って、まだ折り合いがつけられてないだけだって。そりゃあ、以前の弥生とは随分変わったかもしれない。今もまだ不安定でぐらぐらしてるかもしれない。でもそれは、成長の過程だ、って信じてる」


 だからそれとこれとは関係ないんだ。逸郎は血を吐くように言葉を繋いだ。

 逸朗の両足を跨くかたちの膝立ちで正対する弥生は、背筋を伸ばし顎を引き、黙って彼の言葉に耳を傾けていた。まるで向かい合うふたりの空間に他のものが入ってくるのを通せんぼするかのように、両手を逸郎の左右の肩に置いたまま。


「弥生はちっとも悪くない。ただ、弥生がいない時間の中で俺がそのひとと出逢ってしまったんだよ」


 ごめん。俺は弥生に応えてあげられない。逸郎は目を伏せて、静かにそう告げた。


 弥生は両手をそのままに深呼吸と同じスピードで倒れ込むと、俯く逸郎の右肩にそっと顎を乗せてこう囁いた。


「謝らなくていいんです。そんなの、もうわかってたことですから。私はビアンカでイツローさんはエコール。無垢(イノセント)な私はエコールの住人だったけど、性を知ってしまい成長する私は、もうエコールにはいられない」


 そこで言葉を途切った弥生は、ひと呼吸おいてから、触れている耳にだけ語りかけるように謝辞を送った。


「なによりも、イツローさんが私を信じてるって言ってくれたことが、私は嬉しい」


 入力信号の途絶えたディスプレイが放つ静謐な青の中で、ふたりは重なり合い、静止画のごとく固まっていた。まるで深海の底に横臥するマッコウクジラの(つがい)のように。

 逸郎はただ、弥生の心臓のリズムと自分のそれとが寄り添って同調(シンクロ)する心地良さだけを感じていた。


「ねぇ。昼間も尋ねたけど、イツローさんはどうしてそんなに優しくしてくれるんですか?」


 耳元で囁かれた質問に反応して鼓動が速くなる。でもそれは、尋ねてきた弥生も同じ。トック、トック、トク、トク、トク、トク。


「大事だから。絶対的一番ではなくなったとしても、大事だと思う気持ちに変わりはない」


 それじゃ答えにならないかな、と逸郎も耳元に囁き返した。交感(シンクロ)する鼓動が加速している。


「ありがと。その答えで充分」


 肩に置いていた手を背中に回して痛いほど強く逸郎を抱き締めたあと、弥生はクッションを抱えて立ち上がった。そうして、しなやかな腕を伸ばし、逸郎に向かって手を差し伸べる。逸郎がその手を取ると、弥生はこれまで見た中で一番の笑顔を見せてこう言った。


「一緒に寝ましょ。イツローさん」

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