第72話 わかってますって。
涙がこぼれるのもそのままに真っ直ぐこちらを見据え、理不尽とも言える非難をぶつけてくる弥生を目の当たりにして、逸郎は何故だか安心した気持ちになった。
――この娘はきっと、大丈夫。ようやく最初の、ユカタン半島に隕石が落ちてきたあのときに向き合えるようになったんだ。全ての不条理を憎み、吐き出し、見つめ直す。その鳥羽口に立てたんだ。
あのとき一番近くにいた自分こそが、この少女の非難を受けるべき、いや受け止めなくてはいけない、そう逸郎は覚悟を決めた。
だから逸郎は居住まいを正し、深く頭を垂れる。
「申し訳なかった。俺は弥生のことが好きだったのに、あの日たかだか数分間走って追いかけたくらいで諦めてしまったんだ。もうどうしようもないって。情けない。情けなさ過ぎる。だから弥生が俺を非難するのはちっとも間違ってない。本当に、心から謝る」
弥生の瞳に、ほんの少しだけだが光が戻ってきた。
「そうです。あのときイツローさんは、白馬に乗ってでも私を助けに来なきゃいけなかったんです。私が余分なことを知ったりしないように」
――ああ、この娘も成長したんだな。こんなにはっきりと、そして懸命に己の考えを伝えようとすることができるほどに。
逸郎の脳裏に、ドーナツショップの向かいの席で弥生が垣間見せた背反する両面意識の場面が蘇った。表に見えているおとなしく行儀のよい面と、その裏側に隠され抑圧された欲求や希求とが相克する弥生の深み。それこそが、逸郎の心を捉えた弥生の魅力だったはず。
「イツローさんが来てくれなかったから、私はそれまで縁がないと思い込んでいた、でも前からそこにあって見ていないだけだった新しい価値の扉を開けられてしまった。あんなひとに! 本当は、その扉はイツローさんに開けてもらいたかったのに!!」
弥生の声から嗚咽が止まっている。逸郎はおしぼりを開いて弥生に差し出した。それを受け取った弥生は、両手を使って涙と洟水だらけの顔を拭った。
「ごめんなさい。イツローさんが悪いわけないのに」
「謝っちゃダメだよ、弥生。繋ぎ留める碇になってやれなかった俺は、弥生の言う通りで、やっぱりいけなかったんだよ」
本当にすまなかった。そう言って逸郎はもう一度深く頭を下げた。それからすぐに、弥生が謝罪の言葉を吐く前に、逸郎は言葉を続けた。
「でも大丈夫。今は時間がちゃんとある。まずはご飯を食べよう。それが最優先だ。そして、そのあとは俺の部屋に行こう。いくらでも話を聞くよ」
洟を啜った弥生は素直に頷き、再びナイフとフォークを手に取った。
*
途中、買い物をしたいと言う弥生に、逸郎は一万円渡した。恐縮しながらも弥生はそれを受け取り、コンビニに入っていく。その間に逸郎は、走行中シーシーバーにくくりつけていたディパックの中身をサイドバッグの隙間に押し込み、ポリ袋を下げて戻ってきた弥生に空にしたディパックを預けた。
「俺と一緒にいる間、これを弥生専用に使ってくれ。買ってきた物とか私物をとかはこいつに入れとくといい」
「わあ。イツローさんがいつも使ってるリュック」
反射的とは言え今日初めての笑顔を見せた弥生は、すぐに押し黙り、買ってきた物をそれに詰め始めた。
*
そうしてふたりが逸郎の部屋に到着したのは、午後三時に近かった。
一週間以上締め切っていた部屋は、まるでサウナだった。
逸郎は窓を全開にして空気を入れ替えながら、部屋を片付けて出ていった出発前の自分に感謝していた。弥生は初めての部屋で、デイパックを膝に抱えたまま、所在なさげに座っている。
由香里が迎えに来れる月曜までの二日間、逸郎は奥の四畳半を弥生の居室にしようと考えていた。あそこなら布団もあるし、襖を閉めればプライバシーも確保できる。自分は居間で寝袋でも広げて寝ればいい。
杜陸とは別の街でホテルをとって、とも考えたが、それには財布が心許ない。幸いにして逸郎の住まいは無駄にひと部屋多い。二日くらいなら匿えるだろうという算段だ。
――元々の帰り予定は月曜夜だから、あまり表に出ずに過ごせば、すみれにも無用の心配をかけずに済む。念のためサベージは使わないようにしよう。
台所でスマホをチェックすると、由香里から数通のメッセージが届いていた。どれも報告の督促。逸郎が自室に保護した旨を送ると、間髪置かず返事が返ってきた。
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5m以上離れるな!!
1m以内に近づくな!!!!
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「わかってますって」
隣室の弥生に聞こえないようにそう呟くと、逸郎はサムアップの画像を送り返した。
買い置きで冷蔵庫に入れていた新しい麦茶をグラスに注いで六畳間に戻ると、畳に倒れ込んだ弥生が座布団を枕にして眠っていた。緊張の糸が切れたのだろう。慣れないネットカフェでひと晩過ごした上に、初めてのタンデムでいきなり百キロ近く、しかも真夏の一番暑い時間帯での移動だったから、さすがにこたえたに違いない。
――そう言えば俺も。
逸郎は自分自身が昨夜寝ずに横浜からここまで走らせてきたのを思い出した。自覚した所為なのか、同時に急激な睡魔が襲ってきた。風が抜け、多少過ごしやすくなった居間の隅で、堪えきれなくなった逸郎も身体を横たえる。
ほどなく部屋の中は音は、ふたつの寝息だけとなった。




