第70話 俺たちにとってのK-T境界。
じゅうじゅうと湯気を上げるハンバーグを前にしても、弥生はまだ黙ったままだった。勢揃いしているライスやコールスロー、コンソメスープにも手はついていない。それどころかナイフやフォークすら最初に置かれたままだ。
熱いものは熱いうちに食べて欲しい。そう言いたい気持ちを抑え、逸郎も黙ってコーヒーをひと口啜る。
*
狭い街のターミナル駅、しかも朝の通勤時間となれば、知った顔に会うなと言う方が難しい。逸郎は、ネットカフェが入った雑居ビルのエントランスで、このあとは駅前カフェという選択肢を一瞬で棄却する。手にしていたライムグリーンの原付き用ヘルメットを弥生に差し出して、かぶるよう促した。
少し移動するよ。そう言いながら、顎紐を締めるのに手間取る弥生を手伝う。
――ミニスカートなんかだったらどうしようかと思ったよ。
弥生のデニムパンツにスニーカーというボトムスタイルを見て、逸郎はひと安心した。そうでなくてもはじめてのタンデム。しかも初心者の逸郎では法令違反となるのだから、神経を使う要素は少しでも少ない方がいい。Tシャツ一枚のトップスは心許ないので、ブルゾンを貸して羽織るよう指示した。弥生は何も言わずに、ただ粛々と従う。
車の流れに合わせて、逸郎のサベージは市街地を抜ける。後部座席に座る弥生は、初めて乗るバイクが怖いのか、逸郎の腰にしがみついている。サベージには背もたれが付いてるから、そんな風にしがみつくよりもそっちにもたれて身体をホールドした方が乗りやすいのに。そう思いながらも逸郎は、自分の背中に押し付けられた弥生の胸の熱から意識を外せずにいた。すみれの圧倒的な量感とは違う、もっと控えめな、でも私はここにいますと主張してくる柔らかい二つの丘。
思えば弥生とは接触は合宿の台所での手首握り事件以来だ。ブルゾン越しとは言えこんな密着は、あの時期の、互いの本心を抑え込み隠し合っていたもどかしいふたりのままならあり得なかったことだろう。
今ならわかる。逸郎はようやくそう気づいた。
――あの頃の弥生は、俺が想うのと同じくらい俺のことを想ってくれてたに違いない。
逸郎は、果てしなく遠くなった景色を眺めるように、ほんの数ヶ月前の日々を思い出していた。
――アレは、俺たちにとってのK-T境界みたいなもんなんだなぁ。
警察車両に見咎められず、そしてなによりも弥生を怖がらせないように。逸郎はいつもの十倍集中して、慎重にバイクを走らせていた。急がず焦らず、法規を守って。
――バイクでの移動ってのは案外よかったかもしれない。
抑揚のない4号線の一本道を淡々と北上しながら、逸郎は考えていた。
――ふたりきりでも、なにも喋らないでいられる。
止むことのない前からの風と路面の微差を拾う振動、それらに合わせ通奏低音と化した単気筒エンジンの音に包まれて、意識はいやおうなしに研ぎ澄まされてシンプルになる。ヤリスちゃんねるのことも引きこもって会えなくなった時間も、すみれの昔話も彼女と過ごした蜜月の旅も、そのすべてが些事となって風と一緒にうしろに飛び去っていく。そうして自分と弥生はなにも考えることのない走る塊となって、物理的な前に向かってただただ進む。
――このまま永遠に、等速でまっすぐ移動するだけの存在になれたらいいのに。
バイパス沿いにあらわれたハンバーグレストランチェーンのアドサインが逸郎の目を捉えた。水沢を出て一時間近く。もう休ませるべき時間だった。
――弥生はたぶん、丸一日なにも食べてないはず。
遅まきながらそう気づいた逸郎は案内表示に従ってバイパスを外れ、その店の駐車場にサベージを滑り込ませた。
*
遅れてやってきたコロコロステーキに逸郎が手を付けて、ようやく弥生はナイフとフォークに手を伸ばした。小さな声でいただきますと呟きハンバーグステーキに向かった弥生は、それまでの控えめな態度が嘘のような勢いで食べ始めた。よほどお腹が空いていたのだろう。申し訳ないことをしたと逸郎は反省した。
水沢文化圏から離れることを優先したという言い訳はできるが、それを云ったらここ北上だって、こっちの人の感覚でならそれほど離れているとは言えない。
弥生がむせた。
「大丈夫だよ。そんなに焦らなくてもハンバーグも俺も勝手にいなくなったりしないから」
逸郎はまだ手を付けていない自分の水を勧めながら優しい声で諭す。弥生は受け取った水を、ありがとうも言わずに飲んだ。相当切迫していたのか、口に当てたコップの水はガラスの中で波打っていた。小さな顎をひと筋の水滴が流れ落ちる。
ちょっと取ってくると断って、逸郎は空いたコップを手にセルフサーバーに向かった。
水を満たしたコップ二脚と何枚かのナプキンを持って戻ると、ナイフとフォークを置いた弥生が俯いていた。肩が震えている。水を弥生の前に置いた逸郎は向かいの席に腰を下ろし、なにも言わずにただ待った。
「……」
音にはならない震えのような唇の動き。でも逸郎は聞き返さない。
さっきの水滴とは別の水源からあふれ出たものが、ひとつふたつとテーブルに落ち、目に見えないくらい小さな飛沫が跳ねる。こんどこそ弥生は、なにかを言おうとしていた。
「…………」
ようやく発せられた弥生のその言葉は、聞き逃すまいと集中している逸郎の耳に届くことができた。
「私、先輩にもゆかりんにも迷惑ばっかりかけて。ぜんぶ自分がいけないのに。自分が勝手にやらかしたことが戻ってきてるだけなのに、こんな風に駄目になっちゃって……」
その先はもはや言葉にならず、弥生は静かに嗚咽を繰り返すだけ。それをただ黙って見守っていた逸郎は、しばらくするとなにも言わずに席を外した。
ほどなく戻ってきた逸郎の姿を見上げた弥生の表情は、捨て犬のように途方に暮れていたのが、ほんの少しだが安堵の色を浮かべた。弱り切った少女の前に、逸郎は鮮やかなオレンジ色に染まったグラスを置く。
「食事の途中だけど、ちょっと甘いものを飲むと良い。涙の分だって補給しとかないと」
素直に頷いた弥生が、不器用に取り出したストローを挿してオレンジジュースをひと口啜った。ストローを包んでいた紙の袋はテーブルの端で蛇の抜け殻のように捨て置かれている。
弥生は、掠れた声でぽつぽつと話し始めた。
「あきれて見捨てられちゃったかと思った。イツローさんがそんなことするはずないってわかってるのに」
そう言いながらも、弥生の顔は俯いたままだった。おびき寄せられた羽虫のように弥生の視線の先を辿った逸郎の目線は、スープの表面越しに刺さる瞳と繋がった。
「ねえ。イツローさんはどうしてそんなに優しくしてくれるの? 私、あなたを裏切って、あんなことしてきたのに」




