第69話 てか、完全に釈迦の掌の上。
使わなくなって久しい姉のヘルメットを譲り受けるのに散々からかわれはしたが、日曜の親戚の集まりに欠席する了承をなんとか得られた逸郎は、日付が土曜に変わって小一時間ほどで愛車サベージに跨ることができた。
青森からの帰りと横浜往路の経験で、巡行走行なら深夜の方が走りやすいことは知っている。今回は初の高速道利用となるが、出入口さえ気をつければあとは信号が無い分さらに快適に違いない。
到着時間を朝八時と想定した逸郎は、出発前に由香里に伝言を頼んだ。朝九時丁度にゆかりんが迎えに行くから、帰り支度を済ませてフロントまで来るように、と。
逸郎自身ではなく由香里にしたのは、無用な警戒心を抱かせないため。会いさえすれば、あとはきっとなんとかなる。そこから先のことは、あとからふたりで考えればいい。由香里からは、決して目を離すな、と念を押された。
「あたしが帰国するのは日曜の夜になります。月曜からは引き継ぎますから、それまではずっとまーやに付き添っててください。これはもう絶対。あと、その際は可能な限り手を出したりしないように」
ま、イツロー先輩ならいっか。最後にそう呟いて、由香里は通話を切った。
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深夜の東北道は想像していた以上に順調だった。東名から首都高を経て東北道への接続は分岐路の選択にかなり神経を使ったが、一旦東北道に乗ってしまえば、あとはスロットルを維持するだけ。あまりの快適さに時折り襲ってくる睡気だけを気をつけて、逸郎の駆るサベージは深夜の高速を北に向かって突き進んだ。
途中一度だけ、那須塩原で長めの給油休憩を挟んだ逸郎が出口に近い前沢SAに着いたのは、すっかり明るくなった朝七時前だった。
――前沢といえば牛肉だろ。
経費は後で報告して欲しいと言った由香里の言葉を頼りに、逸郎は一番人気メニューの『前沢牛すき焼き丼小麺セット』千二百二十円を注文した。
滋味深い牛肉が、夜通し走って固くなった身体に染みてくる。真夏とは言え深夜の山間で吹きつける風はそれなりに冷たかった。こういうときは、セットで付いてきたかけ蕎麦の温かさが有難い。後輩の財布を当てにするのは少し情けないと思いながらも、逸郎は場違いにプチ贅沢な朝食を楽しんだ。
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サービスエリアで時間調整した逸郎は、八時半に水沢駅前でバイクを降りて周囲の看板を見回す。由香里から教えられたネットカフェはすぐに見つかった。
スマートフォンを見ると、すみれからのおはようメッセージが届いていた。
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おはよー♡
休みだからっていつまでも寝てるなー!
愛しのすみれちゃんは今日も朝からお仕事なんだからね!
藤井先生の実験結果がまとまんない。
あれ絶対、調査票の設計が間違ってるよ。
言わないけど( ̄b ̄)
あー、イツローに逢えるまで、あと二日!!
それまでガンバルゾー♡すみれ
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タイムスタンプは07:55だった。
――奥州のスマートICを降りたあたりか。
心の痛みを感じながら、逸郎は昨日までの朝と同じようなメッセージを返した。
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九時になった。
エレベータに繋がる狭いロビーに立つ逸郎からは、ガラス扉の向こう、ほの暗い廊下の奥から弥生の歩いてくる影が見えた。
思い起こせば、姿を見るのは二ヶ月近く前のあの講義教室以来。ちゃんと話をしたのはさらに前の、GW明けのあのコンパの席が最後。それ以降は一切のやりとりを封じられている。逸郎は胸が痛くなった。
――弥生も俺も随分と遠くの、思っても見なかったところに来てしまった。たった三ヶ月しか経っていないと言うのに。
近づいてきた弥生は、逸郎の姿を認めて驚きと混乱の入り混じった顔になった。持てる全力を投じて慈しみを込めたつもりの歪んだ笑顔を、逸郎は弥生だけに向けた。
ガラス戸の向こうの弥生は身を翻した。しかし、店の奥に踏み出した足は、いったん止まる。なにかに気づい様子で、手に持ったスマホを覗いていた。なにかメッセージが届いたようだ。
――由香里のサポートメールだろう。キエフは午前三時。タイマー送信かな。いずれにしても抜かりない。てか、完全に釈迦の掌の上。さすがだな。
そう逸郎は感心した。
メッセージを読み終えた弥生は意を決した様子で、おずおずとこちらに近づいてくる。逸郎は自動ドア越しに五千円札を差し出して弥生に告げた。
「おはよう。とりあえず、これで清算しておいで」




