第68話 さすが先輩、待機時間を無駄にしませんね。
自室に戻った逸郎は、ベッドの上でスマートフォンを前に胡坐をかいている。
――ゆかりんから電話。しかも二度も。単なる暑中見舞いで掛けてきたという線はどう考えても無理がある。というか、あいつから電話を貰ったことなんて、今まで一度たりともないはず。ということは、やはり弥生の件か……。
とりあえず折り返そうとスマートフォンを手に取ったとき、三回目の着信が入った。
「もしもし、俺だけど……」
「やっと繋がったぁ」
電話の向こうの由香里は相も変わらずのテンションで叫んでいた。耳が痛い、と逸郎は思った。なにがあった、と尋ねる前に、由香里はまくし立ててきた。
「なんでさっさと出ないんですか、イツロー先輩は! おかげであたしは、家族の前で都合四回も不振行動を執るハメになってしまったじゃないですか。将来の大ちゃぶ台返しを成功させるための信頼を勝ち取るのに、ここまで営々と積み重ねてきた十九年間の努力が無になったら、どうしてくれるんですか、父母は言うに及ばず、あのぼんくらを絵にかいて額に入れたような兄であっても、ここまでの異常行動は看過してくれないですよ、ホントに。責任取る準備はあるんでしょうね」
「落ち着け、ゆかりん。将来の大ちゃぶ台返しってなんだ? いや、それより、いったい何があったんだ」
「落ち着けとかなにをエラそうに言ってるんですか。わかってるんですか。先輩は言い出しっぺなんですよ。列強の荒波に不案内な孅弱いあたしに向かって火中の栗を拾えとそそのかした英米なんですよ。そこんとこちゃんと弁えてください」
――十九世紀末のビゴーの風刺画かよ!
「それは……わかってる。ゆかりんに任せっきりで悪いとは思ってる」
「それはまあ、いいんです。あたしから提案したことですから。ただ、今は私の手に負えないことが発生してまして。で、已む無く、不承不承、背に腹は代えられず、断腸の思いで先輩に助力を要請せざるを得ない事態に追い込まれている次第なのですよ」
いろいろとツッコミネタを用意してくれたようだが、それらいちいちに関わっているといつまで経っても本題に入ることができない。逸郎も断腸の思いで簡潔に問いかけた。
「聞こう」
「先週の土曜にまーやは帰省しました。実家は胆沢、奥州市の西の方ですね。って言っても、ただでさえ物知らずな上に関東もんの先輩にわかるワケがないので説明しますと、JR水沢駅から西に十キロ弱の辺りの広い空と灌木が連なる風光明媚な、まあ言ってみれば今風の娯楽などがなーーんにもないゆるキャンなとこです。汽車も走ってないし。まーやのおっとりさをそのまんま土地にした、と言えばわかりやすいですかね。まーやはそこで川遊びしたりカブトムシ採ったりお盆の法要に出たりして、来週の木金辺りに戻ってくる予定となっていました」
――いました、ということは予定が変わったのか? それも突発で。
逸郎の背筋に電気が走った。
「彼女、参加しなかった中学時代の同窓会で身バレしました」
――身バレ? 弥生がマーチちゃんだったのがバレたってことか!?
「今日の昼間、前夜の同窓会に参加してた幼馴染の娘から自宅に電話があったそうです。その娘の話によると、まーやの昔の同級生にヤリスちゃんねるのヘビーユーザーがいたんだそうで。その下衆が買い漁った無修正の裏画像、裏動画には顔もはっきり映っていたらしく、ただ似てるだけじゃなくて黒子の位置とかで間違いないって言い出した、と。その下衆、まーやのことが好きだったそうで、細かいとこまでよく見てたんだとか。まあ今風の言い方ならBSSって奴ですね。ボクガ最初ニ好キダッタノニ。で、真偽を確かめるという名目で、男子どもの二次会はそいつの家に流れての裏動画鑑賞会になったんですと。まーやと仲の良かったその娘の彼氏も観に行ったらしいんですが、その彼曰く、やはりあれは中嶋弥生本人に違いない、という由々しき結論に」
「その娘自身、同窓会の席でも下衆男からスマホにお気に入りで保存していた画像を何枚か見せてもらったんですと。そしたらたしかに映ってたAV女優は弥生に見えたんだそうで、電話では逆にその確認をされたらしいのです。はっきりした返事はしなかったけどAV女優ほど立派なものじゃないよ、とまーやは応えたそうですが、それってもう認めたようなもんじゃないですか! ていうか、彼女の見てる前で裏動画鑑賞会に行ってしまう彼氏ってのはどんなもんなんですか?」
逸郎は視界は急激に暗くなった。
――地元在住の同窓生たちが一斉に知ることになったってことは、実家に伝わるのも時間の問題かもしれない。
「日本時間で本日午後九時時点、まーやは水沢のネットカフェにいます。でも千円しかチャージしてないSuicaと、決済と連動してる奇跡なんてあろうはずもないポンコツスマホしか持ってないのです。チェックアウトは明朝十時。とにかく今夜はそこを動くな、あたし以外の誰とも連絡を取るなと厳命してはおきましたが、正直なところ一刻の猶予もありません。先輩、まーやの確保に向かってくれませんか。いや、すぐにでも向かってください」
逸郎は咄嗟に壁のデジタル時計を見た。
23:48
新幹線はとっくの前に終電を終えている。長距離バスも記憶に間違いなければ最終は24:00。いまの自宅からでは到底間に合わない。新幹線の始発を待って出るとしても水沢江刺はおそらく九時前後。新幹線の駅と東北本線の水沢駅は離れているだろうから、乗り換え移動と店を探す時間を考えると、間に合うかどうか。
そこでようやく逸郎は気づいた。
――杜陸からなら余裕で時間内に行けるんじゃね?
「ゆかりんが迎えに行くワケにはいかんのか」
「それができるのなら、わざわざ横浜にいる、必要なときに役に立った試しのない先輩なんぞに連絡はしませんよ。しかし残念なことに、あたしはそんな残念先輩よりもさらに残念なところにいるのです」
残念を連発した由香里は、そこでひと呼吸置いてから、再度話し始めた。
「あたしは今、キエフにいます。ウクライナの。母親が企図し父親の全面スポンサードを取り付けての家族旅行で」
なんだそりゃ。自慢か? そう思ったところで、逸郎は思い出した。そうだった。こいつもなんだかんだでお嬢様だった。
しかしすみれが十和田で会ったというおばさんといい、世の中の主婦はみんな、子育てに落ち着くと旅行に行きたくなるもんなのかな。
「だいたい、先輩が金ロー夏の風物詩『千と千尋』なんぞにかまけてたりせずあたしの最初の電話を取ってさえいれば、今日中に仙台までは行けたのです。そうすれば東北本線始発で余裕の任務遂行ができたんです」
ほんっとぉに使えませんね。電話口の向こうから呟きが聴こえる。が、これら立て続けの悪態もユーラシア大陸の西端からリアルタイムで届けられた音声だと思えば、なにやら有難い託宣に聞こえてくるから不思議なものである。
「ときに先輩は足はお待ちですか。ツッコまれる前に言っときますけど、お腰の下に付けている二脚の移動用身体部位ではなく。機動力のことですから」
そうだった。俺には足がある。逸郎は行動を開始する決心をした。
「バイクがある。先月末に免許取って、今月アタマに手に入れた中型が。ていうか、先に聞くべきことだろ、それは」
むろん由香里は非難を華麗にスルーする。
「それは素晴らしい! 上出来です。さすが先輩。待機時間を無駄にしませんね」




