第61話 だって奥さんなんだから。
「申し訳ありません。俺、避妊具持ってきてませんでした」
ベッドの上で平伏した逸郎は、そう正直に謝った。しかし反応がない。すみれはそこにいるはずなのに、衣擦れの音さえしない。
――もしかして、呆れてどっか行っちゃった?
不安に駆られた逸郎が上目遣いで様子を伺うと、そこには口元をタオルで押さえ、笑いを噛み殺していたすみれがいた。
顔を上げた逸郎にゆっくりと近づき、その背中に手を置いて顔を寄せたすみれは、そっと囁いた。
「それで乙女の像から下の売店までの間、ずっと悩んでたのね」
「え? わかってたの?」
「そのくらいわかるよ。だって今は私、田中すみれだよ。イツローの奥さんだよ」
すみれは嬉しげだった。たしかにフロントで宿泊カードにそう書いたのは自分だった。逸郎は改めて思い出す。
宿泊者(二名様):田中逸郎/田中すみれ
「イツローは今夜、私を抱きたいって思ってくれてるのね。ものすごく嬉しい。私なら、いいよ。付けなくても」
だって奥さんなんだから。笑いながらそう言うすみれは、しかし、すぐに真顔になり、正座のままの逸郎の横に、寄り添うように腰を下ろした。
「でも、イツローは嫌なんだよね。そういう心配ごとが残ってるやり方は。ちゃんと上書きできないんだよね」
――ああ、この人は本当に俺のことをわかってる。いや、わかろうとしてくれてる。
逸郎はそれだけで胸が詰まった。この人を大事にしなきゃいけない、と。
「ね、イツロー。さっきお風呂入ってる時ね、私、他のお客さんに話しかけられたの。年配のおばさま。お友だちとご旅行? って。だから私、主人とふたりでオートバイの旅行ですって答えちゃった」
優しい笑顔で話し始めたすみれが、逸郎の正座の膝を軽く叩く。その合図を理解して、逸郎も膝を崩し、すみれの話の続きを待った。
「すっごく羨ましがられちゃった。その方もご主人との旅行なんだって。その方、若い頃からずうっと、ねぶた祭りに行ってみたかったんだって。毎年のように、見たい見たいって思ってて、でも機会がなくて。それが、今年の春にご主人が定年になって、ようやく夫婦で初めてここに来れたんですって。明日、青森に行けるのがもう楽しみで楽しみで」
イツローはねぶた祭り見たことある? と尋ねるすみれに、首を横に振って応える逸郎。私もない、と言ってから、すみれはふうっと息を継いだ。
「だから、そんなに若くて綺麗なうちに、夫婦で一緒に出かけられるなんて素敵ね、って。そうそう。私、綺麗なんだって。イツロー知ってた?」
知ってるよ、と苦笑いする逸郎。その肩に頭を預け、すみれは続ける。
「お話聞きながら思ったの。ホントに夫婦の旅行だったら良かったのになぁってね」
「私がなんで駅弁大学に来たかって話、してなかったよね」
長い話を予感した逸郎は、すみれを誘い、ベッドに並んでくつろげるよう体勢を変えた。隣にスペースを作り、枕をクッションにし、ヘッドレストに身体をもたれさせて脚を伸ばす。しかしすみれは横には行かず、伸ばした脚の間を広げさせ、その間にすっぽりと身体を収めて逸郎の胸に頭を預けた。
「スタンフォードはね、ポストを用意するって言ってくれてたんだ。こう見えても私、結構優秀だったのよ。日本でもいくつかの大学が招聘したいって手を上げてくれてたし。なのになんで、よりによって駅弁大? 故郷でもなんでもない。それこそ縁もゆかりもない土地の大学に自分から売り込みまでして」
しばしの間、すみれは目を閉じて、何かが貯まるのを待っているようだった。でも、待つのなら自分も得意だ。逸郎はそう思い、ただ、自分の心臓の音がすみれの準備の邪魔になってないかだけを気にした。
重なった身体の上で息を吸うのがわかった。素敵なまつ毛のまぶたが開き、すみれは虚空を見上げながら口を開いた。
「私、好きな人がいたの」




