第43話 走ってきてくれてありがとう。
「昨夜のことは俺の胸の裡だけに留めとく。ゆかりんにも話さない。それでいいよな。だからイツローは安心してすみれちゃんとよろしくやってくれ」
上手くいったら報告しろよ、と言い残し、シンスケは昼前に帰っていった。寮に戻って寝直すらしい。
逸郎は、大きくひとつ伸びをした。シンスケとの対話でいろいろな話を聞いてもらい別視点からの意見を受けたことで、なんとなく整理ができたように感じていた。本気で気持ちを切り替えるのも悪くないかもしれない、と思い切れる気さえしていた。
と、唐突に、スマホの着信音が鳴った。
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やっほー! そろそろ起きた?
今日は三時からだよね。よかったらその前にランチ行かない?
憶えてるよね。最初の日にいったアメリカンなバーガー屋さん。
一時過ぎくらいには合流できるといいなぁ♡すみれ
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どうやらその前にも二通メッセージが届いていたようだ。逸郎は速攻でOKを返し、大急ぎで準備を始めた。
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逸郎が午後一時十五分に店の中に駆け込んだときには、彼女は前と同じベンチシートの席でコーヒーを飲みながら英語で書かれたレポートを読んでいた。ポロシャツ、デニムにポニーテール。間違っても大学の先生には見えない。
入口から自分を見つめる視線に気づいたすみれは、それまでのしかめつらしい表情を一変させ、満面の笑顔で汗だくの逸郎を迎えた。レポートを席の隣に置き、綺麗に畳んで置いていたおしぼりの内側を表にすると、身を乗り出して向かいに腰掛けた逸郎に額の汗を拭う。ひと続きのそれらの動作はとても自然だった。
「こんなに暑い中、走ってきてくれてありがとう」
――短いセリフに込められたこんなにも全面的な肯定は、いままで貰ったことがない。遅刻した焦りや全力ダッシュの疲れなんて綺麗さっぱり消え去っている。
逸郎は強い感銘を受けた。
例によってボリュームのあるハンバーガーをかぶりつきながら、昨日までと同じような善良で他愛ない会話。その中に滑り込ませるように、逸郎は昨夜の話を持ち出した。シンスケに問い質され、すみれと自分が仲良くなったと話したことを。
ふたりに関わる話なのだから共有しなければいけない、そう思ったのだ。もちろん、弥生のくだりは除いてだが。
はじめは表情を曇らせたすみれだったが、学食での自分の行動がキッカケの追求であり、話した相手も逸郎が信頼する一番親しい友人ということで納得した顔を見せた。
「ちゃんと先生っぽく話しかけたつもりだったのになぁ」
ナプキンで手遊びしながら落ち込むふりをするすみれに、逸郎も付き合う。
「次はもっと厳しくやったらどう? 鞭とか持って、ビシッとさ」
「そんなこと言ってるとホントにやっちゃうよ。わかってる? それやられるのイツローなんだからね」
深刻ぶった仮面を早々に放棄して笑い合う、昼下がりのふたり。
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教習所に向かう道すがら、すみれは手を自然に差し出してきた。さほどの躊躇も無く、それに応じる逸郎。繋いだ手を嬉しそうにぶんぶん振りながら、すみれは言った。
「今度ちゃんとシンスケさんを紹介してね」
もちろん、と逸郎も返す。
シンスケだけじゃない。涼子も、ゆかりんも引き合わせよう。彼女たちだって、こんなに前向きで素敵なひとを気に入ってくれないはずがない。そうして、この人と俺の大事なひとたちとで仲良くずっと一緒にいられたら、俺にとってそんなに嬉しいことはない。
照りつける夏の午後の陽射しに包まれた逸郎は、本気でそんなことを夢想していた。
 




