第42話 これは俺の尊敬する人が言ってた言葉なんだけど。
「お前がいまいち押し切れない理由はわかってる」
シンスケは声のトーンを下げた。目は少し座り気味だが、まだ酔っぱらってはいないようだ。顔を伏せて、しばらく黙り込んだシンスケは、重々しく口を開く。
「……弥生、だろ。お前、あいつとのケジメがついてないって思ってんだろ」
――シンスケは弥生の現状を知らない。俺は言ってないし、もうひとりだけ、たぶん俺よりもずっとよく知っている由香里も、あの性格を考えれば話してるはずがない。シンスケが知ってるのは、たぶんコンパからヤリスちゃんねるの公開と閉鎖、それに槍須の裏商売までだろう。だが見かけよりもずっと鋭いこいつの勘は、その先の現状をイメージしてるのかもしれない。慎重にしなければ。
逸郎は身を引き締め、シンスケの口が動きだすのを待った。
「槍須が活動停止してるってことは、弥生も別行動してるんだろう。あいつはSNSに顔出さないから確信は無いけど、たぶん引き籠ってんじゃねぇのかな。でもって、おまえはその辺のこと知ってんじゃないの。弥生の件であんだけ落ち込んでた奴が、今月に入ったらすっきりした顔してんじゃん。さすがに俺でもわかるよ。こりゃなんかあったなって」
シンスケは続ける。
「おまえの性格からしてそんなにスパッと断ち切れるはずないから、これは見切りつけたんじゃなくて保護観察下に置いたんだな、と読んだわけよ。違うか?」
――ヤバイ。俺、そんなにわかりやすかったのか?
逸郎は胸の中で唸った。こいつを敵に回してはいけない、と。
「今日だって、下手すりゃここに匿ってるんじゃないかって冷や冷やしながら裏窓開けたんだぜ。中の空気が蒸っとしてたから、ここに居ないのはすぐわかったけどな」
――そこまで気にしてるんなら、そもそも勝手に上がり込むな。
そう言いたいのをぐっとこらえ、逸郎は言葉を発した。
「くわしくは言えない。ていうか、俺も知らないんだけど、いま弥生は舘坂の自分の部屋に閉じ籠ってるはず。なにを考えどう暮らしてるかは俺も聞いてない。ただその辺りのことは、信頼できる奴がケアしてくれてるから、ひとまず心配はしてないんだ」
「ゆかりんか」
逸郎はそうだともそうでないとも答えない。
「あいつも水臭ぇなぁ。昼間だって本屋とかカフェとかで随分と一緒にいたのに、そんなことおくびにも見せやしない。ま、そーゆー奴だから信用できるってことなのかもしんないけどさ」
三杯目を湯呑に注ぎひと口飲んだシンスケは、でもよ、と繋いだ。
「弥生の件でおまえが責任を感じることは無いと思うぜ。どう考えても悪いのは槍須ひとりだし、ヤツの洗脳から逃げられなかったのは弥生の元々の耐性の弱さってだけ。たしかに物理的に別れることができてる今は、手を差し伸べてこっちに戻してやるには絶好機だよ。でも……」
そこで言い淀んだシンスケは、振り切るように湯呑を呷って言葉を繋げた。
「ぶっちゃけ、壊れちゃってんだろ? 槍須のヤツに滅茶苦茶にされて。可哀そうだし助けてやりたいって気持ちはマジわかるけど、別にそれをおまえがひとりで背負い込まなきゃいけない理由はないんじゃねぇか? だいたい元からつき合ってたわけでもないんだし。今まで通りフツーの先輩後輩でゆる~く面倒見てやれば、それでいいんじゃね?」
おまえがどうしても弥生じゃなきゃダメだって言うんなら別だけどさ、と吐き出すように言ったシンスケは新たな酒を注ぎ、黙り込んで湯呑と松前漬けとを交互に口に運んだ。
逸郎の頭の中で、壊れちゃってんだろ、という台詞がぐるぐると渦巻いていた。
――そう。確かに普通の感覚でみれば今の弥生は壊れてる。一カ月半かけて、槍須の手で念入りに壊された。だが、本当にそんな単純な話なんだろうか? 不可逆的に損なわれたものは間違いなく大きい。でもそれだけじゃなく、前向きに捉えてもいい変化の萌芽だってどこかにちゃんとあるんじゃないだろうか。
日本酒の杯を無意識に重ねながら、逸郎は思考の海に潜っている。淀んだ水は数センチ先の視界すら遮り、どこに向かえばいいのか皆目見当がつかない。このままでは息が続かなくなる。
――そもそも自分は必要とされているのだろうか?
行く先を失い途方に暮れる逸郎の背中に、遥か高い海面から薄く光が差し込むのを感じた。今はまだぼんやりとだが、確実に明るい光源。
「すみれちゃんはさ、そんじょそこらには見当たらない超がつく優良物件だよ。そりゃちょっとばかし年齢はイってるけど、クオリティはぶっちゃけファインの上をいってると俺は思うぞ。おっぱいもでかそうだし。いくら弥生のことが気になるっつったって、そのすみれちゃんとそこまで仲良くなっといて、今更その先に踏み込もうとしないってのは、むしろすみれちゃんに対して失礼なんじゃね? じゃね?」
――そうか。そうかもしれない。
逸郎はシンスケの言葉ひとつひとつが自分にしっくりと染み込んでいるのを感じていた。
――たしかに俺は、弥生と接してたときにあった無意識に上から見てる無理な姿勢を、すみれさんといるときはまったく感じてない。とても自然に、どっちが上とか下とか守るとか守られるとか、そんな余分な考えは無しでいられる。相手を認め、自分を認められ、そんな関係がきっとつくれる。お互いにそう思っていることもわかってる。
逸郎は、自分が少し酔い始めていることには気づいていなかった。
「なぁイツロー、これは俺の尊敬する人が言ってた言葉なんだけどさ」
そう言うとシンスケは咳払いをして姿勢を正した。
「イツロー、心に棚をつくれ」




