第37話 私、この下はシャネルの五番しか着てないの。
「どなた?」
ドア越しの返事が聞こえた。逸郎にとって、この一週間余りですっかり聞き慣れた声とは少し違う、トーンを落とし気味にした落ち着いた声色。
「逸郎です」
「ひとり?」
トーンが上がった。いつもの方。逸郎は、はい、と応じた。
「待ってたよ。入って」
ドアを開けて一歩踏み入れた横尾研究室は、簡素な印象だった。
――ものが少ないんだな。
無理もない。考えてみれば着任から三カ月そこそこしか経っていないのだ。研究室慣れしていない逸郎は、横幅よりも奥行きの方が広い部屋をぐるり見回した。
目の前には簡易ソファとミニテーブル、左右の壁と正面中央に書架が並んでいる。
「ちょっとその辺に座って、待っててね。あ、あと、鍵閉めといて」
いぶかしみながらも後ろ手でドアのシリンダー錠を回し、逸郎はソファに腰かけた。声は部屋の中央にある書架の裏側から聞こえていた。
――あの向こうにすみれ先生用のデスクがあるんだな。
んー、よいしょっと。
なにかと格闘するような掛け声と、擦れるような音。そのあとにジッパーを閉める長い音がした。
「できたー。おまたせ」
じゃーん、という掛け声とともに現れたのは、全身を黒い革ツナギで覆ったすみれ先生だった。
「どう? 似合う?」
黒いブーツと黒い革グローブもフルセットで装着したその姿は、彼女の素晴らしいボディラインを完璧に再現するシルエットでなぞっていた。フロントエントリーのジッパーを首まできっちり留め、豊かに盛り上がった胸を反らしてポーズを取ってみせる。すみれ先生はご丁寧にウィンクまでしてきた。
「黙ってないで、ちゃんと感想言って」
見蕩れていた逸郎は、我に返ったように口を開き、およそ大学生らしくない知能指数の低い感嘆を吐いた。
「かっけぇー」
「でしょー!」
杜撰な返答でも十分にお気に召したようで、すみれ先生はにこにこしながら回り込んできた。
「ほら、見て見て。昨日届いたばっかで、いま初めて全部合わせてみてるの。かっこいいでしょう。ほらほら、触ってごらん。カンガルーだよ。ワシントン条約ぎりぎりだよ」
そういいながらひじを突き出してくる。ソファから立ち上がっておずおずと手を伸ばし、指先でひじ辺りに触れる逸郎。
「そんなんじゃわかんないでしょ。ほら、こんな感じで触ってみて」
グローブを外したすみれ先生は、開いた素手で自分の左肩から腕の先まで撫でおろし、うっとりする。
じゃ、失礼しまして、などとぼそぼそ言いながら同じように彼女の左腕を肩から撫でおろしてみた。直接肌を触ってるみたいだった。
「すげぇ、しっとりくる」
「ねー、やっぱ本革は違うねぇ」
「これ、結構するんじゃないですか」
「オーダーメイドだしね、吊るしの倍はしたかな。原付ならラクに一台買えちゃうくらい」
逸郎の周りをくるくる回りながら喋るすみれ先生は、実に嬉しそうだった。
――オフタイムのこの人は、本当に感情表現が豊かだ。
動きを止め、急に真顔になったすみれ先生は、やや上目遣いの視線を正面の逸郎の目に合わせたまま、首元のジッパーに手を掛けてこう言った。
「私、この下はシャネルの五番しか着てないの」
そのままゆっくりとジッパーを下していく。首筋から下の白い肌が覗き、豊かな胸の谷間が見えてくる。
ゴクリ、と息をのむ音がした。むろん逸郎の。
「なぁんてね。うそうそ。ちゃんと中に水着着てるから。やっぱいっぺんやってみたいじゃん、峰不二子ごっこ」
大笑いしながら、すみれ先生はソファにどんと腰を落とす。これ、膝がちょっと曲げづらいんだよね、などと言いながら。
そのセリフはマリリン・モンローごっこでしょ、というツッコミを逸郎は呑み込んだ。
「てか、中、水着だけ?」
「そこツッコんじゃう? やっぱ健康な男の子だね、イツローくんも。お姉さん、ちょこっと安心したよ」
――俺、なんか心配されるようなことしてたか?
「ゆうべ袖通してはみたんだけど、中けっこうきつくてね。下着直くらいじゃないと足とか通らないのよ。上もタンクトップか、ぎりTシャツ。まぁイツローくんもアラサーの下着姿とか見たくはないだろうから、今日は水着にしてみました。ほら、こんな感じ」
そう言うと、すみれ先生はジッパーを一気にへそまで下ろしてみせた。白いビキニに包まれたボリュームのあるバストが窮屈な革スーツを左右に押し広げた。そのまま、よいしょ、と言いながら腕を抜いている。片方腕を抜くたびに両の胸がぶるんぶるん揺れている。
――総統、ヤバいです。ヤバすぎッス。
「この部屋ちょっと暑いんだよね。さすがに革ツナギで上から下まで覆ってると中汗だくになっちゃいそうだから。ごめんね。粗末なもんで」
上半身が白ビキニだけの半裸美女が、学術書籍満載の書棚を背景にソファに座っている。こんなにも背徳感溢れるエロい絵面、グラビアでも見たことない。
――これが粗末なら、世のグラドルの八割は粗末認定されちまう。
前かがみにならざるを得ない逸郎は、とにかく誤魔化そうとパイプ椅子に深く腰かけた。
「ち、ちなみに先生、昼間言ってたレポートってのは?」
目の前で揺れる極エロオブジェから意識を逸らすため、逸郎はあえて話題を変えた。
「え? レポート? なにそれ。あ、さっきの口実か。無い無い。あるわけないじゃん、そんなもん。イツローくんも覚え無いでしょ」
すみれは軽く笑い飛ばす。
――まぁ当然だよな。てことは、
「もしかして俺を呼んだのって、ツナギ姿を見せてくれるため?」
「ん。それもあるけど、あともう一個」
そう答えるすみれ先生は、ミニテーブルの下からなにかを取り出そうとしている。が、これがまた危うい。座ったまま屈みこむことで、肩甲骨のくぼみと重力に引っ張られる胸のボリュームがいやがうえにも目に飛び込んでくる。
逸郎は言葉にせずに呻いた。
――いったいこれはなんの拷問なのだ?
「はい、これ」
机の下からすみれ先生が取り出したのは、大量のバイクカタログだった。
「新しいのも古いのも、いろいろ取り揃えたよ。イツローくんこの前言ってじゃん。アメリカンに乗りたいってさ。ほら、もっとこっちに来て。乗りたいバイク、一緒に選ぼ」
ミニテーブルにカタログの束を載せたすみれは、申し訳程度の白ビキニに包まれた胸を揺らしながら手招きしてきた。
――無理です。俺、もう耐えられない。
逸郎は降参した。
「その前に先生、上になんか着てください。俺には刺激が強すぎます」




