第36話 いいわぁ。禁断の恋っぽくて。
裏で最後の片付けをする逸郎に店長の奥さんが声を掛けてきた。
「いっちゃん、今日はいい仕事したね。すみれちゃん、すごくいいよ。明るいし綺麗だし、楽しくお酒飲んでくれるし。ああいうお客さんが常連になってくれるとお店も華やぐんだけどな。いっちゃん、こんな同伴ならまたやってくれてもいいよ。ご褒美に、一杯目のいっちゃん奢りのボウモア十八年はお店から出しといたげる」
そこかよ、と逸郎は思った。が、一杯二千円がちゃらになるのは確かに助かる。
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逸郎に連れられて午後九時前にバー『ポットスティル』のカウンター席に座ったすみれ先生は、結局閉店間際まで居た。店長は逸郎に送らせようとしたが、すみれ先生がそれを固辞し、自分でタクシーを呼んで帰っていった。
この日はそこそこ客の入りもあったため、ゆっくり相手をできたのはすみれ先生が飲んでみたいと言って選んだ逸郎奢りの最初の一杯を終えるまでの間だけ。そのあとのすみれ先生はほぼずっと、店長の奥さんとのスピークイージーを楽しんでいたようだった。とくに若い頃はバイク乗りだったという奥さんの昔話や初心者向けのライディングテクニックについては、端から聞いていて実に盛り上がっていた様子。
「すみれちゃん、生まれは横須賀なんだって。あそこって米軍の基地があるんでしょ。そこの家族の子たちと友だちだったんで、よくベースの中でも遊んだって言ってた。そういやいっちゃんもあっちの方だよね」
うちは横浜の外れです、と手を休めずに答える逸郎の洗った皿やグラスを拭きながら、奥さんは話を続ける。
「すみれちゃん、まだこっち来たばかりだからお友だちも馴染みのお店も無いんだって」
奥さんの話から妙な圧を感じる。
「俺になにかさせようってんですか」
「んー、別にぃー。ただ、すみれちゃんはいい子だなーってだけ。うふふ」
さぁ終わった、と奥さん。逸郎も帰り支度をはじめる。店の掃除を終えた店長もモップ片手に戻ってきて逸郎に声を掛けた。
「お疲れさん。しかしいっちゃんにあんな素敵な彼女がいたとはね。おじさんびっくりだよ」
「さっきも言いましたけど、彼女はうちの大学の先生なんですって」
「先生と生徒! いいわぁ。禁断の恋っぽくて」
奥さんの相槌に、腕を組んだ店長もうんうんと頷いている。
――もう、この人たちは。
これ以上相手にはしてられない、と見切りをつけた逸郎は、早々に退散した。
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二日後に教習所で再会したすみれ先生から、逸郎は一本橋クリアの報を聞いた。店長の奥さんに伝授された奥義(これでもかというほど両膝を締めて、ひたすら肩の力を抜き、目線の高さで前方百メートルの一点を真っ直ぐ見続ける)によって、今まで眠っていた潜在能力が花開き、完璧なライディングができたんだそうな。話半分としても、見きわめが貰えている事実は揺るがない。
追いかける形の逸郎も順調に一週間余りの教習をこなしていった。さほど忙しくないのか、すみれ先生とは二日と開けず顔を合わせる。そのたびにお茶を飲み、たまにはいっしょに帰りのバスに乗り、同じゴールを目指す同志としての情報交換を行っていた。
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そんな七月上旬のある日のこと。
午前中の空き時間、逸郎は例によってシンスケと学食の片隅で駄弁っていた。明日出立するファインの見送りやその後に控える集中講義やらについて、とくに建設的な意見を交わすでもなくただ散発的に喋りあうといういつもの風景である。だから、逸郎の横に人が立ち止まっても、ふたりともまったく意識していなかった。
「田中逸郎さん。お休みのところ申し訳無いんですけど」
頭の上からかけられた呼びかけに逸郎もシンスケもぎょっとした。
声の主はかっちりした濃紺のスーツで身を固め、ボストンフレームの眼鏡をかけている。そんなスタイルで学内を闊歩する美女はひとりしかいない。すみれ先生だった。閑散とした学食でゼミ生でもないふたりの前に立つ若く美しい准教授。浮きまくった組み合わせであるこの構図を無視して、彼女は話を続けた。
「先日のレポートについて確認したい点があるので、今日の午後四時以降に私の研究室に来てもらえますか。詳細についてはそのときにお伝えします」
あっけに取られるシンスケは無視して、逸郎はとりあえず頷く。内容はどうあれ、これが自分に対してのアクセスだと気づくことくらいはできた。逸郎の受諾を確認し眼鏡の奥で一瞬だけ満足げな笑顔を見せたすみれ先生は、現れたときと同様、なにもなかったかのようなスマートさで歩き去った。その間約十五秒。まるで綺麗にまとまったCMのようだった。
当然のことながら逸郎はシンスケに詰められた。なんですみれちゃん先生がお前のこと知ってんの、から始まる雨あられのごとき質問攻め。
それもいたしかたあるまい。学部内で彼女のことを知らないのはそもそも大学来てない奴だけ、とまで表される殿上人の美人教授が逸郎のごとき末端学生に名指しで、しかも向こうからリマインドしにやってきたのだ。シンスケからすれば、昨日まで仲間だと思ってた奴が実は王家の筆頭後継者だった、くらいの感覚なのだろう。
執拗に尋ねられる呼び出し理由だったが、それについては逸郎自身にも思い当たる節はなかった。もちろん心理学関連のレポートなど出したこともない。が、いずれにしろ、今回の呼び出しがバイク教習以外の理由と考えるのは無理がある、そして、彼女が教習所に通っていることは秘密なのだ。だから逸郎は、こう答える以外にできることはなかった。
「横尾先生の勘違いだと思うけど、とにかくあとで行ってくるよ」
*
たしかに、ふたりともに本日の教習予約が取れなかったことは昨日のコーヒーブレイクでも話題にしてはいた。明日はお互いお休みだね、と言ってウインクした彼女の笑顔は憶えている。けれど、いったいそれがどう繋がるのか。
――学内で話しかけられたことなんて、今まで一度も無かったのに。
不安と好奇心半々のまま、逸郎は指定された時間にすみれ先生の研究室のドアをノックした。




