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駅弁大学のヰタ・セクスアリス  作者: 深海くじら
第7章 横尾すみれ
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第35話 足でもないのに二点支持で立とうなんて、力学的にも間違ってる。

 教習所から少し離れた住宅街の片隅にある、やや場違いな雰囲気のダイナーズカフェで、逸郎は大ぶりのハンバーガーにかぶりついていた。ファストフードなんかではない、本格的なハンバーガー。この街に来てはじめて、というより南関東の地元でも未体験なものだった。

 初めて食べる本物のお馴染みメニューに、逸郎はある種の感動さえ覚えていた。


――ハンバーガーってこんなに旨くてボリューミーなものだったのか。


「そんなに美味しそうに食べてくれてると、連れてきた甲斐があるよ」


 とは、目の前の美人、駅弁大学人文社会科学部発達心理学・人格心理学の横尾すみれ准教授その人の台詞。


          *


 今年の四月に赴任してきた横尾准教授は、その若さと美貌と颯爽たるいでたちから一躍学部の注目となっていた。本来であれば地味な部類の発達心理学概論が仮面受講生でいっぱいになり、急遽教室の変更を行ったという逸話もある。シンスケ情報によるとまだ二十七歳で、米スタンフォード大学で飛び級した上に博士号まで取得した才媛でもあるんだそうな。

 なぜそんな才能豊かなひとがこんなしがない駅弁大学を最初の教鞭(キャリア)に選んだのかは今年度最大の謎、というのがもっぱらな話だった。

 逸郎自身、連休前のまだなにも事件が起こっていなかった頃にシンスケに誘われ、物見遊山で一度だけ受講したことがあった。そのときは、新任とは思えない的確でわかりやすい講義に大いに感心したのを覚えている。門外漢の自分でも興味が湧いてくる、と。

 ただ残念なことに、九十はあるのではと噂される豊かなバストと女優顔負けの容姿に邪魔されて、講義内容への集中が十分でない男子学生が多く見受けられたのも事実であった。

 そんな赤丸急上昇中の才媛美女としがない学生そのものの逸郎が、なぜにふたりきりでアメリカンな食卓を囲んでいるのか?!



「あの教習所は大学から結構離れてるから大丈夫だと思ったんだけどなぁ」


 食後のコーヒーカップを置いたすみれ先生は、つぶやくように口を開いた。コーヒーはホットでブラックに限る。これもすみれ先生の流儀らしい。


「まさかあんなとこで大学(しごとば)のコに遭っちゃうとはねぇ」


――いや、送迎バス乗っちゃったらどのみち一緒じゃね。つか、大学生協で扱ってるだけでアウトじゃん。


 逸郎はそうツッコミたかったが、奢られている手前、黙ってコーヒーを啜った。


「田中一郎くん、だったっけ」


「逸郎です、イツロー。機会(チャンス)を逸するの逸に浦島太郎の郎。年じゅう学生服姿のロボットでも昔のロックバンドのギタリストでもありません」


「アイコピ。イツローくんね。覚えた。顔と名前を完全一致」


 すみれ先生は小首をかしげてウィンクを返してきた。


――こんな軽いタイプだったなんて、女子ってのはホント、オンオフの切り替えが半端ないな。


 逸郎は意外そうな表情をコーヒーの一口で隠した。


「でもイツローくん、私、大学(しごとば)ではいつも眼鏡してるじゃない。どうしてわかっちゃったの?」


 ベンチシートの隣に無造作に投げてある赤いブルゾンを一瞥した逸郎は、黒いタンクトップ姿のすみれ先生の胸を直視しないよう気にしながら応じた。


「先生の真っ赤なライダースーツはすごく目立ってましたから、顔もしっかりと見ちゃいまして、つい」


――眼鏡ひとつで変装した気になってるとか、どこのクラーク・ケントだよ。だいたいこれだけのグラマー美人は県内全域でもそうたくさんはいないでしょ。ひと目見りゃわかりますって。


「そうかぁ、派手なのは教習所ではやっぱりマズイかぁ。昨日届いたから、つい着てみたくなっちゃったんだよね。うん。次回からはやっぱ抑えめにしとく。それでさ、イツローくん」


 そう言いながらすみれ先生は身を乗り出してきた。逸郎は、コーヒーカップの縁に当たりそうな胸に気を取られている。


「私が教習所に通ってるの、内緒にしといてもらえないかな」


「え? あ、いいですよ、もちろん。元々言いふらすような趣味はないですし」


 気取られないよう視線を流した逸郎がそう答えるのを確認し、すみれ先生は勢いよくシートに背を預け大きく安堵の息を吐いた。弾みでタンクトップの胸が揺れる。


――この人の身体は危険過ぎるよ。


 逸郎は心からそう思った。


「よかったぁ。イツローくんがいい子で。実は私、ちょーっとだけ手間取ってるんだよね、技能教習。まぁほら、授業や準備の合間合間なんで、なかなかまとまった時間が取れてないから……」


――いや、そういうレベルでは無いと思う。


「失礼ですが先生、いつ頃から通い始められました?」


「……ん」


 口ごもるすみれ先生は、しかし、逸郎の視線に負けて重い口を開く。


「……GW(ゴールデンウィーク)の前あたり、かな」


 GWというキーワードに鈍い痛みを感じた逸郎だったが、それはさておいても、もう二カ月は経っている。そのうえで……


「まだ一本橋?」


――しまった! 口に出ちゃった。


 自らのミスに気づいた逸郎だったが、もう遅い。瞳が見開き口元を抑えるすみれ先生の貌は、事態が不可逆な相にシフトしたことを物語っていた。


「見、て、た、の ?!」


 逸郎は観念して頷いた。ブルゾンと反対側に置いてある赤いヘルメット、最初は新品に見えたそれだったが、よく見るとあちこちに細かい傷がついている。

 すみれ先生はがっくりと肩を落とした。


「すいません。さっきの教習、たまたま見学してました。あ、でも、これからだと思いますよ。第一、俺なんてまだはじめてすらしてませんし」


「同情はよして。そうなの。私には向いてないのよオートバイなんて。だいたい足でもないのに二点支持で立とうなんて力学的にも間違ってる。二カ月も経つのに、もらえたハンコは引き起こしと取り回しと発進・停止だけ。みんなどんどん抜かしていくのよ。イツローくんだって、きっと……」


 うなだれて今にも泣きそうなすみれ先生を目の当たりにして、逸郎は狼狽えた。


――こんなすみれ先生、きっと誰も見たことないんじゃないか。いや、そんなことよりも、今は元気づけなきゃ。だが、そろそろ時間が。


「先生、俺、そろそろバイトに行かなくちゃいけないんです。で、提案なんですけど、先生、明日は忙しいですか?」


 明日はお休み。うつむいたまま首を振ってすみれ先生はそう応える。そしてすぐに顔を上げた。


「なに? デートのお誘い?」


 こころもち頬が紅潮していた。


――そういうのアリの人なの?


「や、そうではないんですが、俺のバイト先、下ノ橋にあるバーなんです。自分で言うのもなんなんですが、すっごく良いバーで。お値段はどれもそこそこするから間違ってもうちの学生とか来ないし。で、もし先生がお酒嫌いじゃないんなら、今から一緒に行きませんか? 全部とは言えないけど、最初の一杯くらいならなんでも奢ります。いいお酒飲んで、気持ちを切り替えません?」


 すみれ先生は表情を和らげた。年相応の顔。俺たち若造とは違う、ちゃんとしたお姉さんの顔。逸郎はすみれ先生をはじめて、魅力的な女性だと思った。

 と、その顔に悪だくみの表情が浮ぶ。


「その話、乗った」

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