第34話 でも、先生なんだよね。
市庁舎前からの送迎バスに揺られて三十分。向かう先は杜陸と滝沢の市境にある自動車教習所。いつも乗る大学生協前とは勝手が違うため停留所を探すのに少し手間取ったが、目標のバスにはなんとか滑り込むことができた。
ぎりぎりで午後二時半からの学科教習に間に合った逸郎は、そのまま夕方まで三コマの講義を受けた。本日の技能教習は予定していないので今日はここまで。カウンターで明日以降の予約手続きを行ってからロビーを見回した。
「そろそろ出てくるかな」
と、奥の通用口から技能講習を終えた受講者数名が、一様に新品のヘルメットを抱えて戻ってきた。列の一番後ろに横尾すみれの姿が見える。ベージュのサマーブルゾンとデニムパンツ、足元は茶色のショートカットブーツ。
逸郎は自販機でコーヒーを二つ買うと、疲れ切った顔でベンチに座り込んでいるすみれに近づいて行った。
「すみれさん、お疲れ様。今日のライディングはどうでした?」
いつもありがと、と言って、すみれは茶色のグローブをはめたままの左手で差し出されたコーヒーを受け取った。右手は上げて、サムアップのサイン。
「ハンコもらえたよ、急制動。いよいよ次からはコース走行。なんか七月中に取れそうな気がしてきた。イツローの励ましのおかげかな」
「ここんとこ順調ですね。でも近いうちに俺も追い付くから」
どうだか、と笑いながら、すみれは紙コップをそっと足元に置いた。左隣の席の赤いヘルメットを両手で膝に移し、仮置きした紙コップをグローブの右手で拾い上げると、空いた左手でポンポンと席を叩く。笑顔の逸郎は自然な動作でそこに腰を下ろした。
ベンチの隣でヘルメットを抱くようにして座るすみれを、逸郎は足元から順に見つめる。傷跡だらけのブーツに履き古しのデニム、いかり肩のブルゾンは作業着のようで愛想が無く、オーバーサイズ気味なのでプロポーションも隠している。胸元に届く黒髪は、せっかくの艶もヘルメットによる頭頂部の潰れで台無しだ。ファッションに疎い逸郎の目から見ても、お世辞にもお洒落とは言い難い。というか、はっきりダサい。
にもかかわらず、それらのマイナスで彼女の魅力が損なわれることはなかった。化粧っ気の少ない小さな顔の完璧な輪郭。手書きでもないのに弓なりで美しいラインの眉、つまようじなら二、三本は載せられそうな長いまつげとくっきりした二重の大きな瞳。高過ぎず低すぎずの形の良い鼻梁。口角が上向きで表情豊かなくちもと。
実物よりひと回り以上大きな手で紙コップを挟み、ふうふうしながらコーヒーを飲むその横顔は、まるで絵に描いた美少女のようだった。
とてもアラサーになんか見えない。逸郎は心底そう思う。
――でも、先生なんだよね、これが。
*
逸郎が講義室以外で最初に横尾すみれと遭ったのは、今月初めのこの場所でだった。
弥生を放し飼いにすべしという由香里の助言は、実際のところ逸郎にとってかなりの難物だった。行方不明だったひと月半に溜め込んだ鬱屈は、彼女の居場所と状況が手に届くところに戻ってきた今や、直接手を差し伸べたい気持ちで爆発しそうなのだ。してやれることを常に考え、妙案でも思いつけばすぐにでも実行し、善き方向に導きたい。己をなにかで縛りつけでもしない限り、干渉に及んでしまうのは火を見るよりも明らかだ。だが、あの鬱屈に加えて新たな、しかもいつ解除されるかもわからない縛りによるストレスは、それこそ自分自身を壊すことにもつながりかねない。
じゃあどうすればいいのか。
やはりなにか、弥生とは関係の無い別のことに集中するのが早道だろう。そう考えた逸郎はこの機会に、以前から興味のあった二輪免許の取得を思いついた。
強襲の作戦会議のときに聞いた由香里の兄の話はそのきっかけでもあったが、遠すぎるバイト先への通勤に音を上げてきたのがそもそもの主要因だった。逸郎が住む高松の池からバイト先の下ノ橋へは徒歩だと四十分くらいかかる。昼間は大学からだし、なんならバスもあるからまだいいのだが、店仕舞いを終える時間には当然のことながら走ってくれているバスなど無い。かといって他に手段も無いので、結局歩いて帰るのが常となる。
幸い貯金はまだある。バイトの収入も安定しているので、ここらで移動革新を図るのもいいかもしれない。思いついたが吉日ということで、逸郎はさっそく自動車教習所に入校したのだ。
送迎バスで教習所に着き、ガイダンスまで終えた逸郎は、しばしコースの見学をすることにした。レベルのさまざまな教習車が外周をのろのろと走る中、コースの真ん中あたりでヘルメットをかぶった集団がいるのが見えた。逸郎は彼らを見やすい場所に移動した。
どうやら一本橋というメニューをやっているようだ。幅十五センチの直線路を七秒かけて渡り切るという単純なものらしいが、直線自体が地面から数センチ盛ってあるためタイヤを外すとすぐわかるんだそうな。一台ずつ慎重に挑戦している。
――この人はちょい早いんじゃないかな。この人は上手い。こっちの人はなんかぶれぶれな感じ。
逸郎も集中して見学する。
最後に全身赤でキメた小柄な赤ヘルが試技をはじめた。目立つけど格好はいい。細身のボディラインと後ろに垂らした黒髪から、ほぼ間違いなく女性。これは期待してしまう。たくさんのランプを付けた教習バイクに跨ったショッキングレッドはしかし、橋に乗った段階で素人目にもわかった。
――これはあかん。
軸がなってないのだ。
案の定、半分もいかないところで脱輪し、さらにこけた。いたたまれなくなって、逸郎は目を逸らした。
――あんなの見ちゃうと不安になるよな。
気にはなったし、なによりも素顔を見てみたい。そんな興味本位で、逸郎は赤ヘルさんが戻ってくるのをロビーで待つことにした。ヘルメットを両手で抱え、バイク教習生の一番最後からうなだれて戻ってきたショッキングレッドに、逸郎は見覚えがあった。といってもこんな消沈した顔は見たことが無かったが。
考えるより先に動き出した足は、彼女の前で止まった。
「もしかして、横尾先生、ですか?」




