第33話 美味しかったんですか。旨かったんですか。それともデリシャスだったんですか?
「いいよなぁファインは。こっちの集中講義なんて無視してイギリス短期留学とか行っちゃってさ」
隣の席でシンスケがシャーペンを手際よく回しながら愚痴ってきた。いつもながら上手いもんだなぁ、と感心しながら逸郎は言葉を返す。
「ロチェスター・インディペンデント・カレッジのことか」
「そ、それそれ。ずりぃよな、親が金持ちってだけでさ。もうあっちに転籍しちゃうんじゃね?」
「サマープログラムって聞いてるよ。向こうで取得する単位はこっちでも認定されるっていうから、言ってみればこの集中講義と同じだよ」
「ちくしょー。俺も海外でのんびり単位取りてぇ」
シンスケは背を反らせてグーの万歳で伸びをする。
――最後列の席だからいいようなものの、後ろに誰か座ってたら殴ってるヤツだな、これは。
「のんびりなわけないじゃないか。だいたいにしてシンスケ、お前、英語できないだろ。涼子はペラペラだぞ。ゲームでも向こうのプレイヤーとチャットしながらやってるって言うし」
「え、マジ?! それ俺聞いてないわ。神だな」
チャットどころか、もっとずっと親密なコミュニケーションだって……、などと語りだす逸郎ではない。これは逸郎だけが知るファインの秘密。今回の留学先にしたって、ロチェスター在住のおじさまの手引きがあってのことだろう。
先日の見送りのホーム、発車を知らせるベルの中で逸郎は、周りに気取られぬよう気にしながらひと言だけ尋ねた。
――されにいくの?
ファインもまた、んふん、とだけ応え、笑いながら閉まるドアの向こうに消えていったのだ。
「ドメスティックな俺たちは、蒸し暑い日本の教室で粛々と講義を受けるしかないのさ」
「ファイン先輩のことですか?」
シンスケの側を向いていた逸郎はいきなりの背後からの声に虚を突かれた。ふりむくと由香里がすました顔で座っていた。
「原町田……」
「もお、ゆかりんって呼んでくださいって言ってるじゃないですか、イツロー先輩。いつになったら憶えてくれるのかなぁ」
ぷんすか、と言いながら由香里は頬を膨らませている。マンガかよ、と逸郎は口の中だけで言う。
「なんで一年の、……ゆかりん、がここにいるんだよ」
「ぎこちないですねぇイツロー先輩は。そんなの、仮面受講に決まってるじゃないですか。予定してた講義が休講になったんでヒマつぶしを探してたら先輩たちが入っていくのが見えたんですよ」
そんなことより、と言葉を繋ぐマイペースの由香里。喋りだしたら途切れるということを知らない。
「いいですよねぇ、ファイン先輩。美人だし頭いいし、おまけにゲームはめっちゃ強いし。そこにもってきて今回はさらに海外留学ですか。素晴らしい。我がサークルの宝ですね、まったく。あたしとタメなのは彼氏がいないってとこだけですかね。ていうかファイン先輩、来月のダイハン世界大会はどうするおつもりなんでしょう?」
――相変わらず自分のペースで突き進むな、この娘は。
半ばあきれ顔の逸郎は、相手にすること自体を放棄して顔を前に戻した。だがこの話題にはシンスケが食いついた。
「そうだよ。招待状届いたって言ってもんな、あいつ。でも留学期間まるかぶりじゃね? いくらネット開催つったって、対戦ともなったら通信データ量半端ないから無線なんかじゃタイムラグでぼろくそにされるぜ。あの勝気なお姫さまはそれで納得するんかね」
逸郎はふたりのお節介さに肩をすくめた。
――これじゃ井戸端のおばちゃんたちだよ。じきに講義が始まるっていうのにそんなんで盛り上がっててどうすんの。そもそもお前らがそんな心配しなくても、涼子のメインマシン環境のクローンくらいおじさまが専用光回線付の部屋ごと用意してくれてるよ、間違いなく。
「英国クォーターだから、向こうにも親戚くらいいるんじゃない? ほら、先生のご入場だ」
逸郎はわざと興味無さそうな顔をして両脇のふたりを黙らせた。
*
午前中の二コマをフルに使った集中講義を終え、三人は街まで食事に出ていた。
「このあっつい中、なんでわざわざ三十分も歩いてこんな昭和な店まで来なきゃなんないんだよ。開いてたんだから学食でもよかったじゃないか」
「ものを知らないイツロー先輩は黙っててください。他のお客様に迷惑です。この店は私たち市民にとって胃袋の聖地と言っても過言ではない桃源郷なのです」
逸郎がこぼす不平とそれを蹴散らす由香里のやりとりの横で、シンスケはさっき注いだばかりのセルフの麦茶をもう飲み干している。
五十年前からこのままだと言われても疑わない年季の入った店のカウンターにシンスケ、由香里、逸郎の順で並んで座っている。壁にはどう見ても十年以上は飾ってある来店芸能人の色紙が何枚かと、いつ特集されたかもわからない新聞記事。近所の役所や放送局から来店してる社会人や学ラン姿の高校生、何してるかわからないおじさんおばさんで席は埋まっており、ガラス引き戸の向こうには並んでる人たちの影も映っている。
目の前の、滑したようなカウンターに置いてあるのは箸壺とラー油、おろしニンニク、酢、そしてなぜか丼いっぱいの卵。内側では噴き上がる湯気の中で割烹着のおばちゃんたちが忙しく立ち回っている。
「寮生のシンスケさんならばさすがにご存じでしょう」
「ああ、知ってる。俺も一年のとき同室の先輩にここ連れてこられた。あと糸引き極辛の冷麺とな。てか、あんときイツローはいなかったっけ?」
「たぶん、俺が宿酔いで寝込んでた日だよ」
そうだそうだ、と相槌を打ち、シンスケは続けた。
「ただ奢るんじゃ面白くないって、一時間そこそこで両方とも食わされたんだぜ。この店と食道園と。これが杜陸の味だって言われながらさ」
どうです、という自慢顔で鼻息も荒い由香里。
――お前の店なのかよ。
普通ひとつね、とおばちゃんに渡された広口の浅い皿は、白と緑と限りなく黒に近い焦茶、そして申し訳程度のサイズなのに存在感だけは強烈な紅で構成されていた。
逸郎はどうしたものかと横を見た。隣は、すでにどっさりのニンニクを黒い肉味噌の上に乗せ、ラー油を回し掛けしている女子大生。両手を合わせて箸を割り、湯気の立つ真っ白な茹で麺と太めに細切りした胡瓜に泥のような肉味噌を混ぜ込んで汚している。視線に気づいた由香里は、うんざりした顔で逸郎を睨んだ。
「何ぼーっとしてるんですか。早く食べないと後ろが詰まってるんですよ。もう、ホントにイツロー先輩は世話が焼ける」
それだけ言うと、あとはもう関係無いとばかりに皿に全集中する由香里。見れば他の客もみな同じものを食べている。これしかないのかよこの店は。そうは思ったものの、このメニュー一本で推定半世紀の栄華が続いているわけだから、そこに何も無いはずもない。逸郎も観念し、箸を割って参戦した。
*
「いや、なんかクセになる感じの食い物だな、あれは」
店に面した参道を歩きながら逸郎はそう評した。
「あと、最後の卵汁も優しい感じで良かった」
「ちーたん、もしくはちーたんたんです。卵汁なんて言う素人は、この街の市民には要りません。で、美味しかったんですか。旨かったんですか。それともデリシャスだったんですか?」
――それ、全部一緒やん。ていうか、好評価以外は認めないってその姿勢はどうなのよ。
そう思いながらも、逸郎はそれらを認めた。
「美味しかったよ。見た目よりも遥かに」
ニマーッと笑い、何度も頷く由香里。腕を組んだうえに胸まで張っている。隣で同調するシンスケもしきりと頷いている。逸郎はふたりの納得顔を交互に見返した。
――お前ら仲間だったのか?
「いやぁ先輩、危ないところでしたね。危うくマイナス十万点を食らうところでしたよ。そうなったら市民権剥奪ですから。まさに剣ヶ峰でしたね」
――おまえ、わざわざ暑中行軍までしてそんな薄氷を俺に踏ませたのか。これで口に合わないとか言ってたら俺は放逐され、この街出入り禁止にされてたのかよ?
抗議の声を上げんとする逸郎をするりといなし、由香梨はことも無さげに話題を変える。
「ところで先輩、あたしはこの後、シンスケさんをお供に本屋さんに赴くのですが、なんだったら先輩もお供の末席に加えて差し上げてもいいですよ。特別に許可します。いかがなされますかね」
慇懃な口調なのにえらい上からのお誘い。しかし逸郎はあっさりとお断りする。迎えの時間が迫っているのだ。
「このあとちょっと行くところがあるから、俺はここで別れるよ」
「なんですかそれ、可愛い後輩を放っぽってまでして行かなきゃならない用事がこの世にあるなんて、聞いてませんよ。イツロー先輩は超冷たい。冷た過ぎます。まさかの冷血人間。ブリザードイツローですか」
由香里の罵詈雑言を背中で受け流して歩き出した逸郎に、追ってきたシンスケが小声で尋ねる。
「もしかして、すみれちゃん?」
「そんなんじゃねぇよ。ただの教習」
乱暴に応え、挨拶もせずに先を急ぐ逸郎を、シンスケは意味ありげに笑って見送っていた。




