第31話 ノイマン型コンピュータとおんなじだよ。
ホテルの外はすっかり五月晴れのお昼でした。
暗い迷路のような出口から明るい光の下へ踏み出した私は、ひどくうらぶれて見える建物から出てきたことに途轍もない恥ずかしさを覚えました。消え入りたい気持ちでいっぱいって、まさしくこれ。でも幸いにも人通りは無く、隣にある八幡宮の境内にすぐに逃げ込むことができたのでほっとしました。
境内では保育園の園児たちがはしゃぎまわっていて、手を繋ぐ私たちのすぐそばまで走ってきます。こんなのどかな初夏の空の下で気持ちのいい風にあたっていると、暗く匂いのこもった部屋の中でついさっきまで繰り返していた痴態など、まるっきり無かったことのように感じました。
このあとうちに行くから、と槍須さんは話しかけてきました。
「何度も中でしちゃったし、デキちゃうのはやっぱマズいだろ」
そうでした。やっぱり無かったことにはならないのです。
受精のメカニズムについては授業で習いました。だから不用意なことはしてはいけない、と。忘れていたわけでは無いのですが、そういう生物学的判断は、モラル自体が破綻していたあの状況ではこれっぽっちも働かなかったのです。今更ながら私は震えました。お母さんになっちゃうかも。まだ大学入ったばかりなのに、いろんな手順を全部飛ばして。
「怖がんなくても大丈夫。うちに行けばアフターピルがあるから」
槍須さんは私の頭をぽんぽんしながらそう言いました。聞いたことのない単語。私は尋ねます。
「弥生はアフターピルも知らないの? ほんっと箱入りなんだな」
そう言って笑う槍須さん。どうせもの知らずですよ。私は少し膨れます。
彼の話によると、レボノルゲストレル(とても一回では憶えられない!)というその錠剤を服用すると、私の中に入ってきた彼の精子がたとえ卵子にまでたどり着いたとしてもその受精卵を正しい場所に着床できなくしてくれるんだとか。そんな避妊方法もあるんだ。私はまた新しい知見を得ました。
「あれが無けりゃ、今ごろオレにはあちこちに何人も子どもができてるよ」
また笑う槍須さん。それはそんなに可笑しいことなのかしら。
「そんなに何人ものお相手と槍須さんは、セッ……あんなことをされてるんですか」
繋いでない方の手で指折り数える彼。あ、でも指の折り方がなんか変。ぶつぶつと数字を数えながら続く槍須さんの指折りは、薬指だけ伸ばしたグーで終わりました。
「二十……三人、かな」
弥生は二十四番目、と節をつけながら薬指を折り、代わりに親指と人差し指と中指を伸ばした銃のような形にして私を撃ち抜く槍須さん。
「でも、一番だったぜ、弥生は。今までで最高。具合も相性もね」
何度も噛まれた耳たぶが熱くなるのがわかった。私はそれを誤魔化すために質問しました。
「今のその数え方ってなんですか? 片手なのに二十三って…」
人数じゃなくてそっちかよ、そう笑いながら槍須さんは教えてくれます。
「二進法だよ。指一本一本にオンとオフの二つのモードを与えて、その状態を合算して数えるやり方。ノイマン型コンピュータとおんなじだよ。ほら、こんな感じ」
彼は歩みを止め、私の目の前で手を開いてその数え方をやって見せてくれました。親指を折って一、その親指を伸ばし、代わりに人差し指を折って二、人差し指そのままで親指を折って三、……。
「片手で三十一まで。両手使ってこれやると千二十三まで数えられるんだぜ」
指折り数えられるのは十までだと思い込んでいた。私の知らないことは、こんなところにまで及んでいました。本当に私はもの知らずだったのです。
八幡宮を抜けた先のコンビニで少し買い物をしました。サンドイッチと水、それに替えの下着。そういえば私たちはあのコンパのあと何も食べていなかったのです。
「運動だけなら、ふたりであんなにやったのにな」
槍須さんはレジの前なのにそんな恥ずかしいことを、わざと言ったりします。でも、それがそんなに嫌じゃない。昨日までの私とは確実に変わってきていました。
槍須さんの部屋はホテルからそれほど離れていない古いマンションでした。
コンビニ袋を提げた私は、槍須さんに手を引かれてエントランスに入ります。そんなにしっかり握らなくても、もう逃げたりしないのに。




