第29話 私の処女を貰ってください。
タクシーで連れてこられたのは、歓楽街の外れにあるホテルでした。ここが何のためにあるのかくらい、もの知らずの私でもわかります。とは言うものの、中で行われるのがどんなことなのかについては、そのときの私の知識からでは霞がかかったイメージくらいしか引き出すことができませんでしたが。
ホテルの前で引きずり出されるように降ろされたときも、私は逃げようと試みました。お酒と車の酔いでいつもの半分以下になってる頭でだって、このタイミングしかないってことくらいはわかるのです。でも身体は思うようには動いてくれませんでした。
指を絡めて繋がれた手は、弱り切った私の力ではふりほどくことすらできません。玄関口でもみ合っているうちに抱き寄せられ、またしても唇をふさがれてしまいました。口の中を侵入してきた舌は、すでに一度訪れたところと勝手知ったる様子で私の咥内の弱いところを突いてきます。先輩の舌が口の中のスイッチをひとつ入れる度に、なけなしの私の手足の力はさらに抜けていくのです。
力が全て抜けきったのを見計らって、槍須先輩は私を魔窟のロビーに誘いました。知らなかったのですが、ああいうところは無人が普通なんですね。
イオンのフードコートにあるような四角く区切られている大きなディスプレイにはひとつひとつ別々に、妖しい照明で撮影された部屋、というより寝台の画像が嵌っていました。圧倒的存在感を主張するベッドは、その一室で行われるすべてのことを象徴しています。そこに私は連れていかれようとしている。私の拙い想像力は、そのときすでに焼き切れていたはずです。
無造作に部屋を選んだ槍須先輩は、落ちてきた大仰なキーを弄びながら私をエレベーターに引きずっていきました。そのころには絡めていた指も力の入ったものでもなく、振りほどこうと思えば振りほどけたと思います。でも私にはもう逃げだす力は無かった。私の自由意思は、すでに槍須先輩に蹂躙されていたのです。
エレベーターの箱の中で壁に押し付けられて、三度目のキス。それはいままでの暴力的な圧力が影を潜めた優しく緩やかなものでした。恥ずかしいことに私はそのキスを好もしいとさえ感じたのです。
はじめての部屋は憶えています。四〇四号室。その部屋の前で絡めていた指をほどくと、槍須先輩はさっきまで掴んでいた私の掌にルームキーを乗せてこう言うのです。
「さ、弥生。オレたちはこれからふたりで愛をつくる部屋に入るんだ。最後の鍵はきみ自身の手で開けるんだぜ」
槍須先輩は私に尋ねたりしなかった。ただ自分の意志でドアを開けろ、と。
勢いに流された私は小さく頷きました。頷いてしまったのです。
中は思った以上に狭い部屋でした。というより、大きなベッドの周りに壁板を立てて囲った、そんなサイズ感。でも部屋について頓着する余裕があったのはそこまでです。
私のコートを取り上げ、次いで自分の上着を脱ぎ、その両方を丁寧にハンガーにかける槍須先輩。私はそれを、ただぼーっと見ていました。向き直った彼は何も言わずに私を抱きしめ、そのまま覆いかぶさるようにベッドに倒れこみました。横臥した私の上で上体を起こし胸をまさぐりはじめた彼の手にびっくりした私は、間抜けな抗議を吐きます。
「やめてください。なにするんですか。だめ、そんなとこ触っちゃ!」
莫迦ですよね。今からそういうことをするから部屋を開けなさいって、ちゃんと先輩は言ってたじゃないですか。そしてそう言われてドアを開けたのは、ほかならぬ私自身じゃないですか。私は本当に、徹頭徹尾なんにもわかっていない子どもだったのです。躰だけは一丁前のくせに。
もちろん彼は手を休めてくれたりなんてしません。ブローチが付いたままのブラウスのボタンを外して下着を露わにし、首筋を舐めまわし、耳を甘噛みし、ディープなキスをします。そして口を吸いながら裸になってしまったお腹やわき腹を直接まさぐるのです。私は渾身の力を振り絞り、彼の両肩を下から押し上げました。
「お願い。私はじめてなんです。手を繋ぐのもキスするのもなにもかも全部。だからお願い。せめて、優しくして」
あのとき彼が笑わないでいてくれたからそれからあとの一カ月余りがあったのだ、と私は確信しています。
「そんなこと、言われなくてもわかってる。弥生が処女だってことなんて百キロ先からだってお見通しだよ。安心しなって。人生の先輩のこのオレが、弥生にセックスのすばらしさを零から教えてやるからさ」
さきほどまでとは打って変わった落ち着いた声の槍須先輩は、私の躰から離れてゆっくりと立ち上がりました。重石から解放された私は身体を起こします。先輩はシャツを脱ぎ、それを横のスツールに架けてから、入り口近くにある小さな冷蔵庫に向かいました。ベッドサイドに座り込む私はと言えば、次に何をすべきなのかがまったく思いつかないまま、乱れたブラウスを両の腕で抱くように押さえるだけ。
庫内の明かりが漏れて何かを取り出す先輩の裸の背中が影になったのを見て、私の胸が高鳴りました。まるで意思とは無関係に。
私はいったい何を期待しているのでしょう。ブラウスのボタンの留め直しもせずに。これ以上の最悪は無いっていうのに。
槍須先輩は冷蔵庫から取り出したものの片方を私に手渡してくれました。私にはウーロン茶、自分にはビール。プルトップを開けた槍須先輩は回り込んでベッドに上がりました。背中をヘッドボードに預けて落ち着けるポジションを確かめてから、私に尋ねてきます。知ってるかい、と低い声で。
「処女ってのはさ、男にとっては勲章みたいなもんなんだ。選ばれた最初の征服者、名誉ある初登頂、最初の足跡を印す上陸者。男なら誰でも一度は夢に見る。ましてやそれがハイクラスの女の子ならもう最高だ。死ぬまで自慢できる。あの女の最初の足跡はオレがつけたんだってね」
内容とは裏腹なひとを惹きつける声色。毒気を抜かれたかように、私は彼の話に聞き入っていました。
「でも一方で、女にとっては自分の処女など重荷以外の何物でもない。捨てられるもんならゴミ箱にだって捨てたいと思うくらい邪魔ものだ。だってそうだろ? 股なんて、これから何百回も開くんだぜ。処女を捧げるとかって偉そうなこと言ったって、所詮初めて逆上がりできたとか自転車に乗れたとか、そんなもんと同じことなのになんでそれほど大仰なってな。最初のときのことなんていちいち憶えてられるかって」
そんな戯言、聞いていてはいけない。それよりも動いて! 逃げて! そう叫ぶ裡の声がか細くなって、みるみる聞こえなくなっていく。それよりも、この心地よい声が語る理がどこに帰結するのかを最後まで聞き尽くしてみたいという意味不明なこだわりに、私の耳は縫い取られていました。
「だからさ、男が牛耳る社会では、女がそんなに簡単に処女を捨てたりできないように呪いをかけるのさ。男にとっての価値を下落させないようにね。本当に大事な人ができるまでとっておきなさいとか、結婚して初めてするものだとか。処女じゃなきゃ初摘み葡萄は踏ませてもらえない、なんて話だってどっかの国のワイナリーには残ってたりする。ホントお笑いだよな」
そこまでを一気に語ってから槍須先輩は、手にした缶ビールをぐいとあおってヘッドキャビネットに置きました。私は先輩の言う『呪い』に思い当ってドキリとした。それが顔に出たのでしょうか。先輩は私を見てにやりと笑いました。
「弥生もそう言われて今まで育てられてきたんじゃないの? ばかばかしい。今の時代結婚しない女なんて五万といるんだぜ。そいつらみんな、死ぬまで男と寝ちゃいけないのか? 中年初婚のご婦人は、自分の一番輝かしい時期に身体の快楽を満喫しちゃいけないってのか? なぁ、無意味だと思うだろ。それこそが、男社会が女たちにかけた呪いなのさ」
槍須先輩は缶ビールの残りを飲み干してから片手でぐしゃっと潰しました。まるでなにかの象徴のように。そうしてかちゃかちゃとベルトを緩め、チノパンを脱ぎ捨てました。生まれてこのかた見たことの無い小さな、そう、競泳選手の水着のような黒い下着。そしてその中心が小山のように盛り上がっています。
「だからさ、オレは女の子のそんな呪いを解いてやるんだよ」
こいつでね、と言いながら先輩はその小山を指差しました。いつもならそんなものからはすぐに目を逸らして見なかったことにする。けれどそのときの私は、先輩が指差すその黒い小山から視線を逸らすことができませんでした。
「さあ、次は弥生の番だ。立ち上がって自分で服を脱ぐんだ。そして、口に出してオレに言ってごらん。私の処女を貰ってください。私の死ぬほど邪魔な処女をあなたのそのちんちんでぶち破ってくださいって」
私はいったいなにをさせられてるの? 今なら、この人は裸で私はまだ服を着てる。今なら、この人はベッドに寝ころんでいて私は座っている。今なら、立ち上がって走り出せばここから逃げだせる。
それなのに、逃亡を急かす私を無視した私は、槍須先輩がたった今私に授けた悪魔の呪文をまるでアリババのそれのように口の中で反芻していました。そのときの私の中に、イツロー先輩の優しい面影はもはや見当たらなかったのです。
「ちんちんが難しけりゃ、そこ、でもいいぞ。今だけは」
先輩の助け船が最後の一押しになったわけではありません。でも私は立ち上がりました。そして、イツロー先輩のために履いてきたスカートを自分でファスナーを下ろして床に落とすと、見知らぬ闇に繋がる岩戸を開くための呪文を口にしてしまったのです。
「私の処女を、貰ってください。あなたの、そこ、で、私の自由を縛りつけてる忌まわしい壁を、ぶち破って」
「まかせろ!」
そう叫んで勢いよく起き上がった槍須先輩は、光の速度で私を抱き上げ、体勢を入れ替えました。大きなベッドの真ん中で、前がすっかり開いてしまったブラウスと上下の下着だけの姿を晒す私を見下ろして先輩は言いました。
「えらいな弥生、よく言った。記念に動画撮ってやるよ。鬱屈した処女の最後の姿と処女でなくなった輝かしい最初の姿を」
そんな滅茶苦茶な提案にも、わたしは小さく頷いてしまったのです。




