第28話 私、降ります、運転手さん。
本当に挨拶だけのつもりでした。だって私の心は、早くイツロー先輩の下に戻って、先輩を安心させたい気持ちでいっぱいでしたから。
ふたりでゆっくりと愛を育んでいく。最初のデートで手をつなぎ、最初のキスは夏の終わりの砂浜か草原で。先に卒業する先輩が安心できるちゃんとした仕事を携えて、私の卒業式の日に迎えに来るんです。真新しいペアの指輪を手にして。そうして私たちは心身ともに結ばれる。
そんなところまで一気に、そのときの私は夢想していたのです。
でも結局、イツロー先輩の下に戻ることはできませんでした。
「いいねぇ弥生ちゃんのお洋服、シンプルで。なんかカリ城のクラリスみたいじゃん」
自己紹介のあと、槍須先輩はすぐに私のコーディネートを褒めてくれました。気づいてもらえたのは嬉しいけど、どうせならその台詞はイツロー先輩に言って欲しかった。そう思って視線を向けたけど、イツロー先輩は向こう側の席の人と喋っていて、こちらを向いてはいませんでした。
未成年だからとお断りしていたのですが、同級生のゆかりんが飲まされているのに、私だけがお酒をいただかないわけにはいきません。一杯が二杯、二杯が三杯と重ねられ、気がついたらゆかりんがいなくなっていました。周りの先輩方のお話によると、酔って気分が悪くなったので手の空いてる二年生に介抱してもらってるんだとか。
「ゆかりんちゃんはさぁ、もう戻ってこないよ。たぶんあのままホテルにでも連れてかれちゃうんじゃないのかな。ほら、さっきまであそこに座ってた奴もいないだろ」
槍須先輩が空席と指差したのは私が最初に座っていた席の隣でした。イツロー先輩の姿は無く、私のと並んで二枚の座布団が置かれているだけ。向かいにも空いた座布団がひとつ。よく見るとゆかりんの持ってきたショルダーバッグも消えています。
「まったくしょうがないよな。いたいけな新入生を酔いにかこつけて手籠めにしちゃうなんてな。ホント、男の風上にも置けない」
槍須先輩はそう非難しながら笑っていました。でも私の耳にはそれが軽口には聞こえませんでした。初めてのお酒で酔っていたのでしょう。イツロー先輩を信じている本来の私であれば、そんな戯言など軽く一蹴したはず。でもそのときは、ほんの小さな懸念が何十倍にも大きくなった疑惑となって、一気に私の心を黒く覆ってしまった。私のことを好きだと言っていたのに、こんなにもあっさりと裏切られた。そう思ってしまったのです。
その所為でしょうか。すぐそのあとに言われた、外で呑み直すぞ、という槍須先輩の誘いにも強く抗うこともなく立ち上がってしまいました。
お店の下駄箱でよろめきながら靴を履き替えていたら、うしろで槍須先輩が雑談をしていました。相手の四年生は、薄笑いを浮かべながら何か言っています。少し気持ち悪い笑い方だったので印象に残りました。
「ゆかりんちゃんは二年の田中がタクシーで送ってったってさ。まぁ行き先はご自宅じゃないかもしれないけど」
槍須先輩も同じ顔をして笑いました。私はなんだか怖くなってきた。槍須先輩のことも、イツロー先輩のことも。信じていたものが崩れ去って虚空に放り出されたような、そんな気持ちになったのです。
どこかに連れ出されるくらいなら、まだ人の多いさっきの席の方がいい。ファイン先輩は欠席されてたけど、ナイル先輩ならまだ残ってくれてる。そう気づいた私は宴席に戻ろうとしました。そんな私の決断を挫くような強い力が加わえられました。槍須先輩が手首を握ってきたのです。引き戻そうとしても離してくれない槍須先輩に引きずられるまま、無力の私は店の外に連れ出されてしまいました。
「都会の夜は初めてって言ってたよね。誰よりも夜の街をよく知ってるオレ様が、こんな湿気たとこよりもずぅっと楽しい店に案内してやるから」
具体的なことは何も言わず、槍須先輩はただ、もっといいとこ連れてってやるとだけ繰り返して、握り直した私の手を引いていきます。考えてみれば、男の人と手を繋いで歩くのもそのときが初めてでした。
会場だったお好み焼き屋さんから少し離れた小さな交差点で、槍須先輩はタクシーを拾いました。恐くなっていた私は、もう帰りますと懇願したのですが、先輩は笑ってばかりで取り合おうとしてくれません。ドアが開き先に乗るよう促されて背中を押されました。押し込まれるように車内に入るそのとき、遠くから私の名を呼ぶ声が聞こえました。イツロー先輩の声です。戻ってきてくれたんだ。私は気持ちが軽くなるのがわかりました。これで大丈夫。槍須先輩にだっていまの声は聞こえてるはず。
けれどもそんな私の楽天的な希望なんて、あっさりと押し潰されます。
槍須先輩はイツロー先輩の呼び掛けになど構うことなく、車から出ようともがく私を、自分の身体を使ってさらに奥に押し込んできます。そして座席につくと同時に、慣れた口調で知らない街の名前を運転手さんに告げるのです。
大きな音を立てて後部座席のドアが閉まりました。私は振り向きます。後ろの窓から見る視線の先には走ってくる人影が見えました。イツロー先輩。でも、まだ遠い。
私はそこではじめて声が出せたことを思い出しました。
「困ります。私、降ります、運転手さん」
どうしますかと聞く運転手さんに向かって槍須先輩は、いいから行っちゃって、と事も無さげに告げました。
「いつものこと。この子は毎回こうだから」
その言葉の奥で剥き出しになった悪意に、頭を殴られた気がしました。
私、この人と今日初めて遭ったんです。動き出す車の後部座席でそう訴えようとしました。けれど声は出せなかった。口を、唇を唇で塞がれてしまったから。声を上げようと開きはじめていた唇の内側に大きななめくじのようなものが無理やり入ってきて、にちゃにちゃと動き回りました。舌が吸われ、歯茎を舐められる。いつの間にか走り出していたタクシーの車内で延々と奪い続けられる私のファーストキス。気持ち悪い。意味のわからない鋭い刺激が切れ切れの意識に走りました。
一分? 五分?
深く長い無理矢理のキスが続くうちに、頭の後ろに稲妻のように奔る刺激の回数と時間が増えてゆきます。そして、それとともに私の躰から抵抗する力が喪われていくのです。その発見が恐ろしかった。私は私に慄いたのです。




